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2006年10月12日 (木)

或るデマゴーグの嘆き

 全くどこのどいつだらう、その不心得者は。前田さんのブログにコメントを寄せた「匿名希望」さんによれば、今囘の論爭の中で「他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間」がゐたらしい。眞劍な言論の場において「デマすれすれ」の流言蜚語を流して相手を貶めようとするとは、口舌の徒の風上にも置けない奴だ。

 え? 何? それは私の事だつて? 「匿名希望」さんによればそれは野嵜さんでも梅澤さんでもないと。それにお前は前田さんの發言を都合良く「要約」して、あたかも前田さんが「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と書いたかのやうな「デマすれすれ」の情報を撒き散らしたと。……そんな話になつてゐたとは全然知らなかつた。當然、ブログの管理人であり言論人である前田さんは「それが木村を指してゐるのだとすれば事實無根だ」と辯護して呉れたんだらうね? え? よく分らない?

 それぢやあ困るぢやないか。まるで私がデマゴーグみたいぢやないか。デマつて云ふのは、關東大震災の時に朝鮮人が井戸に毒を流したとか、隣の主婦は魔女だとか、さう云ふ事實無根の僞情報を指すんだよ。私が何時そんな僞情報を流したんだ。いいかい、前田さんは「松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる」と書き、「講演會の餘談でするのならともかく、[知的誠實を]主題にするのはどうかと思ふ」と書き、「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける[中略]言葉があつても良いではないか」と書き、「庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる」と書き、「知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば」云々と書いたんだよ。これらの文章から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と云ふ結論を導く事がどうして「片言隻句をとらえ」たデマなんだ。「人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」から「ソクラテスは死ぬ」と云ふ結論を導いたら、これもデマなのかね。

 そもそももう一度私の要約を見て呉れよ。「愛も希望も無い話をすべきでない」。これが惡質な僞情報かね。だとすれば、前田さんの眞意はこの正反對なのか? さうすると正しくは「愛も希望も無い話をすべきだ」となつて仕舞ふが、幾ら何でもこれが眞意とは思へない。それぢやあ「愛も希望も有る話をして欲しい」。かうすれば「すべきでない」と云ふ言葉の與へるネガティヴな印象は薄れるから、案外これが正解なのかも知れない。しかし待てよ、「愛も希望も無い話をすべきでない」と「愛も希望も有る話をして欲しい」つて、「悲しい話をすべきでない」「悲しくない話をしてほしい」と同じで、語感こそ違へ結局殆ど同じ意味ぢやないか。それがデマとは非道すぎないか? え? まだ選擇肢がある? 「愛も希望も無い話をしてもよいが、同時に愛も希望も有る話をして欲しい」。成る程、これが前田さんの眞意なのかな。でも一つだけ問題がある。同一人物が同じ時間帯に正反對の趣旨の話をするつて、可能なのか?

 何? 勘違ひをしてゐる? 「匿名希望」さんは私らしき人物の發言を「デマ」とは呼んでゐない、正しくは「デマすれすれ」と? ああさうだつたな。これなら私から「根據も無しに他人をデマゴーグ呼ばはりするな」つて云はれずに濟むもんな。參つた參つた、やつぱりインターネットの世界ぢやあ、かう云ふテクニックを心得てゐないと喧嘩には勝てないよ。

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コメント

「愛も希望も無い話をしてもよいが、同時に愛も希望も有る話をして欲しい」
アー面白い。面白いので、又、横から失礼します。

例えば、左辺の「愛」が「飯島愛」で、右辺の「愛」が「飯森愛」(そんな人知りませんが)だったらどうか?
そうすると「愛が無い」=「愛が在る」となる。
まぁ、どうでもいいわけです。

私が知りたいのは、そして木村さんにこそ語って頂きたいのが、福田さんが横光を論じたように、松原さんは漱石を論じたのか?つまり、何ていったらいいのか、アホクサーと思いながら、漱石を論じたのか?そのことなのですね。
エゴイズムが直接する感傷を、作者と登場人物の距離を敢えて無視し弾劾する松原さんは、それを己に無縁のものとして語ったのか、己が闘うべき宿命として語ったのか?私は、そこが知りたい。

