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2006年5月29日 (月)

關嘉彦死去

 関嘉彦氏(せき・よしひこ=元参院議員、東京都立大名誉教授、社会主義思想)4日午後8時40分、肺炎のため東京都中央区の病院で死去、93歳。福岡市出身。葬儀・告別式は近親者だけで行う。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は妻マリ子さん。/1983年の参院選の比例代表に旧民社党から立候補して初当選し、89年まで務めた。イギリス労働党の研究で知られる。( 徳島新聞より)

 森嶋通夫と文藝春秋誌上で交はした「防衞論爭」が有名。福田恆存は中央公論に「人間不在の防衞論議」を書いて論爭に加はり、森嶋を批判した。

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2006年5月28日 (日)

『国語の底力』

 「石井式漢字教育」で知られる故石井勲氏の足跡と業績を振り返る『国語の底力』(塩原経央著、産経新聞出版)が出た。

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2006年5月27日 (土)

感情的である事

 私たち――ことに私などは生來口がよくない、惡くはないのですが、よくはない。自分ではそれほどに思つてゐなくても、とかく相手を傷つけるやうなことを言ふものですから、國語問題でも評判が惡いのです。[中略]「あいつはいかん」といふことになり、感情的だといふ批判を受けます。しかしこれは決して感情的なのでなく、話を面白くするためには惡口を言はないと仕樣がないと思ふから、何時もその癖がついてゐるわけです。ただ、感情的であることはいいことか惡いことかと言ふと、それはまた別問題で、私は惡いことだとは思ひません。
 昭和三十六年十二月九日、國語問題協議會第三囘講演會に於ける福田恆存の發言。『國語問題協議會四十五年史』より。

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2006年5月26日 (金)

感情と論理は對立せず

 どうも世間には、叮嚀な言葉遣ひで相手を心底軽蔑し切つた慇懃無禮な文章を書くと「彼は冷靜だ」とか「大人だ」とか云つて襃め、怒りを露はにした正直な文章を書くと、それが感情的であると同時に論理的な内容であるにもかかはらず、「感情的になるな」とか「大人になれ」とか云つて窘める人が多いやうに思はれる。をかしな事だと思ふ。私は喜怒哀樂のうち、少なくも怒つた時には感情を露はにする方が人間的だと思ふ。能面の如き慇懃は非人間的な態度だと思ふ。まあ時折、慇懃無禮な態度で應じざるを得ない御仁もゐるが。

 論爭的な文章にとつて大事なのは、それが論理的か否かの一點のみである。感情的である事と論理的である事は兩立し得るのだから、「感情的且つ論理的」な文章もあり得るし、「非感情的且つ非論理的」な文章だつてあり得る。前者は是、後者は非。それだけの話ではないか。そもそも感情の基礎には論理がある。裏切られた人間が怒るのは、裏切りとは何かを論理的に判斷出來るからに外ならない。

 不肖木村貴は憚り乍ら、頭に血が上つた時でも理窟の通る文章を書くやう心懸けてゐる。成功してゐるかどうかは別として。

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2006年5月12日 (金)

國語問題協議會ウェブサイト刷新

國語問題協議會ウェブサイトの表紙デザインが變はりました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/
行事豫定・出版案内等の最新情報を掲載する「傳言板」も新設されました。
http://d.hatena.ne.jp/kokugokyo/

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2006年5月 6日 (土)

間違つてゐると思ひます

 「騷動の感想」より。

 先づは第一に眞相究明を希望していた讀者の皆さんに私が彼らに面識がある事を告げずに質問した事に因つてどたばたが生じてしまつた事をお詫びしたい。しかし、挨拶無しに質問し、この樣にごたごたした事はさすがに拙かつたとは思ふものの、道義的に間違つてゐたとは思つてはゐない事は先にも申上げた通りである。その事は繰り返し申上げる。

 「道義的に間違つてゐたとは思つてはゐない」? 僞名がどう見ても道義的に間違つてゐる事を私は小學生でも分かる馬鹿馬鹿しい例まで使つて縷々説いた筈だ。ところが白波海太郎こと青方の中村氏はそれに對して何も反論しない。そして唯一言、「間違つてゐたとは思つてはゐない」と來た。頭を使はない人間は樂なものだ。「~だと思ふ」「思はない」と書いただけで反論になるなら、私だつて躍起になつて毎囘長たらしい文章を書く必要は無かつた。「中村氏は間違つてゐると思ひます。以上」。今後はこの手を愛用しようと思ふ。
 この騷動、事件を一言で評するならお粗末と云ふ事にならう。「又聞きの話を事實確認しないまま書いて仕舞つた」と云ふ事を指摘するだけで十分だらう。木村氏は、私と同じ樣な一般人なのではあるまい。致命的な大失態である。

