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2006年5月29日 (月)

關嘉彦死去

 関嘉彦氏(せき・よしひこ=元参院議員、東京都立大名誉教授、社会主義思想)4日午後8時40分、肺炎のため東京都中央区の病院で死去、93歳。福岡市出身。葬儀・告別式は近親者だけで行う。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は妻マリ子さん。/1983年の参院選の比例代表に旧民社党から立候補して初当選し、89年まで務めた。イギリス労働党の研究で知られる。( 徳島新聞より)

 森嶋通夫と文藝春秋誌上で交はした「防衞論爭」が有名。福田恆存は中央公論に「人間不在の防衞論議」を書いて論爭に加はり、森嶋を批判した。

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コメント

どうもLegionn時代はダブハン行為をしてすみませんでした。心の底から反省しております。木村氏に一度お尋ねしたかった事があるのですが、過去の僕の行為を許す許さないは別にして果たして僕は此処のコメントを書く資格はあるのですか?
それともやはりアクセス禁止なのでしょうか?
というのも僕は時々木村氏の意見を別の場所で引用する事があるからです。それが失礼に当たっていないのか大変気になっている次第であります。

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月 5日 (月) 05時10分

 さう云ふお氣持ちでしたら、私の方からもあらためてお附き合ひをお願ひしたいと存じます。コメントは自由にお書き下さい。引用は元々誰にとつても自由であり、引用される側が「失禮だから止めろ」とか「やつて良い」とか云ふべき事ではありません。

投稿: 木村貴 | 2006年6月 5日 (月) 11時40分

けふの asahi.com に「ネットで流行『アインシュタインの予言』、人違い?」といふ面白い記事がでてゐました。『諸君!』や『正論』に、この預言を載せた某社の廣告があつたことを記憶しますが、どうも變だなと思つてゐました。かういふ自画自賛は不快です。なぜ日本人は普通に、自然に、自國に自信が持てないのか、そこが問題です。さういふ意味で、留守晴夫教授の栗林忠道中將論の刊行が待たれます。

http://www.asahi.com/national/update/0607/TKY200606070141.html

投稿: 渡邊 建 | 2006年6月 7日 (水) 22時31分

木村氏へ
ありがとうございます。今後とも宜しくお願い致します。恥ずかしながらも以前の『正統の哲学・異端の思想』論争が懐かしく思われます。それと返答が遅れてすみません。所用で海外に行っていたもので…。
それは兎も角として此処のコメント欄を借りて書くのも場違いだと自分でも思いますが失礼して敢えて書かせてもらいたいと思います。
過日、僕は某掲示板にある若手保守派論客の書いた本を批判しました。趣旨は、その著者が保守派知識人の常套句であるチェスタトンの「死者には墓石で投票して貰わなければならぬ」という警句を出典の『正統とは何か』の書かれた動機も理解せずに都合の良いように引用しており極めて恣意的である!というものでした。
それから数日が経ち友人から聞き2ちゃんねるに賛意を示す意見があったらしく昨日確認すると確かにそれらしい意見が書かれていました。すると2ちゃんねるの定番である「偽」森英樹を騙る人達が現れ大騒ぎ。と此処まではよくある光景で思わず吹き出してしまったが面白い事も同時に発見したのです。
それは以前に此処でも議論になっていた「松原正氏は政治を軽蔑している」という旨の誤読をする人達が相当多くいることと関連があります。
要するに言い換えると自称「現実的」な保守派知識人もしくは政治学者が往々にして政治音痴であるのに対して英文学者であり政治的専門知識が前者よりも明らかに少ないであろうと思われる松原氏の方が政治について理解が正しいという事です。
何故このようになるのかを考えると政治を観る視点が違うということで一応は僕の「常套句」である「政治も人間の行う営為であって…」と説明したい処ですが、これでは余りにも当たり前過ぎるし面白くもないので違う例を出します。
それは自称「現実的」な保守派知識人の政治観の常套句であるマックス・ウェーバーの「政治とは悪魔と契約をすることである」という有名な言葉を引用し「現実政治とは冷厳なものである」というお決まりの結論を出すくせにヒットラー、スターリンとチャーチルの政治的「結果」の相違を見誤ることです。
概して日本の政治学者はウェーバーの言葉を単なる「比喩」としてしか理解しない。ところがこの言葉は決して「比喩」というだけではない含みがある。勿論、「政治の問題で『悪魔』という神学的なことを口にするのはおかしい」と主張する頓珍漢は論外です。ウェーバーは、まさしく神学的な意味で「悪魔」という言葉を使ったと思われるのです。だからこそ「契約する」という言葉が意味を持つのです。ウェーバーの上記の言葉は要するに政治は悪魔と「契約」はしてもよいが「愛してはいけない」と言っているのだと思います。悪魔を「愛する」か「愛さないか」は倫理的な問題です。シェイクスピアの戯曲の台詞にも出て来るように「毒を必要とする者も毒を愛しはしない」と同様です。
それでなければ日本の政治学者や松原氏が政治を軽蔑していると勘違いする御仁が出てくる筈は無いのです。
と僕は理解し、それ故にこそ松原氏の政治観に深く同意するのです。誤読であるとすれば是非とも御指摘下さい。

