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2006年10月31日 (火)

樂して物を書くな

 反應を期待されてゐるやうなので反應します。

>木村貴氏の事を松原信者だと呼ぶのは、惡意あつての事だらうと思ふ人もゐるだらうが、木村氏はさう自稱してゐるのであつて、この樣な表題としたのは木村氏は「信者」を自稱して嘯く、いささか違和感を抱く人物だと云ふ意味を籠めての事であつて惡意あつての事ではない。私怨も當然ながらない。揶つて樂しむと云ふやうなそんなさもしい精神も持ち合せてゐない。そんな暇もない。結婚して子供もゐるから、實生活で樂しむ事は幾らでもあるのである。

 いや私は正眞正銘、自他共に認める松原信者ですから、松原信者と呼ばれたと云ふそれだけで腹を立てたりはしません。「松原信者」と云ふ呼び方に揶揄する意圖が強く認められる場合は別ですが。

>ところで、木村氏は野嵜健秀氏を高く評價して年下ながらいたく尊敬してゐる樣であり、木村氏を「信者」と云ふ言葉を使つて表現するなら、福田恆存教松原正宗野嵜健秀派信者と云ふ事が出來よう。「信者」はそもそも宗教の信徒を指す言葉であつた樣だから、「信者」を自稱すると云ふ事は當然乍ら宗教信者に擬せられるのも覺悟の上だと思ふがさてどうか。それとも福田教松原宗の信者であるとは云へても野嵜派にはあらずと云ふのであらうか。

 年上だらうが年下だらうが尊敬すべき人は尊敬するし軽蔑すべき人は軽蔑すると云ふのが私の信條です。「年下ながらいたく尊敬してゐる樣」などと云ふ言ひ草は誠に下らぬと思ひます。私は福田恆存ファンであり松原正ファンであり野嵜健秀ファンでありますが、さう公言すると世間の人は何故だか「信者」呼ばはりするのです。「ファン」を「信者」と呼ばれてカチンと來たこともありましたが、今では「まあ別に良いぢやあないか、ファンを信者と呼んでもあながち間違ひではないし」と「覺悟」してをります。中村さんが私を「野嵜派」とお呼びになりたければ御自由に。

>確かに私も彼が登場した時は、松原氏の教へ子であると云ふ事で期待したが、過大評價であつた。一方で違和感が徐々に増幅して行つたが、彼の云つてゐる事が正しいのではないかと云ふ思ひもあり、複雜な思ひを抱き、混亂してゐた。實際、舊サイトを立上げてゐた時も彼に對する批判文を書き投稿しようとした事もあつたが、それは途中で止めてしまつた。私が以前のネット活動で唯一悔んでゐるのは、私の掲示板で野嵜氏に絡まれた人を援護出來なかつた事である。野嵜氏の過大評價等反省すべき點は色々あるが、悔んでゐるのはそれだけであると云つてもいいだらう。

 これについては私から云ふべき事は何もありません。「云ひたいことがあるのなら、別に今からでも遲くはないから云へば良いぢやあないか」と思ふだけであります。

>野嵜氏も最初は謙虚な人であつたと思ふが、あの樣な増上慢にした責任の一端は過大評價して必要以上に持上げ過ぎた私にもあるのではないかと思ふが、もしさうならば、これまた悔まれる事になるが、それは考へ過ぎであらうか。

 「あの樣な増上慢」とは具體的に何なのでせう。根據も無しに他人にレッテルを貼るだけならどこの馬鹿にでも出來ます。

>さて、今囘、「論爭史」騷動の纏め頁を公開しようと思つて野嵜氏の日記での私の批判文や當ブログのコメントへの反論文を書かうと思つて讀み直してみたが、餘りにも酷過ぎる。十分な檢證もせず、自分本意で感情の趨くままに「脊髓反射」的に書いてゐる。しかも品がない。木村氏のブログに據ると福田恆存は感情的になつて書いたと指摘される樣な文章も話を面白くする爲にさう書いてゐるのであると云ふ事だが、なるほどさすがはニヒリスト。野嵜氏も肖つた方がいい。
 
 中村さんが野嵜さんを「十分な檢證もせず」と非難するのであれば、少なくも御自分は「十分な檢證」を示した上で野嵜さんを非難すべきだと思ひますが、中村さんの文章を讀む限り、どこにも檢證の過程は示されてゐません。これでは他人を非難する資格はありません。

>話が横に外れて仕舞ふから軌道修正。野嵜氏の發言が餘りにも酷いので當ブログでのコメントのみを纏め頁に掲載する事にする。いや、立派な文章だよと云ふ人がゐたら指摘して結構だが、野嵜氏のホーム側の人でこのコメント群を評價する人がゐるならば正氣を疑ふ。

 或る文章が「非正氣」かどうかは、その文章のどこがどのやうにをかしいか具體的に指摘しない限り、誰も判斷出來ません。他人の主張の缺陷を具體的に指摘する事は結構骨の折れる作業ですが、この苦労を厭ふ人間に物を書く資格はありません。もし中村さんが他人を根據無く「非正氣」呼ばはりするとすれば、その報ひは即座に自分に返つて來ると云ふ事をお忘れなく。例へば中村さんのブログに、一讀者が特に根據もなく「貴方は生きた化石ですね(笑)」と云ふ感想を寄せても、説得力のある反論は出來なくなります。

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2006年10月27日 (金)

あまカラ氏の言行不一致

 しつこいやうですが、あまカラさんとの「考え方の違いを明確にするために」もう少しく書きます。

 まづあまカラさんの言葉をもう一度引用します。

 木村さんにとっては物事の「本質」と「瑣末(本質でないもの)」というのが簡単に分けられる、あるいは簡単に判別できるとお考えなのですね。/坪内祐三についてトリビアばかりなどと以前書かれていたのもそういう考え方に基づいてでしょう。ただ少なくとも私はそう考えておりません。両者は表裏一体で交じり合っているかもしれない、少なくとも簡単に分けられるものではないと考えております。人間にとって何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない、ということです。

 物事の本質と瑣末は「さほど簡単にわかるものではない」とあまカラさんは仰る。そして「私は[木村のやうに]そう性急に正邪を判定しようとは思いません」とも仰る。しかし少なくも私の眼には、あまカラさんが「性急に正邪を判定しない」と云ふ堅い信念をお持ちだとはとても見えないのです。以下、その根據を申し述べます。

 今年四月十五日、私は「あまカラ氏の誤解」と云ふ文章を書きました。詳しくはそれを讀んで戴きたいのですが、要するにあまカラさんは、講演に於ける松原正氏の「北朝鮮による拉致問題などどうでもいい」と云ふ發言だけを捉へて、御自分のブログ(現在は消滅したやうです)で「まあ、聴衆向けのリップサービスであろうし、大目にみたいところではあるがその神経を疑わざるをえない発言であった」と酷評されたのです。

 しかし松原氏の日頃の主張を知つてゐれば分るやうに、この日の發言は、二十何年も前から問題になつてゐた拉致について、騷げるやうな空氣になつて初めて騷ぎ始める我が國民性の輕佻浮薄、さらにはその輕佻浮薄の根源である「政治以前の問題に無關心な國民性」を批判する爲、半面の眞理を敢へて誇張して述べたものに過ぎません。それが證據に松原氏は同じ講演で、自分がもし総理大臣ならば北朝鮮に乘り込み「もし人質を返さないのなら今後一切附合はない」と云つてやる、とも述べてゐるのです。他の講演でもかう述べてゐます。「國民の中の三百人、千人はおろか一人であつても二人であつても外國に拉致されたのなら、しかも國家意志の發露として國家機關に拉致されたのなら、その犯罪國家に對して武力行使を含めた強硬措置を以て臨むべきです」。

 あまカラさんが本當に「性急に正邪を判定しない」と云ふ堅い信念をお持ちであれば、松原氏の發言について輕々に斷定したりせず、同じ講演での他の發言を照らし合はせる事は勿論、他の講演や著作を周到に調査し、然る後に發言すべきでせう。ところがあまカラさんの實際の行動は違ひました。いとも簡單に「神経を疑わざるをえない」と言ひ放つたのであります。