 慥かに私は2ちゃんねるに入り浸るやうな「一般人」ではないが、又聞きの話を裏を取らずに書いて仕舞つた事が「致命的な大失態」であつたのは指摘される迄も無く認めてゐる。だからばつさり削除した。その記事を中村氏は著作權者(木村)の承諾も無しに轉載して「事件だ事件だ」と喜んでゐる譯だが。

>讀者を困惑させて申し譯ないと思つてをりますが、殘念ながら正確な事實關係を知りませんので説明出來ません。御容赦下さい。(木村氏發言)
今囘初めて讀者への謝罪があつた訣だが、木村氏は常識者として踏みとどまつてゐると評價していいだらう。今まで何故しなかつたのか。野嵜氏に引つ張られてゐるからである。

 「今囘初めて讀者への謝罪があつた」だの、「常識者として踏みとどまつてゐると評價していいだらう」だの、まるで日本の戰爭責任を追及する近鄰諸國の政治家のやうな口振りである。こんな遣り口で狡い人間に仕立て上げられては堪つたものではない。

 慥かに私は「記事削除のお知らせ」で「關係各位には御迷惑をおかけ致しました。お詫び致します」とだけ記し、一般讀者に對しては特に何も書かなかつた。しかしそれは敢へて書くのは諄いと思つたからに過ぎず、讀者を無視した譯ではない。もし私が讀者の目から一切を隱蔽しようとするなら、わざわざ人目につくやうな告知なんぞせず、默つて記事を削除して、關係者にはメールで詫び状を出せば濟む。それでは矢張り讀者に惡いと思つたから、削除告知を書き、コメントも附けられるやうにしておいた。現に今囘、中村氏自身、その削除告知にコメントを附ける形で質問して來たではないか。よくも私を不誠實呼ばはり出來るものだ。

 勿論、關係者のゐる事だから、質問されても全部を公の場で洗ひざらひ話す譯にはいかない。だがブログの讀者には他人に迷惑の及ばぬ範圍でなら出來る限り説明したいと思つてゐたし、事實、「白波海太郎」が青方の中村の僞名だとは露知らず、馬鹿丁寧に應對して仕舞つた。ああ損した。


 しかし、許し難き不正であるが、確證がないので糾彈出來ぬ事を無念に思つてゐる人間の書く文章ではない。きちんと調べて、この不正を屹度糺してくれんとの意思も氣魄も感じられない。そして、をかしな事を書いてしまつた己れに對する自責の念もない。

 分からん人ですね。私の文章から「この不正を屹度糺してくれんとの意思も氣魄も感じられない」のは、それほど悲憤慷慨しなくても好いだらうと考へる理由があるからです。だがその理由も所詮「又聞き」であり、輕々に書く譯にはいかないのです。關係者に迷惑をかけたと何遍も云つてゐるでせう。僞名なんぞ使はず、メールででも問ひ合はせて呉れてゐたら、こんな奧齒に物の挾まつたやうな云ひ方はせずに濟んだのですが。私はもうあなたを信用してゐないから、こんな事を今更云つても無駄ですね。

 その他、中村氏は妄想を逞しうして色々書き連ねてゐるが、コメントは省略しても良いと「思ひます」。さて最後に曰く、


*それ程の問題ではないと判斷しましたから、資料館から纏め頁は削除します。

 素晴らしい結論が出て良かつたですね。お互ひ有意義な大型連休でした。久し振りに話せて正直嬉しく思ひました。それでは今度こそさやうなら。

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先生、どうして僞名は駄目なの?

 考へてみれば、普通の大人なら誰でも心得てゐる事を大上段に振りかぶつて力説しても仕方が無い。頭に上つた血も大分元に戻つて來た事だし、簡潔に濟まさう。

 A、Bと云ふ二人の意見が對立し、論爭になつたとしよう。どちらの主張が正しいかを判斷する基準の一つは、論理の内部、或いは論理と行動との間に矛盾が無いかどうかである。Aが「アメリカは非道い國だ」と主張しつつ、子息をアメリカの大學に留學させてゐるとしたら、彼の主張は矛盾してゐる(非道い國で育てる事が教育上好ましいと云ふなら別だが)。Bは「お前の主張は行動と矛盾してゐる」と衝く事が出來る。

 ところが、子息をアメリカ留學させてゐる事を皆に知られてゐるAが、「アメリカは非道い國だ」と云ふ主張をする時に限つて、Cと云ふ別名を使つたとしたらどうだらう。AとCとは同一人物であるのに、Bはその事實を知らないから矛盾を衝く事が出來ない。これでは對等な立場で行ふべき筈の論爭が不公平となるのは誰の目にも明らかである。論爭が成立する爲の最低限の條件、それは當事者が絶對に別名と云ふ逃げに走らない事である。