投稿: 世留 | 2006年10月13日 (金) 13時20分

 いやいや愛が有ると無いとの對比であれば福原愛と宮里藍でせう。どうでも良い話ですが。

 少なくも私の見る所、松原先生が「アホクサー」と思ひながら漱石を論じられる事はあり得ません。先生は漱石を尊敬していらつしやいます。漱石が日本人には希有の「自己本位」の人間で、しかし祖國の「他人本位」の文化も捨て切れず、兩者の狹間で煩悶し、かと云つて安直な囘答には安住出來ず、一時は狂氣に到るまで惱み拔き、知的誠實を貫いた文士だからです。それだけに「こころ」に於ける漱石の杜撰が許せず、厳しく批判されるのだと思ひます。松原先生は「こころ」のお蔭で『夏目漱石』の執筆が一年か二年滯つて仕舞はれた筈です。それは先生の悩みの深さと共に昨今の言論界ではなかなかお目に掛かれぬ知的誠實を示すものだと思ひます。

 前田さんは、「こころ」の「先生」が妻に己が惱みを打ち明けなかつた事を、明治時代に於いては自然であり、道徳的に批判するのは筋違ひと考へていらつしやるやうです。しかし私は、道徳が時代によつて異なると云ふ説は一種の「神話」だと考へてゐます。考へてもみて下さい。「先生」の妻は、夫と自分の私生活に關はる重大事を自分でなく、どこの馬の骨とも知れぬ學生に打ち明けられた事を知つて、どんな感情を抱いたでせうか。明治時代であれば、それは當然の事として何も感じなかつたのでせうか。私にはさうは思へない。人間の感情がアダムの昔から全然變つてゐない事は、前田さんの方がお詳しい筈の聖書を讀めば一目瞭然ではありませんか。古事記を讀んでも同じです。人間の感情のあり樣はさう簡單に變るものではありません。従つて、福田恆存が云つたやうに、道徳は變らないのです。

投稿: 木村貴 | 2006年10月14日 (土) 02時21分

 道徳は變らないと云ふと、「それなら江戸時代の忠義は今でもあるのか」と突込みを入れられさうです。それあ、今は殿樣なんてゐませんから、昔のやうな忠義はあり得ませんが、しかし己を買つて呉れた上司の爲ならば、仇討とは云はない迄も、休日出勤くらゐはやつてやらうと云ふ程度の氣概は平成の日本人にもあるでせう。自衞隊と云ふ組織を訪ねれば、さうした氣概をさらに強く實感する事が出來るでせう。

投稿: 木村貴 | 2006年10月14日 (土) 02時37分

 ついでにもう一言。

 戰爭は人を殺す事だから惡い事だ、と色々な人が云つてゐて、そしてその主張はそれだけ取れば一見尤もなやうですが、現實はさう單純なものではありません。

 現實の戰鬪に於いては、「自らを買つて呉れた上司」や「戰友」が傍にゐて、自分が敵を殺さなければ上司や戰友が死ぬかも知れないと云ふ究極の二者擇一の立場に置かれる譯です。當り前の道徳的感情を持つ人間ならば敵を撃つでせう。

投稿: 木村貴 | 2006年10月14日 (土) 03時09分

今度は喜六郎なる人物が何か言つてゐますよ。
困つたものです。

http://logos.blogzine.jp/1/2006/10/post_4641.html#comment-4314497

投稿: 野嵜 | 2006年10月14日 (土) 14時31分

 また出ましたね。出て來るのが揃ひも揃つて知能指數の高さを伺はせる方達ばかりなので、恐怖感を抱いてをります。

投稿: 木村貴 | 2006年10月14日 (土) 21時51分

世留さん、山人です。ひよんな所でお目に懸かりますね。

ところで、「作者と登場人物の距離を敢えて無視し弾劾する松原さん」 との御認識は、ちと違ふやうな氣がします。松原さんは寧ろ、作者と登場人物との間に距離がない事をこそ、そして作者たる漱石がそれに氣附かぬと云ふ迂闊を犯してゐる事をこそ、彈劾と云ふなら彈劾されてゐるのだと、私は理解してゐるのですが。
違つてゐたら御教示下さい。

投稿: 平成山人 | 2006年10月16日 (月) 10時27分

ギャ!見つかってしまいました。
山人様、こんにちわ。

「作者と登場人物との間に距離がない事をこそ、そして作者たる漱石がそれに氣附かぬと云ふ迂闊を犯してゐる事こそ」
となると、深刻でしょう。漱石がですよ。
弱者の自家撞着・自己憐憫・自己欺瞞・不道徳。
そうなのかな?
もし、迂闊ではなく意識していたら・・・。こりゃ救いがないですね。でも、漱石です。善人ではない。
松原さんは、そこにニヒリズムの腐臭を嗅いだのかもしれない。

投稿: 世留 | 2006年10月16日 (月) 19時43分

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