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2006年4月29日 (土)

エリック・ホッファーの環境主義批判

 環境至上主義とは常人の自然愛好心と似て非なる物で、要するに左翼インテリが信奉する反資本主義であり、共産主義の一變型に過ぎない。港灣勞働者出身のアメリカの思想家、エリック・ホッファーは既に一九七〇年代初めにかう喝破してゐた。

 數年前、あるペルー人が私を訪ねてきた。[中略]その人はかういふのであつた。他國に比べてアメリカの科學技術が進みすぎてゐるのは不幸なことである。他の諸國は、アメリカに追ひつく努力をしなければならないために、歪んだ片端な國になつてしまふ。アメリカの物質主義が、リオ・グランデの南の諸國に、きはめて硬直的で破壞的な影響を與へてゐる。その人はかういつた月竝みなアメリカ批判をぶつたのである。

 正に月竝みなアメリカ批判で、今でも毎日讀んだり聞いたり出來る。ホッファーは續ける。
 サンフランシスコは氣に入つたかとたづねてみると、かなり氣に入つたがゴールデン・ゲート・パークには嫌惡を感じたといふ答へが返つてきた。なぜいたづらに自然に手を加へてしまふのか、人工の湖、人工の小川、人工の山、人工の瀧、かうしたものは自然に對する冒涜である、アメリカ人は自然に對する尊敬の念を缺いてをり、勝手氣ままに手を加へてしまふ、といふのであつた。

 これも『国家の品格』邊りに出て來さうな「月竝みなアメリカ批判」である。さて、ペルーのインテリに對して、貧しいドイツ移民の子であつたホッファーは何と答へたか。
 それに對して私はかう答へた。「ペルーではインカ人が何世紀もかけて大變な苦鬪をして築き上げたものすべてが、再び自然に奪ひ返されてしまつた。テラス、運河、道路、橋、都市といつたすばらしいものすべてが荒れはててしまつた。自然があなたたちの口元からパンをかすめとつてゐる。ペルーにとつては自然とどう取り組むかが唯一の問題だ。ペルーをゴールデン・ゲート・パークと化することこそ夢みるべきである。それなのにあなたはパリの學生時代に吹き込まれた陳腐なたはごとをならべたてて自然を讚へてゐる。」(以上『人間とは何か』より、田中淳譯)

 ホッファーにかう批判されると、件のペルー人は「尊嚴を傷つけられて憤怒し、すつくと立ち上がつた」さうだ。現代日本にも、フランス邊りの左翼知識人に吹き込まれた「陳腐なたはごとをならべたてて自然を讚へてゐる」評論家やその愛讀者が多いのには困つたものである。

 ところでエリック・ホッファーには『現代といふ時代の氣質』と云ふ著書もあるのだが、邦譯者は若き日の柄谷行人氏である。いつまでも「月竝みな資本主義批判」なんぞやつてゐると、あの世のホッファーから怒られるぞ。

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2006年4月26日 (水)

世界共和國の惡夢

 岩波新書リニューアル版第一册、柄谷行人『世界共和国へ』を買ふ。砂を噛むやうな文章で拾ひ讀みするだけでも辟易する。まどろつこしいので結論を見る。
 

人類はいま、緊急に解決せねばならない課題に直面しています。それは次の三つに集約できます。
  1 戦争
  2 環境破壊
  3 経済的格差
 これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が集約されているからです。そして、これらは国家と資本の問題に帰着します。国家と資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません。

 柄谷氏は文藝評論家でもある筈だが、彼が掲げる三つの「課題」は政治の領域に屬する事柄ばかりである。それでも論じ方によつては本質的な人間論になり得よう。しかし「単に政治問題を政治問題として論じ」れば、それこそ「諸君!」や「世界」の誌面を毎月賑はすやうな、數箇月で誰も讀まなくなる政治パンフレットの類に堕す。柄谷氏の著書は正しくそれなのである。例へば戰爭に關する處方箋はかうである。

 われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。

 柄谷氏には先づ支那や北朝鮮に「軍事的主権の譲渡」を呼び掛けて貰ひたいものだと云ふ皮肉はさて置き、假に世界中の國が國際聯合に軍事的主權を目出度く譲渡し終へた暁には、國聯は現在のアメリカをも凌ぐ強大な力で「一極支配」を恣にする事になる。その時若し國聯が不正な武力行使で特定の國を侵略したら、一體全體、誰が止めるのか

 「常に正しい人間が國聯の軍事力を掌握すれば間違ひは起こらぬ。若し武力行使をしたとすれば、それは正しいのだ」と正直に答へる程、柄谷氏は馬鹿ではないだらう。しかしそれ以外解答は無い。「國聯も間違ふかも知れないから、矢張り軍事力は各國にお返ししませう」では元の木阿彌だからだ。

 ところが現實には「常に正しい人間」が存在しない以上、「國聯は常に正しい」と云ふ虚構を權力で強制し、人間を「統御」しない限り、柄谷氏の「素晴らしい新世界」は存續し得ない。そんな世界に住むのは眞平御免だと私は思ふ。以上のやうな問題點は誰でも氣附くと思ふのだが、柄谷氏の本を熱心に讀む善男善女はさうでもないらしい。

 因みに柄谷氏が擧げた「三つの課題」に就いて私はかう考へる。

 1、戰爭=人間は平和と同じく戰爭をも好む。従つて戰爭は無くならない。無理矢理無くさうとすれば世界は却つて非人間的なディストピアに向かふ。
 2、環境破壊=私有財産制に基づく資本主義を貫徹すれば環境問題は克服出來る。人間は己の財産を大事にするからである。トマス・アクィナス曰く「何人も共通に萬人若しくは多數の人の物であるところの物よりも、專ら自己に歸屬するものの管理に當りより注意深くある」。舊ソ聯や東獨等が示したやうに、自然環境は社會主義の下で寧ろ極度に惡化した。
 3、經濟的格差=人間の個性能力が多種多樣である以上、經濟的格差が生ずるのは自然である。經濟的格差を人爲的に無くさうとすると人間は勤労意慾を失ひ、經濟全體の「パイ」が縮小する事は、此又舊社會主義諸國が證明してゐる。國民の間に百から五までの格差がある國と全員が平等に一である國のどちらが經濟的に豐かかは云ふまでも無い。

 私は政治問題に就いて書くのも好きだ。しかし「最大の問ひ」はそれ以外にあると思つてゐる。

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2006年4月22日 (土)

青臭いぞ私は

 内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』(毎日新聞社)を迷つた末買ふ。まだ斜め讀みしかしてゐないが、内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」の中にこんな件がある。 

 ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには千里の逕庭がある。/殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が同時に存在しているということである。そして、その二つの両立不可能の要請の間に「引き裂かれてあること」が人間の悲劇的宿命であるということである。/矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、話を単純にしてくれないとわからないと彼らは言う。/それは「子ども」の主張である。「武装国家」か「非武裝中立国家」かの二者択一しかないというのは「子ども」の論理である。ものごとが単純で氣持が悪いというのは「子ども」の生理である。/「大人」はそういうことを言わない。

 引用した文章の後で、「外交の要諦は『バクチ』をすることではない。国益を損なうリスクをできる限り排除することである」と述べてゐる事からも分かるやうに、内田氏は自分が現實主義者(大人)だと云ひたいらしい。日本國憲法を戴く日本は世界から見れば「変わった国」かもしれないが、「世界史上でも例外と言えるほどの平和と繁榮」を維持する爲には、「普通の国」なんぞでなく、これまで通り「変わった国であるほかない」し、「この病態を選んだ先人の賢明さを多としたいと思う」とすら言ひ切る。護憲派は空想的平和主義者だと揶揄されがちだが、實は「リアル」な世界と「国益」を見据ゑた現實主義者(大人)なのであつて、現實派ぶる改憲派こそ世間知らずの非現實派(子ども)なのだ、と印象附けようとしてゐる。だが「過去さうだつたから今後も同樣の方針が正しい」とは決して云へない。要するに内田氏は戰前の神懸かり的な國粹主義者と同じで、日本は特別な國でなければならぬと根據も無く述べてゐるに過ぎない。危險極まる。因みに私は改憲派でも護憲派でもない「現憲法無效論者」だが、それに就いては後日論じたい。

