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2006年2月20日 (月)

パンとパン以外の物

 今の世の中、駄本ばかりがベストセラーとなり、良書がさつぱり賣れない。嘆かはしい限りだが、ではどうすればよいか。實は名案は無いのである。資本主義の擁護者であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスはかう書いてゐる。

 優れた判斷の持ち主から見れば、最も榮えてゐる者が、人類の中で最も傑出した人物だと言へないことは、もちろん事實である。不器用な多數の凡人は、自分の悲慘な状態をカバーしてくれる人々のメリットを正當に價値評價するのには適してゐない。彼らは、自分の慾望の滿足を基準にして人を價値評價する。したがつて、ボクシングの選手や探偵小説の作家は、哲學者や詩人よりも高い名聲を博し、收入も多い。この事實を悲しむのは確かに正しいことだが、天才のインスピレーションを缺く人々が、以前には誰も知らなかつたので、初めは拒否するやうなアイディアを人類にもたらす、イノベーターの功績に對して公正な報酬を與へることができる社會體制は、誰にも考へだすことはできないだらう。(村田稔雄譯『經濟科學の根底』、日本經濟評論社)

 イノベーターとは、古くは蒸氣機關を發明したジェイムズ・ワット、近くはウィンドウズを開發したビル・ゲイツのやうな技術的革新者を指す。彼らのおかげで我々大衆はアイポッドで音樂を樂しんだりブログに文章を書いて胸のつかへを解消したり出來る譯だが、それと引換に、大衆が好まぬ物は賣れず、哲學者や詩人は經濟的に報はれないと云ふ事になる。かと云つて、大衆にとつて小難しいばかりで面白くもない哲學書や詩集を無理矢理買はせる事は資本主義の下では出來ないし、さう云ふプラトンの理想郷のやうな社會では經濟的發展は阻害され、この上無い不便や飢ゑを味はふ事にならう。

 ミーゼスは教養人として、哲學者や詩人よりもボクサーや探偵小説作家の稼ぎが多い社會は或る種の問題を抱へる事を承知した上で、功利主義的觀點から資本主義を是とした。チャーチルは彼一流の表現で「民主主義は人類が生み出した政治制度の中で最惡だが、これよりましな物は他に無い」と云つたさうだが、資本主義についても同じ事が云へる。多く稼ぐ人物が立派だとは限らない。しかし厄介な事に、多く稼ぐ人間は有用なのである。駄本でも多く賣れればそれによつて潤ふ出版社社員、印刷工、書店主等々は膨大な数に上る。

 いづれにしても注目すべきは、ミーゼスがパン(經濟)とパン以外の物(哲學・藝術)とを峻別して考へてゐる點である。ミーゼスは紛れもなく西洋知識人の傳統に屬する一人である。

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