 あまカラさんは木村に對し「[本質と瑣末は]表裏一体で交じり合っているかもしれない、少なくとも簡単に分けられるものではない」と主張されました。しかし松原氏の「北朝鮮による拉致問題などどうでもいい」と云ふ發言と「人質を返さないのなら今後一切附合はない」と云ふ發言は正に表裏一體ではありませんか。もし「性急に正邪を判定しない」「本質と瑣末は表裏一體」があまカラさんの常に忘れぬ信念であるのならば、輕々に一方の發言だけを本質的なものとして取上げたりする筈はありません。あまカラさんは自らの言行不一致にお氣附きになつてゐないのでせうが、實際には盛大に「性急な判定」をやらかしてゐるのです。

 さう云へばあまカラさんによれば物事を性急に判定しない筈の坪内祐三氏も、正字正假名表記の實踐をいとも簡單に「コスプレ」などと決附けてゐましたね。あまカラさんの言葉を借りれば、正字正假名表記が「コスプレでない」と云ふ「反論だって十分可能」だと思ひますが、如何ですか。坪内氏の判定は性急でないと仰いますか。

 私は四月に書いた文章で、あまカラさんの松原氏に對する一方的斷罪は不當であると根據を示して反論しました。しかしそれから半年、私が見落してゐるのでなければ、あまカラさんからは何の反應もありません。今囘、久し振りにコメントを寄せて下さつたのを機に言及して下さるかと内心期待したのですが、やはり一言もありませんでした。議論を通じて自らの思考を深めて行きたいと望む私にとつては甚だ殘念ですが、他人に發言を強要する事は出來ません。我が國においてはよろづ「沈默は金」なのであります。

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2006年10月26日 (木)

人間に議論は可能か

 アメリカの哲學者であり批評家のジョージ・サンタヤナは、今世紀末に書いた評論『シェイクスピアの宗教不在』の中で、シェイクスピアの世界は〈人間社會だけを扱つてをり彼には宇宙觀がない〉、さらにシェイクスピアは〈實に華やかで變化に富んだ人間生活を描いてはゐるが、その生活は背景と切り離されてゐるため無意味なものになつてゐる〉と苦言を述べてゐる。實際このシェイクスピアに對する見方はしばらくの間一般に廣まつた見解であつたが、その後の研究や調査の結果、これは必ずしも誤りがないわけではないといふことが判明した。[中略]本質的にはキリスト教的なものを含んでゐる宇宙觀について多少の智識をもたなければ、シェイクスピアの作品の解釋は誤つたものとなるであらう。(M.M.バダウィ『シェイクスピアとその背景』、69頁、河内・兼谷譯)

 シェイクスピアの作品世界が全く世俗的なものであると云ふジョージ・サンタヤナの主張は、その後の學問的成果に照らせば「誤り」である事が判明した。サンタヤナは馬鹿な男である。彼にとつて「瑣末」にしか見えなかつたシェイクスピア劇の宗教的要素は、實は「本質」的なものであつた。「性急に正邪を判定しよう」とせず、じつくりと學問の進歩を見極めてゐれば、このやうな誤りを書かずに濟んだのに――。

 ……と云ふ言ひ草こそ「誤り」である事にあまカラさんも同意されると思ふ。假に誤つてゐたとしても、サンタヤナは自分なりの根據を擧げつつ持論を展開したのである。もしそのやうなやり方で「正邪を判定」する事すら輕率で慎むべき行爲であるとするならば、全能でもなければ不死でもない人間が「正邪」について書いたり議論したりする事はそもそも不可能である。

 何だか當り前の事を大袈裟に書いて仕舞つた氣がするが、あまカラさんと私との「考へ方」の違ひを明確にする爲には、このやうな云はずもがなの事も書いておいた方が宜しからうと。

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論爭は修行の場

 あまカラさん、再びコメント有り難う御座います。

 価値観を「押し付ける」というほどのものじゃないんですが、木村さんとの考え方の違いを明確にするために書いただけです。私はそう性急に正邪を判定しようとは思いません。

 それはまたまた奇遇です。私もあまカラさんとの考へ方の違ひを明確にするために、かうして書いてゐるのです。喜六郎氏への批判も同樣の目的から書いたものです。相手から納得の行く反論を受ければ、自分の「正邪の判定」を修正する積もりですし、インターネットで物を書き始めて以來、實際さうして來ました。あまカラさんがどうして私の事を「性急に正邪を判定」する人間だといとも「簡単」に「判定」出來るのか分かりません。やはり私の不徳の致すところなのでせう。

 木村さんが「つまらない喧嘩」をしていると思っていることは事実ですが、別に喜六郎なる人物などそもそも相手にしなければいいじゃないか、という程度の意味です。

 自分の考へ方を明確にするために書いてゐるのですから、誰を相手にしても良いと思ひますよ。今囘も論語について勉強できましたし。

 まあこのへんでやめておきます。

 またいらつしやつて下さい。

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アンチ松原クオリティ

 「喜六郎の小屋」より。

謝れ!夏目漱石に(ry 小説の物語の展開上の不備と論語の誤解釈を同列に論じる木村氏の知的センスには恐れ入る他ないですね。 「人間通になる読書術」は小説ではないし、ましてや松原さんの誤謬は「物語の展開上の不備」などではない。 こういう、同列に論じられないものを同列に論じ、あたかもそれが正しい認識であるかのように喧伝する、それが松原信者クオリティ。

松原さんの誤謬というのは、誤字・脱字というような可愛いものではありません。
松原さんは「人間通になる読書術」の中で、山本七平の論語本を批判しているわけですが、山本の論語解釈を批判している人が、論語の初歩的な(呉智英氏によれば、高校漢文程度の学力を疑われるほどのミスらしい)誤読を犯してはまずいと思うのですがね。
木村氏が言うところの「質的杜撰」ってやつではないでしょうか?

 喜六郎氏は日本語が讀めないやうなので再掲します。

 [前略]松原氏の誤謬は、主張の本質に關はる質的杜撰ではない。孔子は食事こそ忘れなかつたかも知れないが、「時には激しく怒つた男」である事は、それこそ「論語」に明らかではないか。天下に道が行はれぬ事を憤り、講義中に晝寢をしてゐた宰予を叱責し、顏淵の若い命を奪つた天を恨んで叫んだ。「怒りを遷さず(八つ當たりをするな)」とは云つたが、怒りそのものは否定しなかつた。随つて「『人間通になる読書術』 は駄本ということになる」と云ふ喜六郎氏の主張は誤りである。

 ああ樂で良いな。かう云ふブログなら毎日更新出來るよ。

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續・あまカラ氏の誤解

 あまカラさんのコメントにこちらで囘答します。

 木村さん、ご無沙汰いたしております。本当に久しぶりに書き込みます。

 こちらこそお久しぶりです。

 私はもはや松原正という人物に関心がないので、彼への批判の当否についてはここでは論じません。ただ、木村さんにとっては物事の「本質」と「瑣末(本質でないもの)」というのが簡単に分けられる、あるいは簡単に判別できるとお考えなのですね。

 全てを「簡単に分けられる」「簡単に判別できる」などとは考へてゐません。どうしてそんな「簡単に」私の考へを決め附ける事が出來るのか理解に苦しみます。私は、判別が困難な場合、判別が簡單な場合、及びその中間の樣々な難易度の事柄があると考へてゐます。今囘の場合、判別は比較的簡單だと考へたに過ぎません。あまカラさんは、あらゆる場合に於いて本質と瑣末の峻別は同程度に困難だとお考へなのでせうか。
 

 坪内祐三についてトリビアばかりなどと以前書かれていたのもそういう考え方に基づいてでしょう。ただ少なくとも私はそう考えておりません。両者は表裏一体で交じり合っているかもしれない、少なくとも簡単に分けられるものではないと考えております。人間にとって何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない、ということです。

 簡單に分からない場合もありますが、比較的簡單に分かる場合もあります。少なくとも私はさう考へてをります。さもなければ、例へば新聞記者が限られた行數で何を書くかと云ふ判斷はいつまでたつても不可能です。「何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない」などと惱んでゐるうちに締切時間を過ぎて仕舞ふでせう。少なくも私にとつて、今囘喜六郎氏に論駁する上で必要な本質と瑣末の區別は、締切の定まつた新聞記事と同程度に容易でした。その區別の仕方が杜撰だと仰るのなら、具體的に指摘して戴かなければ議論になりません。

 坪内氏の処女作のタイトルだる「ストリートワイズ」という言葉はあらかじめ何が本質か何が瑣末かを分けてしまう考え方への拒否、そういう精神の表れであったと考えており、私は決して坪内氏と考えがすべて一致するわけでありませんが、この精神には大いに共感しています。木村さんはここで喜六郎なる人物の指摘を「本質的なミスでない」と退けておられるようですが、「それは本質的なミスだ」という反論だって十分可能で、両者の白黒なんて簡単につけられないと思いますよ。