 さて内田氏に限らず、「大人」と云ふ言葉が殺し文句になると信ずる言論人が右派左派ノンポリを問はず存在する。例へば或る文藝評論家は己が師匠に就いて「子供だからな」と論評したさうだが、つくづく愚かしいと思ふ。「大人」である事がそんなに偉いのか。若しガリレオが「大人」だつたなら世間を騷がすやうな地動説なんぞ唱へなかつただらうし、若しモーツァルトが「大人」だったなら聽衆が困惑するやうな「ピアノ協奏曲ニ短調」なんぞ書きはしなかつただらう。若し人間が皆「大人」だつたなら、文學も藝術も科學も存在せず、それらを飯の種にする評論家と云ふ職業なんぞ抑も生れやうが無かつただらう。

 内田樹から見れば、大昔から「平和と繁榮」なんぞそつちのけで戰爭ばかりやらかして來た歐米の人間は幼稚極まる「子ども」なのだらうが、その歐米人は正義だとか眞理だとか云ふ青臭い事柄を人一倍氣に懸ける連中で、それゆゑ多くの戰爭をやらかし、同時に多くの優れた哲學者や文學者や科學者を生んだ。若し歐米人が皆現實主義の「大人」だつたとすれば、内田氏がフランス哲學で飯を食ふ事も出來なかつたのである。内田氏の主たる研究対象であるレヴィナスが平和主義者だとしても同じである。戰爭が無ければ平和主義者が注目される事は無いからだ。さらに云へば、歐米諸國は「平和」は兔も角、日本に劣らぬ「繁榮」を享受してゐるのである。内田氏よ、不思議ではないか。

 自分で云ふのも何だが、私は大變大人しい性格である。それだからこそ鍵括弧附の「大人」なんぞ糞喰らへだと思ふ。青臭いぞ私は。

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2006年4月21日 (金)

最近の買物

 名古屋に古本屋街と呼べるやうな所は殆ど無いのだが、敢へて云へば名古屋大學の近くに良い店が數軒ある。そこで最近買つた本。譯者省略。

 *R.ウェレック他『文學の理論』
 *ルドルフ・ウィットコウアー他『數奇な藝術家たち』
 *上田辰之助『聖トマス經濟學』
 *アンナ・ドストエフスカヤ『囘想のドストエフスキー』
 *エリ・ウィーゼル他『ホロコーストの記憶』
 *福原麟太郎他編『文學用語辭典』
 *マイクル・クライトン『恐怖の存在』
 *P.F.ドラッカー『明日を支配するもの』

 全て未讀。

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2006年4月18日 (火)

孔子を笑へるか

 昨秋、「吾は點に與せん」と云ふ文章を書いた時、平成山人さんから「お若いのに、何と達觀した事を言はれるものか」と云ふコメントを頂戴した。然し「あまカラ氏の誤解」で書いた事との關聨で云へば、あそこで書いた私の意見は「達觀」どころか、青臭い議論の最たる物なのである。
 孔子は政治に參劃する事を願ひ、その願ひが叶はぬ事を嘆いた男である。孔子が開いた儒教は「修身斉家治國平天下」と云ふ言葉が示す通り、個人の領域に屬する修身斉家の存在を意識しつつも、政治の領域に屬する治國平天下をより重視した。従つて西洋的尺度からすると「宗教」とは呼べないし、孔子は政治主義者だつたと云へよう。
 しかしその孔子ですら、「晩春の好時節に、春服に輕く着替へをして、元服したばかりの二十歳ぐらゐの青年五、六人と、十五、六歳のはつらつとした童子六、七人を連れて郊外に散策し、沂の温泉に入浴し、舞雩の雨乞ひ臺で一涼みして、歌でも詠じながら歸」る事を最大の抱負と答へた曽皙に對し、「わしも點の仲間入りがしたいものだ」と萬感の思ひを込めて同意したのである。これは單なる花鳥風月趣味ではないと私は思ふ。政治に就いて眞劍に考へた孔子は、「政治以前の領域」に就いても思ひを致さざるを得なかつたのだ。
 孔子は絶對者を強烈に意識せざるを得ない西洋人ではなかつたがゆゑに、個人と政治との關係に就いて西洋人ほど深く考へる事は出來なかつた。だが西洋を知つて百年餘りを閲した我々現代日本人は、西洋を知らなかつた孔子を笑へるほど「政治以前の領域」に就いて深く考へてゐるだらうか。とてもさうは思へないのである。そして私は、究極的には政治主義に甘んずる事が出來ず、「吾は點に與せん」と語つた孔子を立派な人間だと思ふのである。