 もし白波海太郎こと青方の中村氏が「自分は論爭をやらうとしたのではない。情報を明らかにさせたかつただけだ」と反論するなら、それは間違ひだ。第一に、情報を求めるのなら別名を使つて構はないと云ふ理由が無い。他人に眞面目に接する時に別名を使つてはならないと云ふのは、何も論爭に限つた話でなく、人間の意思疎通一般に通ずる社會常識である。例へ相手が蟲の好かない奴であつてもだ(こんな幼稚園の先生みたいな事を何度書かねばならないのか)。第二に、中村氏は私と野嵜氏を批判する材料として「情報提供」を求めてゐた。要は喧嘩を仕掛けて來たのである。「どのやうな對應をするのか興味深い。眞摯なる對應を期待したい」と云ふ文章を見ればそれは明らかだ。喧嘩をやるのに名を名乘らぬ男を普通は「卑怯者」と呼ぶ。

 2ちゃんねるは噂話やスキャンダルと云つた「情報」(中村氏の好きな言葉だ)を得るにはそれなりに役に立つ。しかし私のやうに、肉體的な喧嘩はやつた事も無い癖に、論爭を讀むのが三度の飯より好きな人間にとつては何とも物足りない。上で書いた事から分かるやうに、論爭の醍醐味は、論理矛盾を衝いたり衝かれたりする瞬間にこそあるからだ。誰と誰が同一人物やら分からぬ2ちゃんねるで、そんな知的興奮を味はへる道理が無い(時々、一囘の投稿の前半と後半で論理矛盾をやらかす「剛の者」にお目にかかる事はあるが、さすがに多くはない)。

 ところが中村氏はその2ちゃんねるの住人と一緒になつて、他人の「知的不誠實」を糺彈出來ると思つてゐるのだから恐れ入る。「上記が今囘の質問で新たに得る事が出來た情報」云々とわざわざ書いてゐる事からも分かるやうに、彼は噂話とかスキャンダルとか云ふ「情報」が大好きで、だからこそ2ちゃんねるに入り浸るのだ。ところが論理的思考能力が無いから、それらの「情報」を羅列するばかりで、だからどうしたと云ふ意見を書かない。いや書けない。私が何故野嵜さんを批判しなければならないか、その理由を一度でも明確に書いて見せるが好い。

 尤も彼はそんな小難しい事なんぞやらなくとも好いのだ。他人に迷惑がかかるからと削除した文章を斷りも無く全文轉載して、私が困りさへすればそれで滿足なのだ。實に見上げた大和魂ではないか。日本に生れて良かつたとしみじみ思ふ外は無い。

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2006年5月 5日 (金)

僞名を使つて何が惡い

 「ビブロス氏と木村貴氏」より。白波海太郎こと青方の中村氏が身も心も「2ちゃんねらー」に成り果てた事が顯はである。

ビブロス氏のはうがより本質が見えてゐるやうだ。聯絡しないのは「水臭い」仲に戻りたいからである。

 「水臭い」仲に戻りたいのなら、最初から近附くな。2ちゃんねるに入り浸つて現實感覺の麻痺した人間には分からないだらうが、考へてもみるが良い。「奴とはもう親しく付合ひたくはないが、あの噂の眞相だけはどうしても知りたい。よしそれなら僞名を使つて電話してやれ」。現實の世界でこんな素晴らしい事を實行する人間がゐたら、世間は何と呼ぶだらうね白波大先生。ひよつとするとあんたの郷里では英雄扱ひで賞状でも貰へるのか。子供でも分かる電話の例はこれで二囘目だが、あと十囘位説明しようか。

 いいかよく聞け。ダブハン當り前の2ちゃんねるにすつかり夢中になつて、もう忘れて仕舞つたかも知れないが、現實社會では四月馬鹿でもない限り、一度知り合つた相手に僞名別名變名を使つて接触したら、それだけで十分に非常識で、道徳的に非難されてしかるべき不逞の輩なのだ。そして道徳(お望みなら日本の傳統的倫理と云つても良い)に現實社會とネット社會の區別は無いから、あんたが今囘やらかした事は非常識で沒道徳なのだ。非常識で沒道徳な事をわざとやつたのなら卑劣漢だし、無邪氣にやつたのなら大馬鹿だ。さてあんたはどつちだ白波さん。幾ら何でもそこまで阿呆とは思はないから「卑劣」と呼んだのだが、次のやうに書いてゐるのを見て、些か自信が無くなつてきた。

讀者の皆さんの中には、それでも白波は卑怯者ではないかと考へる人がゐるかもしれないから、最後に附け足す。卑怯だと云ふなら私がどの樣な卑怯な事をしたか。正體が分らうが分るまいが、同じ事を云つた事は既に理解されてゐると思ふ。裏で工作をしてゐるわけでもない。情報源はネットだけ。