 繰り返しになりますが、「『それは本質的なミスだ』」という反論が「十分可能」であると云ふ事を具體的に示して戴かない限り、返答のしやうがありません。だつて私は、そんな反論は決して「十分可能」でないとそれなりの根據を示して主張してゐる譯ですから、何の論據も示さず「十分可能」と云はれたつて困ります。「樂で良いなあ」とは思ひますが。

 「何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない」と云ふあまカラさんの主張は一般論としては成り立つかも知れませんが、個々の議論に於いては「さほど簡単に」分かる場合もあると云ふ事を前提に私は議論してゐるのです。特定の議論で本質と瑣末を比較的簡單に區別したからと云つて、微妙な問題に於いても亂暴な區別をやらかす單細胞のやうに云はれては堪りません。

 誤解してほしくないのですが、私はここで木村さんを批判しているわけではありません。福田恆存の言うように、「思想とは本来、論争するものではない」「思想は自らの弱点は弱点として自らを完成するもの」だと思います。たまたま今回の文章で考え方の違いを改めて実感したので書き込んだまでです。

 それは奇遇ですね。私も論敵をやつつけるためだけの論爭をしてゐる積もりは全く無いのです。己の弱點を克服する修行の場だと思つてやつてゐます。只の喧嘩にしか見えないとすれば不徳の致すところです。一つだけ云ひたいのは、「さほど簡単にわかるものではない」と云ふ信條を力説する人が、他人の言論活動の動機や意圖をさう簡單に斷定して貰つては困ると云ふ事です。

 福田氏は論争のとき、相手の自分と食い違う意見にも常に「あなたの言うことも正しいのだ」と考えてしまう人でした。私も「木村さんの言うことも正しい、だが、私の考え方とは違う」と思っております。だが木村さんはどうやら両者の白黒を簡単につけられると思ってしまう方らしい。だからネット上でつまらない喧嘩ばかりされているのではないでしょうか。

 「木村さんの言うことも正しい、だが、私の考え方とは違う」と云ふのはあまカラさんの信條ですね。他人に自分の信條を當て嵌めて、「喜六郎さんの言ふことも正しい、だが、私の考へ方とは違ふ」と云ふ態度をとらない木村を「つまらない喧嘩ばかり」してゐる奴と決め附けるのは、如何なものでせうか。あまカラさんはそのやうな御自分の態度が正しいと「簡単にわか」つた上で御發言されてゐるのでせうか。

 不可知論・價値相對主義を己の信條として掲げる人が他人にその價値觀を押し附ける姿は、誠に皮肉ですが、屡々眼にする光景であります。「あなたの考へは正しい」と云ひながら、實は正しくないと云ふ本音を忍び込ませる語り口は、「あなたの考へは正しくない」と明確に主張する態度に比べ、甚だいかがはしいものだと思ひます。

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2006年10月25日 (水)

まぁ反論は出來ないでせうが

 喜六郎氏、どうしてうちのコメント欄に書かないのだらう。滅多に見ない2ちゃんねるのどこにあるやら分らないスレッドの926番目だかに書かれても、氣附かないのだから反論のしやうが無い。存在を知らない批判には御釋迦樣だつてイエス・キリストだつて反論出來ない。どこでどんな松原批判を書かうと自由だが、それに「松原信者」が氣附かないからと云つて「まぁ、言うまでもなく彼らは非難しないでしょうが」などと得意顔をするのは知能指數の不自由な人のやる事である。

 それでは、知能指數の不自由な人が書いた松原批判及び「松原信者」批判を木端微塵に粉碎する。

 言葉遣ひに几帳面だつた森鴎外と異なり、夏目漱石の文章には好い加減な宛字が隨分出て來る。「坊つちやん」で云へば「瓦落多(がらくた)」「八釜(やかま)しい」「六(む)づかしい」等。それから論理性にも無頓着な所があつて、同じく「坊ちやん」の冒頭、西洋ナイフで指を切つてみせようとする插話で「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」とあつて、右の指を切るには左でナイフを持つ左利きでなければならず、何かの伏線かと思はせるのだが、結局物語の展開上、坊ちやんが左利きである必然性は何も無い。

 さて、以上のやうな部分的缺陷を理由として、松原正氏は「坊つちやん」を全體として駄目な作品と斷じるだらうか。否。それどころか漱石の作品中、最も高く評價してゐる。講話などで漱石の表記は好い加減だと指摘した事はあるが、「部分が駄目なら全體が駄目」とて「坊つちやん」をこき下ろした事なぞ一度も無い。

 では「部分が駄目なら全體が駄目」と云ふ主張を掲げつつ、部分的缺陷の存在する「坊つちやん」を高く評価する松原氏の態度は矛盾してゐるのか。これも否。常識で考へてみよ、一體全體どこの世界の批評家が、高々宛字の多用や物語の本筋に關はらぬ插話の不整合と云つた程度の部分的缺陷を以て、或る文學作品の「全體が駄目」などと斷定するものか。

 このやうに書いて來れば、普通の思考力を持つ讀者なら「ははあ松原氏の『部分が駄目』とは、どうやら單に『誤謬や誤字脱字が存在する』と云ふ意味ではないのだな」と理解する事だらう。普通の思考力があれば。

 要するに、松原氏は控へ目に「部分」と云つてゐるものの、これまで批判の対象になつた西尾幹二やら西部邁やらの文章を一讀すれば明らかなやうに、「部分」なんて生易しいものぢやあない。もうそこら中に杜撰な言葉遣ひが目白押し(量的杜撰)で、しかもその杜撰の中身は彼らの主張の本質に關はるもの(質的杜撰)なのだ。例へば松原氏が批判した西尾幹二の文章

 なぜ私にことさらにこの質問を? と反問したら、つねづね傳統價値を主張している日本人に、日本社會で使われてきた暦が消えていくことによってその暦で培われてきた文化が失われていく危險性を感じていないかを知りたいためだ、といふ應答である。こう言われると私は、さりげなく、たいして氣にもかけてゐませんよ、と本能的に防戰する構えになる。

 具體的「缺陷」がどこかは松原氏の批判を參照して貰ふとして、この短い文中、松原氏が指摘しただけで三箇所もある(量的杜撰)。一頁中、一論文中は推して知るべし。そして杜撰な日本語を大量に使つて平氣でゐる事は、「傳統價値」を主張する西尾の立場と完全に矛盾する(質的杜撰)。かつ引用元の西尾の論文は全體としても支離滅裂である。これぞ正しく「部分が駄目なら全體が駄目」と云ふ言葉が意味するところなのである。そして西尾のこの文章に限らず、松原氏が「添削」しながら斬り捨てるのは、杜撰を質量ともに露呈した救ひやうの無い極め附きの駄文ばかりなのである。斬る前にまづ斬るべき相手の「全體」を見定め、然る後に相手が本質的缺陷をさらけ出した「部分」を衝く。だからこそ間違つても宛字を種に漱石を斬るなどと云ふ勘違ひをやらかす事は無いのである。以上、アンチ松原派が鬼の首を取つたやうに囃し立てる「松原正の添削は單なる揚足取り」と云ふ「誤謬」を正した。證明終。

 さて、最後にやつとこさ本題である。喜六郎氏が2ちゃんねるに書いたと云ふ文章を全文引用する。

926 :吾輩は名無しである :2006/10/24(火) 17:32:49  松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。/『が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を忘れ」た男たのだ。』/論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に) 発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。このことは呉智英が指摘しているし、岩波文庫から出てる「論語」にも普通に記載されている。 /「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、「人間通になる読書術」 は駄本ということになる。

 慥かに「発憤亡食」は「(学問に)発憤して食を忘れ」と云ふのが正しい解釋で、「怒りのあまり食を忘れる」と云ふ意味ではない。随つて松原氏の解釋は誤りである。しかし、だから何なのだ。第一に松原氏の文章には、殆ど毎行の割合で誤りをやらかす西尾のやうな量的杜撰はない。第二に松原氏の誤謬は、主張の本質に關はる質的杜撰ではない。孔子は食事こそ忘れなかつたかも知れないが、「時には激しく怒つた男」である事は、それこそ「論語」に明らかではないか。天下に道が行はれぬ事を憤り、講義中に晝寢をしてゐた宰予を叱責し、顏淵の若い命を奪つた天を恨んで叫んだ。「怒りを遷さず(八つ當たりをするな)」とは云つたが、怒りそのものは否定しなかつた。随つて「『人間通になる読書術』 は駄本ということになる」と云ふ喜六郎氏の主張は誤りである。

