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2006年4月22日 (土)

青臭いぞ私は

 内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』(毎日新聞社)を迷つた末買ふ。まだ斜め讀みしかしてゐないが、内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」の中にこんな件がある。 

 ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには千里の逕庭がある。/殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が同時に存在しているということである。そして、その二つの両立不可能の要請の間に「引き裂かれてあること」が人間の悲劇的宿命であるということである。/矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、話を単純にしてくれないとわからないと彼らは言う。/それは「子ども」の主張である。「武装国家」か「非武裝中立国家」かの二者択一しかないというのは「子ども」の論理である。ものごとが単純で氣持が悪いというのは「子ども」の生理である。/「大人」はそういうことを言わない。

 引用した文章の後で、「外交の要諦は『バクチ』をすることではない。国益を損なうリスクをできる限り排除することである」と述べてゐる事からも分かるやうに、内田氏は自分が現實主義者(大人)だと云ひたいらしい。日本國憲法を戴く日本は世界から見れば「変わった国」かもしれないが、「世界史上でも例外と言えるほどの平和と繁榮」を維持する爲には、「普通の国」なんぞでなく、これまで通り「変わった国であるほかない」し、「この病態を選んだ先人の賢明さを多としたいと思う」とすら言ひ切る。護憲派は空想的平和主義者だと揶揄されがちだが、實は「リアル」な世界と「国益」を見据ゑた現實主義者(大人)なのであつて、現實派ぶる改憲派こそ世間知らずの非現實派(子ども)なのだ、と印象附けようとしてゐる。だが「過去さうだつたから今後も同樣の方針が正しい」とは決して云へない。要するに内田氏は戰前の神懸かり的な國粹主義者と同じで、日本は特別な國でなければならぬと根據も無く述べてゐるに過ぎない。危險極まる。因みに私は改憲派でも護憲派でもない「現憲法無效論者」だが、それに就いては後日論じたい。

 さて内田氏に限らず、「大人」と云ふ言葉が殺し文句になると信ずる言論人が右派左派ノンポリを問はず存在する。例へば或る文藝評論家は己が師匠に就いて「子供だからな」と論評したさうだが、つくづく愚かしいと思ふ。「大人」である事がそんなに偉いのか。若しガリレオが「大人」だつたなら世間を騷がすやうな地動説なんぞ唱へなかつただらうし、若しモーツァルトが「大人」だったなら聽衆が困惑するやうな「ピアノ協奏曲ニ短調」なんぞ書きはしなかつただらう。若し人間が皆「大人」だつたなら、文學も藝術も科學も存在せず、それらを飯の種にする評論家と云ふ職業なんぞ抑も生れやうが無かつただらう。

 内田樹から見れば、大昔から「平和と繁榮」なんぞそつちのけで戰爭ばかりやらかして來た歐米の人間は幼稚極まる「子ども」なのだらうが、その歐米人は正義だとか眞理だとか云ふ青臭い事柄を人一倍氣に懸ける連中で、それゆゑ多くの戰爭をやらかし、同時に多くの優れた哲學者や文學者や科學者を生んだ。若し歐米人が皆現實主義の「大人」だつたとすれば、内田氏がフランス哲學で飯を食ふ事も出來なかつたのである。内田氏の主たる研究対象であるレヴィナスが平和主義者だとしても同じである。戰爭が無ければ平和主義者が注目される事は無いからだ。さらに云へば、歐米諸國は「平和」は兔も角、日本に劣らぬ「繁榮」を享受してゐるのである。内田氏よ、不思議ではないか。

 自分で云ふのも何だが、私は大變大人しい性格である。それだからこそ鍵括弧附の「大人」なんぞ糞喰らへだと思ふ。青臭いぞ私は。

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コメント

内田さんとやらは、政治と道徳とを分別せずに論じてゐるやうですね。
「人を殺さなければならない場合がある」とか「人を殺してはならない」とか云ふのは、政治と道徳の雙方にある「事實」や「禁令」でせうが、一方「人を殺してもよい條件を確定する」のは專ら政治の問題でせう。詰り、政治の問題に限つて言へば兩者は隣合せ、抑も「徑庭」は皆無の筈だし、また道徳面に限れば、「人を殺してもよい條件」なんぞ存在しない筈です。
尤も、近頃の私は腦の老化が進んだせゐか、木村さんが引用されてゐるやうな雜駁な文章を、段々に理解し難くなつてはゐるのですが。具さに讀むほどの根氣も集中力も失せて來ましたし……。
困つたものです。

投稿: 山人 | 2006年4月22日 (土) 10時42分

始めまして。世留と申します。

法律の立案者が心がけなければならないのは、法律関係の当事者が不安定な立場に置かれないようにすること、それが第一と考えます。そうでなければ、法が人を裏切り、誰も法律を信じなくなるからです。(我が憲法が現にそうです。)
法律立案の動機が間違っていても、これは仕方のないことだと思います。立案者もまた力に掣肘されるのですから。
しかし、「『武装国家』か『非武裝中立国家』かの二者択一しかないというのは『子ども』の論理である」と考えるのが学者であっても、立案者はそう考えてはいけない。
内田氏は、フランスで三権分立を習わなかったのでしょうか。

投稿: 世留 | 2006年4月22日 (土) 16時03分

内田氏は本書の宣傳を自らのblogに書いてをりますが、その中にこんな一文があります。

「驚いたことに、このお三方(江洲註:共著者)も私と同じように、「九条はあった方がいい」という結論は同じであるのだが、どなたも理由はよくわからないらしく、私同様「ああでもない、こうでもない」といろいろな理屈をつけている。」

これを讀んで本書には眞劍な議論があるとは思へなかつたのですが、やはり雰圍氣ばかりの内容のやうですね。

http://blog.tatsuru.com/archives/001622.php

投稿: 江洲 | 2006年4月22日 (土) 21時11分

御意見有り難う御座います。
「大人」と云ふ言葉にかちんと來たのでこのやうな文章を書いたのですが、内田氏の主張そのものに就いては充分批判出來ず、中途半端でした。別の機會に又書きたいと思ひます。

投稿: 木村貴 | 2006年4月23日 (日) 02時22分

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