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2006年3月24日 (金)

國家に友人は存在するか

 「日本は世界に友人がゐない」だの「アジアに友人がゐない」だのと嘆いてみせる文章を時々目にする。空々しい限りである。友愛が成立するのは個人と個人、それも直接知つてゐる個人同士の間だけである。E.M.フォースターはかう書いてゐる。

 愛は、私生活では大きな力です。最大の力と言つてもいいほどです。ところが、公生活では役に立たないのです。それは何度も實驗ずみで、中世のキリスト教文明でも、世俗版の人類愛強調運動だつたフランス革命でも實驗されました。ところが、すべて失敗したのです。國家同士で愛しなさい、企業同士あるいは商取引委員會同士で愛しなさいなどといふ――これはバカげた話で、非現實的で危險です。(小野寺健編譯『フォースター評論集』、中西寛『國際政治とは何か』より再引用)

 フォースターの文章を引用した中西寛は例外なのだらうが、日本人の多くは國家と個人を、すなはち政治と道徳を區別せずに物事を論ずる。しかし西洋の知識人は兩者の區別を常に強く意識してゐる。枚擧に暇無いが、もう一つだけ紹介しておかう。

 愛國心[中略]のパラドクスとは、愛國心は、個人の非自己中心主義が國家の利己主義に轉化する、といふことである。國家への忠誠心とは、もしより低い忠誠心や地方的利害とくらべるならば、それは高度な利他主義の形態である。[中略]個人の非自己中心主義は、國家の自己中心主義を助長するのである。これこそ、なにゆゑ、人類の大きな社會問題をただ個人の社會的同情を増大させることだけによつて解決しようとする希望が、空しいものであるかを示す理由なのである。(ラインホールド・ニーバー『道徳的人間と非道徳的社會』、大木英夫譯)

 個人的に附き合へばどの國にも立派な人間はゐるに違ひない。しかし知りもしない「世界」や「アジア」の人間に友情を抱けと云はれても抱ける道理が無いし、それは先方も同じだ。ましてや國家同士、つまり國民の大多數同士が互ひに友情を抱ける筈が無い。小泉純一郎とジョージ・W・ブッシュや胡錦涛との間に個人的な友情は生まれ得るかもしれないが、それは日本とアメリカや中國との間の友情ではない。

 かう大眞面目に批判すると、「友人と云つても物の譬へなのだから」とはぐらかされるかもしれない。それならかうお返ししよう。わざわざ情に訴へる言葉を使つて大眞面目に嘆いてみせるのは止めて呉れ。

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