「庶民」はそんな話を聽くべきではない
「にもかかはらず3――話を振り出しに」より。
松原先生の「空しさ」と福田恆存の「空しさ」は違ふ。なぜなら、松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐるからである。主張と讀者とのミスマッチングによるものである。/このことについては、まだ私は説得されてゐません。
既に書いた事と一部重複しますが、思ひ附く儘に。
(1)知識人業界でしか意味を持たない小難しい話を聽きたさに「庶民」が毎年講演に足を運ぶ筈がありません。松原先生の話に自らを裨益する所があるからこそ、「庶民」は交通費や參加費を拂つて聽講するのです。それを横から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」とは、それこそインテリの思ひ上がりであり、「庶民」を愚弄するものです。前田さんはなにゆゑ、これは「庶民」に相應しい、これは相應しくないと自信満々言ひ切れるのでせうか。「庶民」だつて自分の好みを自分で決めるくらゐの能力はあります。
(2)松原先生は文學を素材に道徳について語りましたが、これは知識人業界だけに限定して報告すべきやうな内容ではありません。寧ろ一般向け、「庶民」向けの主題です。そもそも最近の知識人業界における文學の話題と云へば、「某作家の○○と云ふ作品の何行目に出て來る女性は義姉の△△がモデルとみられ、作者との不倫關係を暗示してゐる」だの「某作家の△月○日の日記には植民地支配を是認するかのやうな記述がある」だのと云つた、それこそ庶民にとつて何の意味も無い事柄ばかりで、文學と道徳と云ふ本來論ずべき主題がまともに取り上げられるとは思へません。
(3)文學批評は知識人の物で、芝居は庶民の物なのでせうか。試しに新宿コマ劇場や寶塚の前に竝んでゐる「庶民」を掴まへて、「いやあ『キティ颱風』つて面白いですね!」とか「『億萬長者夫人』はもう御覽になりましたか?」とか話しかけてみませう。極めて冷淡な反應が豫想される事は明らかです。「庶民」、少なくとも前田さんが想定する「庶民」、愛と希望にばかり關心があるやうな「庶民」が好きなのは、「五木ひろし時代劇スペシャル」とか「ベルサイユのばら」であつて、小難しさうな「新劇」などではありません。福田恆存の意圖は兔も角、現實を見る限り、彼の芝居が「庶民」の心に屆いたとはとても云へません。であるならば、「庶民」をキーワードに福田恆存と松原先生を對照的に論ずるのは不適切と云ふ事になります。松原先生が「空しさ」を感じたとすれば、それは福田恆存の「空しさ」と同じである筈です。私は必ずしもお二人が心から空しいとお感じになつたとは信じませんが。
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コメント
木村様へ
御囘答ありがたうございます。一讀しました。氣になる言葉が一つありました。
横から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」とは、それこそインテリの思ひ上がりであり、「庶民」を愚弄するものです。
私が本當にさういふ風に考へてゐるのなら、たぶん講演會のお手傳ひなどしないでせう。しかも、「松原正論の註」など書きません。言ひがかりに聞えてしまふのは、私の不徳の致すところですが、福田恆存の言説に救はれたことへの思ひが、その直系の御弟子である御方への「批評」となつて自然に出てゐるものです。
インテリとは思つてゐませんが、「思ひ上がり」とおつしやるのであれば、甘んじて受けます。ただ、自信滿滿などではありません。精一杯に「批評」を心掛けてゐるつもりです。
そして、一番の思ひは、來ていただいた方への感謝です。その思ひに對する表現は、木村さんとは違ひますが、拙ブログでも、當日配付した資料でも御分かりいただけると思ひます。「愚弄」などしてゐません。
少し辯解がましいですが。
投稿: 前田嘉則 | 2006年10月 8日 (日) 18時09分