 私は松原信者なので、本質的な事柄にしか關心が無い。少なくとも關心を向けぬやう努めてゐる。あり得ない事だが、萬が一、松原氏が西尾西部のやうな質量共に杜撰な文章を或る日突然綴り始めたら、勿論全力で批判する。しかし喜六郎氏が得意氣に指摘したやうなドウデモイイ間違ひを材料に松原氏を大眞面目に攻撃したりすれば、私は馬鹿ですと世間に宣傳するやうなものである。隣近所の手前もあるのでそれだけは勘辨して貰ひたい。本質的な誤りと非本質的な間違ひを區別出來ない馬鹿にだけはなりたくないものだ。

 蛇足だが、喜六郎氏には今後、同じアンチ松原派の「誤謬」をきちんと批判して貰ひたいと思ふ。まぁ、言うまでもなく彼は非難しないでしょうが。

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2006年10月18日 (水)

英語は學びたい者が學ぶべし

 やや舊聞に屬するが、伊吹文明文部科學大臣が小學校での英語必修化に否定的な見解を示し、贊否兩論を呼んだ。或る人は英語よりも先づ國語をしつかり身に附ける事が先決と云ふ文相の意見に贊意を示し、或る人は語學の習得は幼少時に始めるに如くは無いから小學校での英語教育を飽く迄も實現すべきだと云ふ。私にはどちらの議論も片手落ちに見える。

 義務教育であらうが「高等」教育であらうが、英語を學ぶか學ばないかは子供自身及びその親が決めるべき事である。勉強したければすれば良いし、したくなければ止めれば良い。その結果、或る子供らや親は「英語を勉強して良かつた」「英語以外の勉強に時間を割いて良かつた」と喜ぶかも知れないし、別の子供らや親は「英語を勉強しておけば良かつた」「英語なんぞ勉強せず他の勉強に時間を割けば良かつた」と悔やむかも知れない。しかしそれで良いではないか。誰も他人の人生に責任を負つては呉れない。一度しかない人生を生きるのは自分自身しかゐない。「後悔するかも知れない」と云ふ恐れを常に抱きつつ、覺悟を決めて何かを撰び取る行爲の連續、それが人生に外ならない。

 教育の内容や學校は自由に撰擇出來るやうにすべきだ。現在の義務教育制度では學區が定められてをり、學校を撰ぶ事が出來ない。引越でもしない限り、どんな「偏向」教師や不良生徒がゐる學校でも我慢して通ひ續けなければならないし、どんな好い加減な學校でも公立なら潰れる事は無い。學校を公費で運營するのでなく、家庭に教育費を直接支給し、公立私立を含めた樣々な選擇肢から好きな學校を撰べるやうにすべきだ。それが眞の「個性尊重」ではないか。

 英語を教へる教へないも、學校によつて考へ方の違ひがあつて良い。英語を勉強したい生徒は英語の授業のある學校へ行けば良いし、他の科目に時間を割きたい生徒は他の學校を撰べば良い。さうすれば少なくとも「英語を教へるべきか教へないべきか」などと云ふ不毛な議論を國會で延々としなくて濟むやうになる。いつその事、教科書檢定などと云ふ代物も無くし、教科書を學校や學級で自由に撰べるやうにすれば、政府が「近鄰諸國」から教科書の中身について文句を言はれる心配も無くなるだらう。

 教育「制度」は政治の領域に屬する事かも知れないが、教育そのものは道徳の領域に屬する事である。どんなに立派な制度、校舍、教科書を揃へても、立派な教育が出來る譯ではない。だから義務教育を含め、政府に教育を任せるのは間違つてゐる。

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2006年10月16日 (月)

政治と文學の結託

 松原正先生の十五日の東京講演會、無事に終つたやうですね。「夜の部」も盛り上がつたやうで何よりです。今囘、殘念ながら仕事の都合で參加出來ませんでしたが、次囘は是非。

 昨日、圖書館で借りたヴィンセント・B・リーチ『アメリカ文學批評史』より。

 アレン・テイトは、『詩と思想に關する反動的エッセイ』(一九三六)と臆することなく題した著作の中で、政治と詩の間のいかなる關係をも非難してゐる。《政治的詩と呼ばうとも、あるいは詩的政治と呼ばうとも、それは互ひを浸食しあふことによつて生きてゐる二者からなる社會なのである。最後には兩者をむさぼり食ふやうになる。それは精神的キャニバリズムなのである。》政治と詩の繋がりに對するこのやうな「宗教的」非難こそ、後にも先にも新批評を特徴附けるものであつた。(45頁、高橋勇夫譯)

 アレン・テイトが上のやうに書いた時、具體的に念頭にあつたのは當時隆盛を誇つてゐたマルクス主義批評でしたが、マルクス主義批評に限らず、政治と文學の結託がおぞましい物であると云ふ指摘は誠に尤もであります。

 ところでアレン・テイト氏、何となくどなたかに似てゐると思ひませんか、松原ファンの皆樣。

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2006年10月12日 (木)

或るデマゴーグの嘆き

 全くどこのどいつだらう、その不心得者は。前田さんのブログにコメントを寄せた「匿名希望」さんによれば、今囘の論爭の中で「他人の片言隻句をとらえて、ほとんどデマすれすれの、自分の都合のいい方向に議論を持っていく人間」がゐたらしい。眞劍な言論の場において「デマすれすれ」の流言蜚語を流して相手を貶めようとするとは、口舌の徒の風上にも置けない奴だ。

 え? 何? それは私の事だつて? 「匿名希望」さんによればそれは野嵜さんでも梅澤さんでもないと。それにお前は前田さんの發言を都合良く「要約」して、あたかも前田さんが「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と書いたかのやうな「デマすれすれ」の情報を撒き散らしたと。……そんな話になつてゐたとは全然知らなかつた。當然、ブログの管理人であり言論人である前田さんは「それが木村を指してゐるのだとすれば事實無根だ」と辯護して呉れたんだらうね? え? よく分らない?

 それぢやあ困るぢやないか。まるで私がデマゴーグみたいぢやないか。デマつて云ふのは、關東大震災の時に朝鮮人が井戸に毒を流したとか、隣の主婦は魔女だとか、さう云ふ事實無根の僞情報を指すんだよ。私が何時そんな僞情報を流したんだ。いいかい、前田さんは「松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる」と書き、「講演會の餘談でするのならともかく、[知的誠實を]主題にするのはどうかと思ふ」と書き、「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける[中略]言葉があつても良いではないか」と書き、「庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる」と書き、「知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば」云々と書いたんだよ。これらの文章から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と云ふ結論を導く事がどうして「片言隻句をとらえ」たデマなんだ。「人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」から「ソクラテスは死ぬ」と云ふ結論を導いたら、これもデマなのかね。

 そもそももう一度私の要約を見て呉れよ。「愛も希望も無い話をすべきでない」。これが惡質な僞情報かね。だとすれば、前田さんの眞意はこの正反對なのか? さうすると正しくは「愛も希望も無い話をすべきだ」となつて仕舞ふが、幾ら何でもこれが眞意とは思へない。それぢやあ「愛も希望も有る話をして欲しい」。かうすれば「すべきでない」と云ふ言葉の與へるネガティヴな印象は薄れるから、案外これが正解なのかも知れない。しかし待てよ、「愛も希望も無い話をすべきでない」と「愛も希望も有る話をして欲しい」つて、「悲しい話をすべきでない」「悲しくない話をしてほしい」と同じで、語感こそ違へ結局殆ど同じ意味ぢやないか。それがデマとは非道すぎないか? え? まだ選擇肢がある? 「愛も希望も無い話をしてもよいが、同時に愛も希望も有る話をして欲しい」。成る程、これが前田さんの眞意なのかな。でも一つだけ問題がある。同一人物が同じ時間帯に正反對の趣旨の話をするつて、可能なのか?