 もう一度、小學生でも分かる例で説明してやらう。私(木村)が青方に赴き、「中村が眞摯な對應をするかどうか見てみませう」と言ひ囘つた後、變裝して中村家の戸を叩く。

木村「板東英二と申しますが、中村さんが2ちゃんねるに夢中だと云ふのは本當でせうか」
中村「お前は木村ぢやないのか」
木村「實はさうだ」
中村「何で變裝して板東などと云ふ僞名を使ふのだ。さては俺が2ちゃんねるにのめり込んで癈人同樣になつたとでも『地獄の箴言』に書くのだらう、この卑劣漢」
木村「はあ? 分かつてないなあ。私は只、一般讀者の爲に事實を知りたかつただけだ。本名で尋ねようが僞名で尋ねようが關係ないだらう。裏で工作をしてゐるわけでもない。情報源はネットだけ。どこがどう卑劣か説明してみろオオオオオオオオオオ」

 さて上の問答を讀んでも、中村氏は己のどこが卑劣か理解出來ないだらう。「常軌を逸し」てゐるのが野嵜さんでなく、夫子自身だと云ふ事も理解不能に違ひない。何故か。馬鹿だからである。此處で前言撤囘。中村氏は卑劣漢などではなく、馬鹿であつた。馬鹿に成り果ててゐる事は「あなたが私が貴方方の『批判』者になる事を豫想だにしてゐなかつた平凡『ふつうのヤツ』だと云ふなら私は謝罪する準備があるがどうだらう」と云ふ滅茶苦茶な日本語を一瞥しただけでも分かる。

 「ダブハン」を認めるとなにゆゑ眞摯な議論が不可能になるのか。大抵の人は理解してゐるだらうが、中村氏のやうな大馬鹿の爲に、稿を改めて説く事にする。中村氏のその他の「疑問」に就いても次囘以降で逐次粉碎する。

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2006年5月 3日 (水)

中村氏の武士道精神

 白波海太郎こと青方の中村氏の「面識があるのにそれを告げなかつた理由 其一」より。

 最初に結論を云ふと私は彼らに以前の知己だと云ふ事を明す積りはなかつたのであるが、それは彼らと以前と同じやうに付合ふ積りがなかつたからであり、糾彈する必要も感じてゐなかつたからである。

 「以前と同じやうに付合ふ積りがな」ければ、別名を使つても構はないと中村氏は云ふ。よしそれなら私も今囘の一件で中村氏と「以前と同じやうに付合ふ」氣持ちなんぞ消し飛んで仕舞つたから、「金鯱藤吉郎」とでも名乘つて「日出づる國の一無名人のブログ」に投稿し、「どうして別名なんぞ使つたのか一般讀者に十分説明しろ」と糺彈してみるか。事は正字正假名派の名譽に關はる問題だから捨て置けぬ。

 私は中村氏と意見を異にしたかも知れないが、卑劣な行爲を働いた覺えは一切無い。ところが中村氏は、さすが武士道精神を重んずる日本男兒らしく、意見の異なる人間に對してならどんなに卑劣な事をやらかしても平氣の平左である。それは次の一文に明らかである。

 と、ここまで書いて當時を懷かしく思ひ出し、こんな事を書いてゐる事が馬鹿馬鹿しくなつた。何故自分達に正體を明さずに質問をされたのだらうと考へないのだ。

 「何故自分達に正體を明さずに質問をされたのだらうと考へないのだ」とは恐れ入る。それなら一丁、中村宅の電話番號を調べ、聲色を使つて電話をかけ、色々聞き出してみるか。そして中村氏には何故自分にそんな愉快な電話がかかつて來るのか、篤と考へて貰ひたいものだ。

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2006年5月 1日 (月)

國語問題協議會四十五年史

 國語問題協議會ウェブサイトより。

國語問題協議會創立以來の活動内容を纏めた『國語問題協議會四十五年史』を此の程發刊致しました(B5版、二段組、三百二十六頁)。御希望の方には代金三千百五十圓(税・送料込)にてお頒け致しますので、左記の協議會事務局まで御聯絡下さい。

なほファックス番號、電子メイルアドレスが最近變はりましたので御注意下さい。

國語問題協議會 事務局
〒一四六-○○八五 東京都太田區久ヶ原三の二十四の六
電話 ○八○-三四一一-五五○一(專用携帶)
電送(ファックス)番號 〇五〇-三五八八-六七一五
電子メイル(電郵) kokugokyo@muc.biglobe.ne.jp
郵便振替口座 ○○一六○-五-五○○一七一 (田園調布郵便局)
銀行口座 三井住友銀行六本木支店 普通預金 ○九六九三六四


<2006.5.3追記>送料千圓以外に代金三千圓(税別)が必要でした。訂正します。
<2006.5.10追記>「代金三千百五十圓(税・送料込)」に修正されました。

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