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2006年4月16日 (日)

あまカラ氏の誤解(2)

 再び引用

 福田[恆存]においては決して「文学」が「政治」より重要な問題であるという認識はなかったと思う。両者は単なる役割分担であって、政治によって救いえない一匹が特に他の九十九匹よりも優れているわけではないのである。/ところが松原においてはこれがいつの間にか文学は政治より重要な問題だ、という意識に変質している。[中略]「諸君!」の論文は軒並みくだらない、といった発言(単に政治問題を政治問題として論じた文章のどこがくだらないのか)や、上記の発言を見れば、松原氏は政治そのものを侮蔑しているのだとしか思えない。/これは文学という高級な問題を扱う文学者は特権階級であるという認識に直結する。西欧と日本との徹底的な差を絶えず嘆く松原氏は、まさに福田恆存が訳したロレンスの「アポカリプス論」と同じように、裏口からの権力奪取を図っているとしか思えない。
 福田恆存は慥かに文學と政治の二元論を強調したが、だからと云つてそれらを「単なる」役割分擔だと考へたり、對等の價値を持つと信じたりしてゐた道理が無い。政治より文學が何層倍も「重要な問題」だと考へてゐたに決まつてゐる。何故さう斷言できるか。福田が尊敬する西洋の文學者達も、文學と政治を峻別しつつ、後者より前者を遙かに重視してゐるからだ。例へばT・S・エリオットが文學を「政治に先行する領域」と呼んだ事はあまカラ氏も御存じだらう。エリオットは文學における「人間とは何か」と云ふ疑問について、「樣々な問ひの中で最大の問ひ」とも述べてゐる。もしエリオットが人間にとつて文學と政治が持つ意味を全く同等と考へるのならば、「先行する」とか「最大」とか云ふ表現を使ふ筈が無い。

 政治と文學の關係、政治と道徳の關係、政治と信仰の關係――これらは纏めて「國家と個人の關係」と言換へられようが、西洋文化においては「國家よりも個人が重要」と信ずる強い傳統がある。云ふまでも無くキリスト教の影響である。エリオットと同じく英國國教會信徒で「ナルニア國物語」の作者でもあるC・S・ルイスはかう端的に書いてゐる。

 もし個々の人間が七十年しか生きないとすれば、千年も存續しうる國家や國民や文明の方が個人よりも重要であるだらう。しかし、もしキリスト教が眞實だとすれば、個人の方が國家などよりも重要、いや比較を絶するばかりに重要となるだらう。なぜなら、彼の生命が永遠であるのに對して、國家や文明の生命は、これに比べれば、一瞬の出來事にすぎないからである。(『キリスト教の精髄』、柳生直行譯)
   要するに西洋の傳統的價値觀に據れば、政治よりも文學を重視するのは當然であつて、松原氏はその西洋的價値觀を是としてゐるに過ぎない。あまカラ氏による松原批判の理屈に從へば、エリオットもルイスも「文学者は特権階級であるという認識」を抱いた鼻持ちならぬ連中で、「裏口からの権力奪取を図っている」權力亡者と云ふ事になつて仕舞ふ。