 何? 勘違ひをしてゐる? 「匿名希望」さんは私らしき人物の發言を「デマ」とは呼んでゐない、正しくは「デマすれすれ」と? ああさうだつたな。これなら私から「根據も無しに他人をデマゴーグ呼ばはりするな」つて云はれずに濟むもんな。參つた參つた、やつぱりインターネットの世界ぢやあ、かう云ふテクニックを心得てゐないと喧嘩には勝てないよ。

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2006年10月11日 (水)

理由無き反抗

 前田さんはなぜ「庶民」の代理人のやうな顏が出來るのですか、と云ふ私の問ひに對し前田さんはコメントでかう返答された。

 私が庶民で、庶民の一人として書きました。木村さんも庶民として、私の考へを否定するのでせう。それだけのことではないですか。見解が違ふといふことです。それで良いのではないでせうか。[中略]/木村さん自身もあの會場にゐる人すべてに尋ねたわけではないでせうから、私の考へが庶民を愚弄したものかどうかは分かりませんよね。/私は、私の感じたことを庶民を代表して言つてゐるのではありません。一人の庶民として、そして講演會を御手傳ひした者として、どうしたら多くの人に來てもらへるかを考へて書いたまでです。

 ちよつと考へるだけでも多くの疑問が湧いて來る。 

(1)前田さんは福田恆存に關する著作があり、文學に關する多數の論文をお書きになり、「北村透谷研究會・日本演劇學會・日本カウンセリング學會」等に所屬し、「早稻田文學」を講讀していらつしやる。さてこのやうなプロフィールを持つ人は「知識人」だらうか「庶民」だらうか。極めて恣意的な定義でもしない限り、「庶民」に入れるのは無理だと思ふ(なぜ思ふのか根據は云はない。私がさう思ふからさうなのである)。

(2)前田さんは「研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない」(強調木村)と、「私たち」と云ふ言葉を主語にしてゐる。「私」ではない。これはどう見ても「庶民の代表」と云ふ意識で書いた文章である(なぜさうなのか理由は云はない)。

(3)私、木村は「庶民」として何かを云つた事など一度も無いのに、何で前田さんは「木村さんも庶民として、私の考へを否定するのでせう」などと、他人の動機をとんでもなく不正確に「要約」して仕舞ふのだらう。そもそも前田さんに「庶民」の定義すらまだ説明して貰つてゐないのだから、「庶民」の立場で何か云へる道理が無い。

(4)福田恆存と渡部昇一は同じ知識人で、見解が違ふ。それだけのことではないですか。あれ何か變な文章だな(どこが變かは説明しない)。

(5)「庶民」の中には樣々な好みがあると云ふ當然の現實を無視して、「庶民にこんな話は不向きだ」(この「要約」は大丈夫でせうか)などと開明君主よろしく決め附けるのは、立派な大人を「愚弄」してゐるとしか表現出來ない(説明省略)。さらに前田さんは「あの會場にゐる人すべてに尋ねたわけではない」から「私の考へが庶民を愚弄したものかどうかは分かりませんよね」と平然と仰るが、「知的誠實」よりも「愛」を強調する方とは思へない御發言である。たとへ一人でも愚弄する恐れがあるのなら、そのやうな發言は慎むのが「愛」ではないだらうか(と思ふのだが理由は云はない)。

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2006年10月10日 (火)

反論とは何か――「愚弄」について一言

 かつて福田恆存は「賣文業者をたしなめる」で渡部昇一を批判してかう書いた。

 あなたの正體は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出來ると一途に思詰めてゐる野郎自大の成上がり者に過ぎぬではないか。

 これに對し渡部昇一はすかさず「反論」した。以下はその全文である。

 私は共産主義者ではないし、「人間の不幸はすべて金で解決出來ると一途に思詰めてゐる野郎自大の成上がり者」でもない。

 急いで白状するが、これは私が拵へた架空の「反論」であつて、渡部昇一が書いた文章ではない。しかし假にこれが渡部の書いた「反論」だつたとしたら、讀者はどう反應するだらうか。「こんな物、反論になつてゐないぢやないか」。さう嗤ふに相違ない。福田は渡部を「共産主義者と同じ」「夜郎自大の成上がり者」と罵倒するに先立ち、その客觀的根據を明確に述べてゐる。若し渡部が福田に反論するのであれば、福田の述べた根拠を論理的に論破しなければならない。「私は共産主義者ではない」と主觀的に否定するだけでは反論と呼べないのである。

 私の知る限り、渡部が福田の批判に應へる事は無かつた。完璧な論難に返す言葉が無かつたのか、「共産主義者」「成上がり者」と云つた無禮千萬な表現に立腹したのか、福田の批判が「文章の添削」の如き詰まらぬ内容だつたので無視したのか、それは分らない。分らないが、渡部は反論しなかつた。そのやうな「黙り」は我が國の論壇では珍しくない。斯くの如き「論」壇に福田恆存は「空しさ」を感じざるを得なかつたし、弟子の松原正もやがて同樣の「空しさ」を痛感する事に相成つた。

 渡部昇一が自らを「夜郎自大の成上がり者」と認めてゐた筈が無いのと同樣、前田嘉則さんも自らが「庶民」を「愚弄」してゐるなどとは露ほども思つてゐないだらう。當然である。誰しも主觀的には善意の人なのである。

 前田さんのブログの副題は「保守の言説の再生をはかるために」である。保守の敵は誰か。革新であり左翼である。しかし左翼の思想的親玉であるルソーもマルクスも、主觀的には竝外れて善意の人だつたのである。前田さんが「保守」を自認するのであれば、ルソーやマルクスが犯した過ちに、すなはち善意を善と取り違へる過ちに、人一倍敏感でなければならぬ筈である。福田恆存はさうした主觀的善意、詰まり獨善を常に警戒してゐた。だから客觀的論證に言葉を盡くした。論理を突詰め、修辭を驅使し、誰の眼にも物事の筋道が分るやうに説いた。私はさう云ふ福田恆存を尊敬する。

 私は議論の焦點を誰の眼にも分りやすくする爲に、又、失禮を承知で前田さんを敢へて挑撥する意圖もあり、論理的内容を歪めない範圍で最も「どぎつい」表現を使つた。「愛も希望もない話をすべきでない」や「愚弄」はその一部である。「共産主義者」「成上がり者」と罵詈を浴びせられた渡部昇一同樣、前田さんも隨分氣を惡くされた事だと思ふ。前田さんが温厚な紳士である事は百も承知であり、正直云つてこちらとしても心苦しい。しかしそのやうな方だからこそ、主觀的善意を絶對視するやうな今囘の議論の仕方には強く異を唱へざるを得ない。又、これは誠に勝手な言ひ分だが、前田さん御自身もブログを訪れた梅澤さんに對し「正氣だらうか」と相當「どぎつい」言葉を浴びせていらつしやつた(それに對する梅澤さんの鷹揚な對應は立派であつた)のだから、私の暴言も大目に見て戴きたいと思ふ。

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2006年10月 9日 (月)

要約は正確な筈ですが

 前田さん、再びコメント有り難う御座います。しかしどうも良く解りません。

 私の引用は正確ですが、要約は違ふと思ひます。松原先生の講演の要約ほど正確ではありませんね。

 私は前田さんの一連の發言を 「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と要約しましたが、前田さんは「違ふ」「正確ではありません」と仰る。しかしそれは筋が通りません。引用から自明だと思ひましたが、仕方無いので諄いのを承知で書く事にします。

 まづ(8)「松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる」を(8’)「松原先生は庶民に語るべきでないことを庶民に傳へてゐる」と書替へても同義です。前田さんは今囘の議論で「知識人に語るべきこと」=「庶民に語るべきでないこと」と云ふ立場ですから。次に(8’)をさらに(8’’)「松原先生が庶民に傳へてゐることは庶民に語るべきでないことである」と書替へても同義です。「魔女は毒林檎を白雪姫に渡した」を「魔女が白雪姫に渡したのは毒林檎である」と書替へても同義であるのと同樣です。

 さて(8’’)のうち「松原先生が庶民に傳へてゐること」を「こんな愛も希望も無い話」と論理的に同義として書替へる事は可能でせうか。可能である事を以下示します。まづ(1)「研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける[中略]言葉があつても良いではないか」のうち、「漱石の誤讀のされやうを批難」とは正しく(8’’)の「松原先生が庶民に傳へてゐること」に相當します。一方、その松原先生の話に對し、前田さんは「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける[中略]言葉があつても良いではないか」とお書きになつてゐます。「あつても良いではないか」は「無い」と同義です。すなはち「松原先生が庶民に傳へてゐること」は「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける言葉が無い」と言替へる事が出來ます。そこで(8’’)の「松原先生が庶民に傳へてゐること」に「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける言葉が無い話」(文章構成の都合上「話」を附加)を〝代入〟しませう。すると(8’’’)「誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける言葉が無い話は庶民に語るべきでないことである」となります。不要な形容句を略し、「庶民に語るべきでないことである」を簡略に「すべきでない」に書替へ、(8’’’’)「人人を勇氣附ける言葉が無い話はすべきでない」とします。ここまで宜しいでせうか。