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月 8日 (木) 19時18分

>渡邊樣

 ポール・クローデルの言葉も最近、某ベストセラーのお蔭で有名になりましたね。「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」
http://www.janjan.jp/government/0603/0603221244/1.php?PHPSESSID=.

投稿: 木村貴 | 2006年6月 8日 (木) 23時16分

>森樣

ウェーバーの事はよく分かりません。松原先生は政治を道徳に比べ「輕視」しても、「軽蔑」してはいらつしやらないと思ひます。松原先生が軽蔑するのは政治を淺薄にしか論ずる事の出來ない評論家や輕薄な政治家であつて、政治に就いて深く考へた思想家や見事に振る舞つた政治家ではありません。

投稿: 木村貴 | 2006年6月 9日 (金) 00時02分

>ウェーバーの上記の言葉は要するに政治は悪魔と「契約」はしてもよいが「愛してはいけない」と言っているのだと思います。

そこまで「深い事」は「言って」ゐないかと。
「あつち」の國の連中にとつて、政治と倫理が別物である事など判り切つた話でせうから、ウェーバーも一々そんな注意を促す必要が「ある」なんて思はなかつたのでは。

投稿: 野嵜 | 2006年6月 9日 (金) 03時06分

>野崎様

確かにウェーバーは其処まで「深い事は」言っていません。それは野崎氏も指摘されているように「政治と倫理は別物」であるという事は彼ら「西欧人」には自明の事だからです。それでも敢えてウェーバーの言葉を引用して「連想」したのは、「政治とは悪魔と契約する事である」という言葉から日本人の大方は「すると政治とは非人間的なものである」という結論を「連想」してしまう傾向が強いので要するにそういう主張に対しての批判を込めての事です。不用意にウェーバーの言葉を引用し「連想」したのが僕の間違いだったかもしれません。

>木村様

「松原氏は政治を軽蔑している」と言った御仁に対して「そんなことはない」と反論した積りが、どうやら僕の悪文で誤解が生じたようです。

つまり政治の延長である戦争に於いても一介の兵士ならば敵兵を殺す事、何らかの作戦に於いて司令官が自分の部下を見捨てる際に一切の「倫理的動揺」を起こさないという事はあり得ないし、もしあるならばその兵士も司令官も極めて「非人間的」であるという事を言いたかったのです。

だからこそ政治家や政治学者であっても「政治」に先行する「道徳」の問題を回避すべきではないし、もし「道徳」を無視する政治家および政治学者がいるとすれば彼らは「軽蔑」に値すると思います。

チャーチルが先の大戦でヒトラーのドイツに対してイギリス人の敵愾心を高めアメリカを戦争に引き込むためにイギリス本土への爆撃を座視したという説があり仮にそれが事実だとしても道徳的にチャーチルを批判する事は極めて愚かしい事だという認識です。だがその決断に直面したチャーチルに一切の「道徳的煩悶」が無かったとは言えないと思います。少なくとも政治的に成功を収めたこの戦略によって死んだ同胞(イギリス人)を追悼するときに彼は赤い舌を出していたとは思われないのです。

こういう認識は僕の甘い感傷なのでしょうか?

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月 9日 (金) 19時31分

チャーチルの政治的決断を「道徳的見地」から非難するのは、まさしく「政治と倫理の混同」による間違いだと思われますが如何でしょうか?