 大急ぎで馬鹿念を押しておくが、政治より文學を重視する事は、政治を「侮蔑」する事ではない。もしさうなら、松原氏が自衞隊擁護の論陣を張つたり、全斗煥や岸信介への尊敬の念を文章に綴つたりする筈が無い。さらに強調しておきたい事だが、松原氏は自衞官や元自衞官を前にした講演で「自衞隊がやつてゐる事もどうでも良い事だ」とも述べてゐる。國防は政治の領域に屬する事柄だからである。實に明晰で筋が通つてゐる。同樣の意味で云へば、拉致問題も「どうでも良い事」である。
  
 「単に政治問題を政治問題として論じた文章」がなぜ下らないか。「政治に先行する領域」を意識しないから下らないのである。もし「政治に先行する領域」を意識しつつ政治を論じたとすれば、「諸君!」に掲載される論文のやうな、日本人にとつて政治こそ最大の問題であると云はんばかりの昂ぶつた調子の文章にはならない筈である。アメリカの經濟學者フランク・ナイトは、「生産」や「分配」や「消費」が人々の意識にすらのぼらなくなつた時、人間の努力の大半は「美、眞實、人間關係の正義、あるいは文化的成長といつた問題に向けられてゐるであらう」と書いてゐる。最も世俗的な學問たる經濟學を生業とする學者ですら、美や眞實や正義こそ人間にとつて眞の問題であると自覺してゐるのである。「文學者」を名告る人間さへも政治論議に血道を上げる日本とは何たる違ひか。

 あまカラ氏は、松原氏の最近の文章を「独りよがりの」「ねじくれた文章」と批判してゐるが、具體的な引用が無いので文句の附け樣が無い。いづれ氣の向いた時に具體的に論じて戴けると有難い。

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2006年4月15日 (土)

あまカラ氏の誤解(1)

 「あまラ日記」の「ある思想家の末路」より。

 ところが松原においてはこれがいつの間にか文学は政治より重要な問題だ、という意識に変質している。例えば、かつて講演で松原が「北朝鮮による拉致問題などどうでもいい」と放言したのを聞いたことがある。まあ、聴衆向けのリップサービスであろうし、大目にみたいところではあるがその神経を疑わざるをえない発言であった。

 あまカラ氏が聽いたとみられる平成十六年十月の早稻田における講演で、松原正氏は慥かに「拉致問題などどうでもいい」と「放言」したが、それだけで話を止めた譯ではない。平成十八年四月二日の「闇黒日記」でも指摘してゐるやうに、では政治は何をすべきかと云ふ自らの考へを明確に述べてゐた。又、別の講演では「拉致された人が歸らない方が良いと云つてゐる譯ではない。歸つて來た方が良いに決まつてゐる」とも發言してゐる。殘念ながら上記二つの講演の正確な記録が手元に無いので、代りに平成十六年十一月の國語問題協議會における講演記録(「國語國字」第183號所收)から拉致問題に触れた箇所を引用する。

 今の人たちは、痛切な問題、大切な問題に對してどうしてかうも鈍感なのでせう。拉致問題もさうです。最近でこそ政府も政黨もマスコミも騒いでゐるけれど、それ以前はどうだつたか。政府は拉致の事實を掌握してゐながら、事なかれ主義で默殺し續けた。國の役割は國民の生命財産、安寧秩序を守ると云ふ事にしか無いのですよ。國民の中の三百人、千人はおろか一人であつても二人であつても外國に拉致されたのなら、しかも國家意志の發露として國家機關に拉致されたのなら、その犯罪國家に對して武力行使を含めた強硬措置を以て臨むべきです。まあ、平和呆けの現在の日本が武力發動するのは無理としても各種の嚴しい制裁措置は當然取られるべきです。私が總理大臣なら、「よし、歸さないと云ふなら仕方無い。これ以上、拉致問題の協議なんかやらない。お前の國とは一切附合はない。あとは制裁あるのみだ」と言つてやる。まさにそれだけの話ぢやないですか。ところが、こんなに長い間、數百人も拉致されたのに何の制裁も加へてゐない。それを今頃になつて、何で騒ぐのか。騒げるやうな空氣になつたから騒いでゐるのでせうよ。(「福田恆存の思ひ出」)
 至極眞當な發言だと私は思ふが、あまカラ氏は如何であらうか。

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