 後は「人人を勇氣附ける言葉が無い話」が「愛も希望も無い話」と論理的に同義になり得るかどうかです。なり得る事は明らかです。前田さんは今囘の議論で「勇氣」と「愛」「希望」を竝列的に、松原先生の話に缺けてゐる價値として記述してゐるからです。また、假に松原先生の講話に愛や希望が有るとしたら、そもそも前田さんが今囘のやうな批判をお始めになる理由がありません。そこで(8’’’’)の「人人を勇氣附ける言葉が無い話」を「愛も希望も無い話」で置換へます。すると(8’’’’’)「愛も希望も無い話はすべきでない」となります。松原先生の當日の講話を指す意味の「こんな」を加へ、助詞「は」を「を」に置替へる事に異論は無いでせう。よつて、前田さんの一連の發言から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と云ふ要約を導く事は論理的に正しい。以上、證明終。

 さて前田さんにお尋ねしたいのは以下の點です。

 (Q1)上に示した通り、私の要約は論理的に正確な筈なのですが、それを「違ふ」「正確ではありません」と仰つたのは何故でせうか。單なる主觀でなく客觀的な根據をお示し下さい。
 (Q2)私の要約が不正確だとすれば、前田さん御自身による正しい要約はどうなりますか。御自身の一連の發言と矛盾の無い要約をお示し下さい。
 (Q3)私の要約と前田さん御自身による要約との相違は、今囘の議論を進める上で無視出來ぬほど論理的に大きな意味を持つものでせうか。持つとしたらそれは何でせうか。

 我ながら喧嘩腰の申し譯ない文章であるとは思ひます。しかし眞劍に討議してゐる以上、議論の核心に關はる部分で、あなたの要約は不正確ですと理由も示さず宣言されただけで引き下がる譯には行きませんし、後々議論が噛み合はなくなる恐れもあります。お答へ戴ければ幸ひです。

 他にも「愚弄」の件、「庶民の代理人」の件など書くべき事はありますが、日を改めます。一點だけ。

>ところで、今私は、木村さんと何を求めて議論をしてゐるのでせうか。分からなくなりました。

 前田さんが「松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる」とブログの最新記事でキーワード「知識人・庶民」を改めて持ち出されたので、私なりにそれらのキーワードについて議論を深めようとしてゐる積もりです。

>ニヒリストの保守主義とは、いつたい何を保守するのでせうか。そこら邊りを議論したいですね。

 それも結構ですが、御自分が持ち出されたキーワードについてもう暫くしつこく議論しても良いのではないでせうか。

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2006年10月 8日 (日)

庶民、庶民、庶民

 前田さん、コメント有り難う御座います。

 「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」とは前田さんの御主張を私なりに端的に表現したもので、不正確でしたらお詫び致します。しかし以下のやうな一連の御發言は 「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と同義であると考へますが、如何でせうか。

 (1)研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。(「松原正先生の講演會について」)
 (2)庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる。生活の中で悲しみを抱へた人人である。さういふ庶民に福田恆存の言葉は屆いてゐた。もちろん、弟子を紹介する松原正先生の姿は、やはり愛の人であつた。となれば、市井の人人へ語る言葉にも、松原正先生の思想を展開してほしかつた。知的誠實と、正義を、大學教授でもない私たちが、自分の職場や家族に對して展開しても、それは不幸になるだけである。(同上
 (3)漱石研究の水準を知りませんが、この「發見」を學會で發表された方が良いと思ひます。/あるいは知識人批判と枕として使ふなら、論壇誌に書かれるべきだと思ひます。(上記記事へのコメント | 2006.10.01 08:25 午後
 (4)知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。/もつと、理想に向つて語るべきです。(「にもかかはらず 1」)
 (5)講演會の餘談でするのならともかく、それ[知的誠實=木村註]が[ママ]主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。(「にもかかはらず2――理想なくても批判有」)
 (6)知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。(同上
 (7) なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。(同上
 (8)松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる[。](「にもかかはらず3――話を振り出しに」)

 これらの文章から前田さんの御主張を一言で云へば、矢張り「(松原先生は「庶民」相手に)こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と云ふ事になりませんか。若しさうであれば、前田さんの主觀とは裏腹に、前田さんは聽衆である「庶民」を愚弄した事になりませんか。前田さんは、御自分が聽きたい講演を聽いてゐる時に「このやうな話は『庶民』のあなたに相應しくない」と云はれたら、どんな氣持ちがしますか。前田さんはなぜ「庶民」の代理人のやうな顏が出來るのですか。「庶民」が聽くべき講話の主題を、「庶民」が讀むべき書物の内容を、なぜそれほど熟知していらつしやるのですか。なぜ「庶民」は「誠實に生きてゐる」だとか「正しさよりも愛を求めてゐる」だとか「生活の中で悲しみを抱へ」てゐるだとか、ためらい無く斷言出來るのですか。

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「庶民」はそんな話を聽くべきではない

 「にもかかはらず3――話を振り出しに」より。

 松原先生の「空しさ」と福田恆存の「空しさ」は違ふ。なぜなら、松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐるからである。主張と讀者とのミスマッチングによるものである。/このことについては、まだ私は説得されてゐません。

既に書いた事と一部重複しますが、思ひ附く儘に。

(1)知識人業界でしか意味を持たない小難しい話を聽きたさに「庶民」が毎年講演に足を運ぶ筈がありません。松原先生の話に自らを裨益する所があるからこそ、「庶民」は交通費や參加費を拂つて聽講するのです。それを横から「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」とは、それこそインテリの思ひ上がりであり、「庶民」を愚弄するものです。前田さんはなにゆゑ、これは「庶民」に相應しい、これは相應しくないと自信満々言ひ切れるのでせうか。「庶民」だつて自分の好みを自分で決めるくらゐの能力はあります。

(2)松原先生は文學を素材に道徳について語りましたが、これは知識人業界だけに限定して報告すべきやうな内容ではありません。寧ろ一般向け、「庶民」向けの主題です。そもそも最近の知識人業界における文學の話題と云へば、「某作家の○○と云ふ作品の何行目に出て來る女性は義姉の△△がモデルとみられ、作者との不倫關係を暗示してゐる」だの「某作家の△月○日の日記には植民地支配を是認するかのやうな記述がある」だのと云つた、それこそ庶民にとつて何の意味も無い事柄ばかりで、文學と道徳と云ふ本來論ずべき主題がまともに取り上げられるとは思へません。

(3)文學批評は知識人の物で、芝居は庶民の物なのでせうか。試しに新宿コマ劇場や寶塚の前に竝んでゐる「庶民」を掴まへて、「いやあ『キティ颱風』つて面白いですね!」とか「『億萬長者夫人』はもう御覽になりましたか?」とか話しかけてみませう。極めて冷淡な反應が豫想される事は明らかです。「庶民」、少なくとも前田さんが想定する「庶民」、愛と希望にばかり關心があるやうな「庶民」が好きなのは、「五木ひろし時代劇スペシャル」とか「ベルサイユのばら」であつて、小難しさうな「新劇」などではありません。福田恆存の意圖は兔も角、現實を見る限り、彼の芝居が「庶民」の心に屆いたとはとても云へません。であるならば、「庶民」をキーワードに福田恆存と松原先生を對照的に論ずるのは不適切と云ふ事になります。松原先生が「空しさ」を感じたとすれば、それは福田恆存の「空しさ」と同じである筈です。私は必ずしもお二人が心から空しいとお感じになつたとは信じませんが。

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2006年10月 7日 (土)

明々白々に語られた理想

 前田さん、コメント有り難う御座います。ただ私自身を含めこの論爭に關心のある讀者は常に前田さんのブログを讀んでゐる筈ですので、ブログにお書き下されば大丈夫です。又、コメントにお書きにならなかつた私への言及もブログには有るやうです。従つて以下、ブログの記事「にもかかはらず2――理想なくても批判有」について論評致します。

 「理想なくても批判有り」です。批判する人には理想があつたと過去の哲人をいくら擧げても、すべての人の「批判」の行爲に理想があるといふことの證據にはならないのではないでせうか。