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月 9日 (金) 19時42分

連続投稿すみません。

断るまでもないと思いますがヒトラー率いるナチス・ドイツにもスターリン率いる共産ソ連にも立派な司令官や軍人、健全な国民がいた事は明らかだと思います。

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月 9日 (金) 20時24分

>木村様、野崎様

と言ってヒトラーにもスターリンにも彼等の信じる「正義」があった、などという当たり前の相対主義的見解を論じる積もりは毛頭ありません。

分からないのですが、およそ「政治」に直接的に関与する政治家や軍人の「美徳」とは何でしょうか?僕も明らかに日本人なので最も卑近な例を出して感情的に論じたいと思います。
僕が「男らしくない」と感情的に否定する対象は例えば「アメリカは日本が降伏したのをいいことに卑怯な占領政策をした」だの「あの戦争は本来的な意味で日本の勝利だった(恐らく植民地主義解放のこと)」だの「憲法改正が出来ないのは左翼勢力のせいだ」だのという主張です。
何故に彼らは「男らしく」戦争に敗北した事実を直視せずに連合国の「卑怯」とやらを糾弾するのか?何故「あれは愚かな戦争だった」と開き直れるのか?何故「ソ連は不可侵条約を破棄したから許せん」とか非難するのか?まだ小学生が「くそ!あの時は負けたが今度の喧嘩は負けないぞ!」と誓う方が「男らしい」と思う。

恐らく彼らは「お坊ちゃま」で喧嘩の一つもした事がないのだろうと思う。敵の弱点を攻撃するのは喧嘩の常識である。どうしても勝ちたいなら相手が弱っている時に殴るのが当たり前だ。喧嘩ならまだしも殺し合いの場であれば相手が弱っている時こそ徹底的に叩きのめすチャンスである。それは「卑怯」ではなく「常識」である。敵が「自ら負けを認める」まで徹底的に叩きのめすのが言い方は変だが敵への「誠意」ではあるまいか?何故「誠意」なのか?それは敗北を認めるのは敵の「自由」だからである。「常識」ではないのか?少なくとも勝とうと真剣に思っているならば!何かを守ろうと真剣に思っているならば!

以上の「感情的」な観点から戦争の「人間性」を引き出せると僕は考える。政治を考える上で「男らしい」という「美感」は何処まで通用するのであろうか?我々はしばしば偉大な政治家や軍人の「勇気」に驚嘆し感動する。日本人は所詮は西欧的な政治観(=考え方)を身に附けられと仮定するならば「男らしい」とは何かという「美感」から出発しても良いのか?この「美感」は最近巷で流行っている「似非」武士道と結びつき易いという弱点がある。「美感」は時代の影響を受け易いからである。小林よしのり氏のような「勝っている戦争は格好いいぞ!(引用不正確)」などの頓珍漢も登場しかねない。
とすると「猿真似」と言われようが日本人が極めて苦手とする「虚学」を西欧から学ばなければならぬ。学んで身に付かぬ事を悟らなければならぬ。
僕はウェーバーから話を始め自分でも大いに混乱したが逆に良かったと思っている。
レヴィットの著書に『ウェーバーとマルクス』柴田治三郎・脇圭平・安藤栄治訳があるが本書の未来社版「訳者後記」で「レヴィット氏の行った改訂について」という文章で訳者が素直に「ただし、この改訂がなぜ必要であったか訳者には理解できない」とありまことに「男らしい」と思う。

兎も角この議論が続くかどうかは知らないが「徹底的」に「誠意」を持って異見を言ってくださった木村氏・野崎氏の両人には感謝している次第。

論争も喧嘩の一種であるのだから目的は「決着をつける」ことであり「仲良く」なることではない。戦いを避ける理由は無限に用意できるものである。不利となれば2ちゃんねるで陰口を叩くことも出来る(現に僕には気違いというレッテルが貼られている)。2ちゃんねるの健全さなどというものも無限に立証出来るものなのである。

ということで悪文・長文・連続投稿失礼しました。

投稿: 森英樹(本物) | 2006年6月10日 (土) 14時43分

 私もチャーチルが「赤い舌を出していた」とは思へません。かと云つて、事前・事後に狂ひ死にする程煩悶したとも考へにくいのです。要するに、政治とは「一匹」よりも「九十九匹」を救へればそれで良しとするのであり、そこに政治の使命と限界があります。

 若し爆撃を受けて死んだ國民の中にチャーチルの家族や友人がゐたならば、そこから彼にとつての道徳的問題が始まつたでせう。それは政治と道徳の葛藤と云ふ高次の問題でもあります。幸か不幸か、史實は違つたやうですが。

 蛇足かも知れませんが、道徳的問題とは「家族や友人」のやうな身近な人間との間でしか生じ得ません。これは例へばアダム・スミスが「道徳感情論」の中で「支那で大地震が起きても我々は翌日には忘れてゐる」と書いた通りです。

 西洋ではギリシア悲劇(「アンティゴネー」)や聖書(「カイサルの物はカイサルに、神の物は神に」)の昔から兩者を分けて考へて來たのですから、西洋の思想について考へる場合、我々もまづ分けて考へてみる事が必要だと思ひます。政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

投稿: 木村貴 | 2006年6月12日 (月) 00時17分

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