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2006年4月16日 (日)

あまカラ氏の誤解(2)

 再び引用

 福田[恆存]においては決して「文学」が「政治」より重要な問題であるという認識はなかったと思う。両者は単なる役割分担であって、政治によって救いえない一匹が特に他の九十九匹よりも優れているわけではないのである。/ところが松原においてはこれがいつの間にか文学は政治より重要な問題だ、という意識に変質している。[中略]「諸君!」の論文は軒並みくだらない、といった発言(単に政治問題を政治問題として論じた文章のどこがくだらないのか)や、上記の発言を見れば、松原氏は政治そのものを侮蔑しているのだとしか思えない。/これは文学という高級な問題を扱う文学者は特権階級であるという認識に直結する。西欧と日本との徹底的な差を絶えず嘆く松原氏は、まさに福田恆存が訳したロレンスの「アポカリプス論」と同じように、裏口からの権力奪取を図っているとしか思えない。
 福田恆存は慥かに文學と政治の二元論を強調したが、だからと云つてそれらを「単なる」役割分擔だと考へたり、對等の價値を持つと信じたりしてゐた道理が無い。政治より文學が何層倍も「重要な問題」だと考へてゐたに決まつてゐる。何故さう斷言できるか。福田が尊敬する西洋の文學者達も、文學と政治を峻別しつつ、後者より前者を遙かに重視してゐるからだ。例へばT・S・エリオットが文學を「政治に先行する領域」と呼んだ事はあまカラ氏も御存じだらう。エリオットは文學における「人間とは何か」と云ふ疑問について、「樣々な問ひの中で最大の問ひ」とも述べてゐる。もしエリオットが人間にとつて文學と政治が持つ意味を全く同等と考へるのならば、「先行する」とか「最大」とか云ふ表現を使ふ筈が無い。

 政治と文學の關係、政治と道徳の關係、政治と信仰の關係――これらは纏めて「國家と個人の關係」と言換へられようが、西洋文化においては「國家よりも個人が重要」と信ずる強い傳統がある。云ふまでも無くキリスト教の影響である。エリオットと同じく英國國教會信徒で「ナルニア國物語」の作者でもあるC・S・ルイスはかう端的に書いてゐる。

 もし個々の人間が七十年しか生きないとすれば、千年も存續しうる國家や國民や文明の方が個人よりも重要であるだらう。しかし、もしキリスト教が眞實だとすれば、個人の方が國家などよりも重要、いや比較を絶するばかりに重要となるだらう。なぜなら、彼の生命が永遠であるのに對して、國家や文明の生命は、これに比べれば、一瞬の出來事にすぎないからである。(『キリスト教の精髄』、柳生直行譯)
   要するに西洋の傳統的價値觀に據れば、政治よりも文學を重視するのは當然であつて、松原氏はその西洋的價値觀を是としてゐるに過ぎない。あまカラ氏による松原批判の理屈に從へば、エリオットもルイスも「文学者は特権階級であるという認識」を抱いた鼻持ちならぬ連中で、「裏口からの権力奪取を図っている」權力亡者と云ふ事になつて仕舞ふ。

 大急ぎで馬鹿念を押しておくが、政治より文學を重視する事は、政治を「侮蔑」する事ではない。もしさうなら、松原氏が自衞隊擁護の論陣を張つたり、全斗煥や岸信介への尊敬の念を文章に綴つたりする筈が無い。さらに強調しておきたい事だが、松原氏は自衞官や元自衞官を前にした講演で「自衞隊がやつてゐる事もどうでも良い事だ」とも述べてゐる。國防は政治の領域に屬する事柄だからである。實に明晰で筋が通つてゐる。同樣の意味で云へば、拉致問題も「どうでも良い事」である。
  
 「単に政治問題を政治問題として論じた文章」がなぜ下らないか。「政治に先行する領域」を意識しないから下らないのである。もし「政治に先行する領域」を意識しつつ政治を論じたとすれば、「諸君!」に掲載される論文のやうな、日本人にとつて政治こそ最大の問題であると云はんばかりの昂ぶつた調子の文章にはならない筈である。アメリカの經濟學者フランク・ナイトは、「生産」や「分配」や「消費」が人々の意識にすらのぼらなくなつた時、人間の努力の大半は「美、眞實、人間關係の正義、あるいは文化的成長といつた問題に向けられてゐるであらう」と書いてゐる。最も世俗的な學問たる經濟學を生業とする學者ですら、美や眞實や正義こそ人間にとつて眞の問題であると自覺してゐるのである。「文學者」を名告る人間さへも政治論議に血道を上げる日本とは何たる違ひか。

 あまカラ氏は、松原氏の最近の文章を「独りよがりの」「ねじくれた文章」と批判してゐるが、具體的な引用が無いので文句の附け樣が無い。いづれ氣の向いた時に具體的に論じて戴けると有難い。

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コメント

《福田恆存の表現》
「西洋の傳統的價値觀に據れば、政治よりも文學を重視するのは當然」について・・・福田恆存の以下の表現の方が解りやすく存じますがいかがでせうか。
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恆存曰く、「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。兩者は永遠に一致しないかもしれない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。間違ひは犯しませうが、本質な生きかたについては、昔から何の變更もありません。が、ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる」(「福田恆存」全集三P79『個人と社會』)。

關聯内容はこちらをご高覽下さい。
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page024.html
『福田恆存を讀む會』
http://www.geocities.jp/sakuhinron/
『福田恆存を探求す』


投稿: 『福田恆存を讀む會』 | 2006年9月27日 (水) 21時34分

 どうも御教示有り難う御座います。

投稿: 木村貴 | 2006年9月28日 (木) 13時45分

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