 理想も信念も無く徒に他人を貶めるとしたら、それはもう批判と呼ぶに價ひしません。その意味で前田さんが「批判」と鉤括弧で括つていらつしやるのは的を射た表現です。もつと直截に云へば「言ひ掛り」でせう。しかし松原先生の漱石や正論言論人に關する發言は言ひ掛りなどでなく、理想に支へられた立派な批判です。これについては後述します。

 問題は、そこです。/松原先生に、理想がないとは言ひません。しかし、いつしか理想を求めるよりも、文章の添削で終はることが多くなつてはゐないでせうか。

 松原先生は言論人を批判する際、相手の文章作法の杜撰をよく指摘しますが、それを「揚げ足取り」と呼ぶ人々がゐる事は知つてゐます。前田さんも同樣の感想をお持ちなのでせう。これは具體的な例をお示し戴かないと精確に論じる事は出來ませんが、松原先生の指摘は決して單なる「文章の添削」ではなく、文章の杜撰は思考の杜撰を端的に物語ると云ふ信念に基づくものです。

 先日の講演會については、述べません。私も當事者ですから。これ以上は、思考を停止します。

 さうであれば、その講演會について「松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです」などとお書きになるべきではありませんでした。これでは、松原正は他人には厳しいのに弟子には甘いと云ふ惡しき印象だけが殘つて仕舞ひます。

 ついでながら、「愛と知的誠實」とは別次元といふことについても觸れておきます。/私は、知識人と市井の人とを分けます。當然でせう。すべての人間において果たすべき道徳ならば、もちろん共通ですが、知的誠實は「道徳」とは違ひます。職業倫理とでも言ふもので、ノーブレス・オブリージュと言ふことです。それは徹底的に追及して良いと思ひます。しかし、それはその本人に言ふべきです。講演會の餘談でするのならともかく、それが主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。

 ここが前田さんと私(と松原先生)とで決定的に意見を異にする點です。知的誠實は、或いは知的怠惰からの脱却は、萬人がそれに向つて努力すべき目標です。斷じて學者だけの「職業倫理」なんぞではありません。小學校の先生ですら、生徒に「友達を大切にしなさい」と教へると同時に「自分の頭でよく考へなさい」と諭すではありませんか。「庶民」に知的努力を勸める事を前田さんがどうしてそこまで嫌はれるのか、不思議に思ひます。

 さて、ここで松原先生の理想を一つ擧げる事が出來ます。「萬人が知的怠惰から脱する事」です。それは先生が講演の締め括りに一際眞劍な眼差しで仰つた「大事な事柄については、どうかよく考へるやうにして欲しい」と云ふ一言に明らかです。講演を素直に聽いた人の大半はさう理解したと思ひます。知的努力を庶民の徳目としてお認めにならない前田さんから御覽になれば、松原先生の理想は理想と呼ぶに價しないのかも知れません。しかしだからと云つて、松原先生に理想が無いと云ふ事は出來ません。理想は個人によつて異なるのです。松原先生に理想は有る。前田さんにそれが理想として見えないに過ぎません。

 愛については、それなくしては存在できないものですから、むしろこちらの方が萬人が考へなければならない問題です。事實、松原先生も愛に引きずられて、大阪まで15囘も講演に來られたわけでせう。知的誠實を全うするために來たといふより、そこでの人間關係を大事にしてきたといふことではないでせうか。木村さんでも遠くから來られたのは、さういふ松原先生に御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れないと思ひます。

 「御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れない」どころか、お會ひしたいと云ふ滿腔の思ひと共に新幹線に乘り込んでゐます。またぞろ繰り返しになりますが、「愛か、知か」ではなく「愛も、知も」なのです。私が愛知縣に住んでゐるからかう思ふのかどうか分りませんが、兔に角そんな私にとつて、松原先生の講演會は一粒で二度美味しい、名古屋辯で云へば誠に「お値打ち」な行事だと云へます。愛と知の愉しみを一度に滿足させられるのですから。

 松原先生に、愛について語れと申してゐるのではありません。やはり根本は「空しさ」です。先生が空しいと言つてゐるのは、人を斬りながらも、その刀が相手に屆いてゐないからではないでせうか。添削に終始して、その本質を斬らないからこそ、相手が反論して來ない、さういふ風に御考へになることもできるのではないでせうか。

 松原先生の言論人批判は的外れではないかと云ふ事ですね。これも具體例で論じないと不毛ですので、取敢へず「さういふ風にお考へにならない事も出來るのではないでせうか」とだけ申し上げておきます。

 松原先生は、「粗雜な文章を書く奴に、良い作品が書けるはずはない」(私なりの要約)と言ひますが、本當にさうでせうか。もちろん、知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。

 「粗雜」の程度にもよりませうが、松原先生の言を俟つ迄も無く、一般的に粗雜な文章は思考が整理されてゐない證左であると云はれます。整理されてゐない思考で幾ら愛だの希望だのを説いても、讀者には傳はらないのではないでせうか。況はんや、松原先生の理想とする「良い作品」には遠く及ばないでせう(ここにも松原先生の理想が存する譯です)。前田さんの仰る、文章は粗雜だがそれを帳消しにするほど愛や希望を與へて呉れる文章とは、例へば誰の何と云ふ文章なのでせうか。

 なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。

 惚れた作家について、『夏目漱石』をお書きになつてゐます。尤も、惚れた相手が完璧ではなかつたので先生は途中から執筆に散々苦しまれたのですが、寧ろさう云ふ「失敗」こそ人間的な愛に相應しい。又、留守先生は栗林忠道を理想的人物として描くと共に、その理想に外れた軍人や知識人を假借無く批判してゐます。この批判は空しいでせうか。

 主人公と作者とを完全に同一の存在として論じることにも違和感がある。主人公の不道徳に氣附いてゐないから、それは作者が氣附いてゐないからだといふ反論を受けたが、それは正氣だらうか。私は、「こゝろ」の先生が奧さんに自殺の理由を話さないことを不道徳とは思はない(思ひ出してほしい、ここで「人は知的誠實のみに生きるにあらず」と書いたことを。先生の妻への愛と言へるかもしれないではないか)が、もしそれが不道徳だとしても、漱石の不道徳といふ風に一直線に結びつけるのは間違つてゐる。

 何から何まで楯突くやうで恐縮ですが、この御意見にも承服出來ません。しかし反論には相當骨が折れさうですし、既にかなりの長文となつて仕舞ひましたので、續きは日を改めて書く事に致します。

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2006年10月 6日 (金)

理想無ければ批判無し

 前田嘉則さんの御發言より、拙稿に關はりのある部分について申し述べます。

 松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです。

 この部分を講演會當日の現實に即して解釋すると、松原先生は御弟子の留守晴夫先生が知的不誠實をやらかしたものの「愛を先立てて許して」差上げたと云ふ事になるのですが、さうだとすれば由々しき問題です。松原先生が愛弟子の知的不誠實を許すなどと云ふ事は、少なくも私の知る限り、あり得ないからです。前田さんはどうしてそのやうに御判斷されたのでせうか。

 愛と知的誠實とは別次元ですが、別次元であるからこそ、「知的誠實のみに生きるにあらず」でせう。知識人は社會的な役割として知的誠實を求められてゐる、彼らに對して知的誠實を求めるのは當然です。/しかし、知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。

 愛と知的誠實が別次元の事柄であるからこそ雙方を同時に追求出來るのです。同次元であれば「愛か、知的誠實か」と云ふ二律背叛の状況に追ひ込まれるでせうが、さうではないのです。又、繰り返しになりますが、知的誠實とは學者の狹い世界だけに必要な規律でなく、萬人が實踐すべき道徳です。松原先生は庶民の知的能力と眞摯を信ずるからこそ知的誠實の大事を諄いほど説くのだと私は確信します。

 もつと、理想に向つて語るべきです。ある人から言はれました。松原先生の愛讀者です。その人も、「松原先生は、何のために書いてゐるのか」と。何を目指してゐるのか、と。知的誠實が本質的な理想なのでせうか。福田恆存にはあつた理想が、どうにも見えません。松原先生の言論には、なにか空しさを感じるのは、さういふこともあるかと思ひます。

 松原先生は多くの著作で自らの理想について雄辯に語つてゐます。理想があるからこそ、その理想から外れた他者を批判せずにはゐられないのです。「愛」の總本山たるイエス・キリストは松原先生そこのけの勢ひでパリサイ人を「斬つて」ゐますが、それはイエスが理想を持つてゐたからに外なりません。ショーペンハウアーがヘーゲルを滅茶苦茶に罵倒したのは、ベルリン大學の教師時代にヘーゲルの「裏番組」の講座を敢へて撰び、慘敗した事への僻みもあつたかも知れませんが、それ以前に彼の明晰を尊ぶ哲學的理想がヘーゲルの晦澀主義と相容れなかつたからです。同樣にルターはローマ教皇を、チェスタトンはニーチェを、ポパーはマルクスを、それぞれ口を極めて罵つてゐますが、私は彼らの理想に賭ける情熱に感銘を受けた事こそあれ、「空しさ」を感じた事など一度もありません。「和を以て尊し」となす我が國では決して受容れられないだらうなと思ひつつ。

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2006年10月 5日 (木)

主張の正否は中身で決る

 言論人が嫉妬や私怨を動機として他の言論人を批判したからと云つて、その批判が誤りだとは限らない。

 例へば、名人に嫉妬する将棋指しが相手に屈辱を味ははせたい一心で名人に挑み、見事負かしたとする。誰も「この勝ちは私怨に基づくものだから無効」などとは云はないだらう。勝負は本當に詰んだかどうかと云ふ結果で判斷すべきであつて、動機を云々するのは無意味である。

 同樣に、論壇を干された言論人が他の言論人を嫉妬に基づき批判したからと云つて、その批判内容が誤りだと斷ずるのはをかしい。主張の正否はその内容を論理的に吟味して判斷すべきであつて、動機は無關係である。

 ところが日本の論壇や論壇ゴシップを好む連中の間では、この手の「動機に基づいて主張内容を評價する」傾向が甚だ強い。松原正氏による言論人批判について、「あれは論壇から干された僻み」だの「ルサンチマン」だのと得意顏に解説してみせる人物に何人出遭つた事だらう。教へて貰ひたいものだが、若しさうだとしたら、一體どこが問題なのか。主張の正否は動機でなく中身で決るのだ。

 松原氏とて人の子、嫉妬が皆無と云ふ事はあり得ない。しかし假にさうだとしても、それで松原氏の言論人批判が的外れと云ふ事にはならない。的外れだと思ふ者は的外れであるゆゑんを論理的に述べるべきだし、述べれば良いだけの話だ。若し嫉妬の感情ゆゑに主張が非論理的になつて仕舞つてゐると云ふのなら、その論理的缺陷を指摘すべきであつて、嫉妬を、それも想像に基づいて、指摘するだけでは何の論證にもならない。

 思ふに、主張の正否を論理的に判斷するのは知的に骨の折れる作業であるが、僻みだの私怨だのは想像を逞しうしさへすれば馬鹿でも口に出來る。特に日本人は正面からの議論を避けたがる一方、「裏話」が大好きである。だから動機ばかりに興味を寄せる出歯亀的論評が多數を占めるのだ。素晴らしき哉、「美しい国」の言論。

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2006年10月 4日 (水)

松原正論の註の註

 松原正先生の大阪講演會に就いて、前田嘉則さんが「私の松原正論の註」として感想をお書きになつてゐる。愚見は若干異なるので此處に「註」の形で記しておく。

 しかし、松原先生はやはり知識人に語り、知識人に書くべきだらうとも思つた。さういふ媒體がない不幸をあらためて感じた。先生の言動には空しさが漂つてゐた。

 「さういふ媒體がない不幸」に就いては同感だが、講演で先生の言動が空しいとは全く感じなかつた。理由は以下述べる。

 松原先生を信奉する人人とそんな話をしたが、彼らは、「空しいとは先生自身もおつしやるが、その一方で語り續け書き續けてゐる。空しいと言つてもそれを文字通り受け取つてはいけない」と語つてゐた。そんなことは私でも百も承知である。しかし、その空しさは、福田恆存の言つた「言論の空しさ」とは違ふ。松原先生は、知識人の批判しかしないが、福田恆存は知識人のみには語らない。『私の國語教室』のはじめに書かれてゐるやうに、誰に語つても通用するものを書いた。そして芝居を書いて庶民を相手にした。しかし、松原先生は、知識人しか相手にしない。

 知識人批判は庶民が讀んでも面白いものである。人間は偉さうな先生連中がやり込められるのを見聞きするのが好きである。芝居と變らない。
 

 知的怠惰を問はれるのは、第一義的には知識人である。しかし、昨日來てゐた人人は市井の人人である。さういう人人に、知識人の欺瞞を言つてどうするのだらうか。漱石の研究者に對して言へば、それは決して空しいものではないだらう。現在の漱石研究の水準を私は知らないが、反論であれ賞讚であれ研究者は反應してくれるだらう。しかし、研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。

 「知的怠惰を問はれる」のは知識人が第一義で、庶民は〝第二義〟などと云ふ事はない。知的怠惰は萬人が戒めるべき事である。知識人の欺瞞を知る事は庶民にとつて「他山の石」となり得る。又、松原先生の講演會にわざわざやつて來る程の人は著作を通じ夏目漱石や文學一般にも關心を抱いてゐる筈で、漱石の話が退屈だとは思へない。

 誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。

 前田さんは庶民をやや持ち上げすぎのやうに感ずる。イエス・キリストを磔にせよと叫んだのは庶民である。

 福田恆存は、庶民に語り、庶民に書いたものが多い。庶民は、「知」だけで生きてゐない。だから、知的誠實よりも、優先するものを持つてゐる。どこかで福田恆存が書いてゐたが、列車の中で、福田が待つてゐる友人のための空席に帽子をおいてゐると、だれかが來て、その席を讓れと言つた。そのとき確か「この民主主義の世の中で」云云と言つたといふ話があつた。まさにインテリかぶれの人間である。それに對して、大學など行つてゐない御婆さんが何氣ない會話をしてゐる姿に教養を感じた、そんな話であつたと思ふ。

 婆さんが教養を感じさせるのは、婆さんに智慧があるからである。智慧の無い人間は輕佻浮薄な民主主義禮讚にすぐ踊らされる。前田さんは「知」の意味をもつと廣くお考へになれば良いと思ふ。

 庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる。生活の中で悲しみを抱へた人人である。さういふ庶民に福田恆存の言葉は屆いてゐた。もちろん、弟子を紹介する松原正先生の姿は、やはり愛の人であつた。となれば、市井の人人へ語る言葉にも、松原正先生の思想を展開してほしかつた。知的誠實と、正義を、大學教授でもない私たちが、自分の職場や家族に對して展開しても、それは不幸になるだけである。

 庶民が正しさをさつぱり求めないから「正字正假名」が全然復活せず、福田恆存は草葉の陰でさぞ殘念がつてゐるだらうと思ふが、それは兔も角、庶民に松原先生の言葉が屆かないのであれば、一體全體、どうして庶民揃ひの大阪講演會が十五年間も續いたのであらうか。又、知的誠實は他人に求めるものではなく、自分が默つて實行すべきものである。正義について云へば、松原先生は家庭や職場でそれを「展開」せよと仰つてはゐない。

 いみじくも、今囘は漱石の「こゝろ」を論じて、夫婦の愛を道義的に論つてゐた。明治の妻の立場を、平成の夫婦のあり方から語るのは、どうだらうか。

 松原先生は「平成の夫婦のあり方」に照らして漱石を批判したのではない。普遍的道徳に反すると考へたから批判したのである。私は先生の見方を是とするが、今は深入りする時間が無い。

 産經新聞の「正論」の筆者は、政治しか論じない。それに對して松原先生は「人は政治のみに生きるにあらず」と批判した。しかし、「人は知的誠實のみに生きるにあらず」でもある。愛によつて生まれ、愛によつて育ち、愛を殘して死んでゆくのである。先生が愛を語ることはないだらうが。

 愛と知的誠實は互ひに排除し合ふものではない。次元の異なるものである。男も女も人間たるもの須く知的たるべく努力せねばならぬ。勿論、知的とは學術論文を書く事でもなければクイズ番組で滿點を取る事でもない。

  「カエザルの物はカエザルに、神の物は神に」といふ聖句をしばしば松原先生は引用するが、先生の言葉はそのどちらなのだらうか。知的誠實といふのは、カエザルのものなのか。それが明確でないから、結局、自我の芯だけで言論を語り、空しくなつていらつしやるのではないか。松原先生の信奉者に言ひたかつたのは、そのことである。

 カエザルの物とは政治であり、神の物とは政治を超えるもの(道徳・信仰・藝術)である。知的誠實は「物」でなく「態度」であるから、このカテゴリー分類にはそもそも馴染まない。

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