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2005年11月 2日 (水)

國語問題は政治問題か

 政治的自由は私的自由を生み出す限りにおいてのみ貴重である。この事を國語問題に當て嵌めるとどうなるだらう。
 技術的理由により一部は實現不可能であるものの、私は御覽のやうにほぼ正字正假名で文章を書き、ウェブ上で公開する事が出來る。正字正假名の手紙も自由に書けるし、その氣になれば自費出版等で本を出すことも出來るだらう。商業的理由は兔も角、政治的理由でそれが妨げられる氣遣ひは無い。又、古本屋に行けば正字正假名で書かれた書物を自由に買ひ求め樂しむ事が出來る。これほどの私的自由がありながら、國に對して不平不滿を竝べるのは贅澤ではないか。政府の惡口ばかり云ふ正字正假名派を見ると、さう思ひたくなる。
 勿論實際には、政府は内閣告示や内閣訓令の形で「常用漢字」「現代仮名遣い」「送り仮名の付け方」等を事實上強制してゐる。従つてこれらの告示や訓令を撤囘させる事は政治的目標として意味がある。だが嚴しく云へば、これらの告示訓令は「事實上」強制であつても、本來的には強制ではない。「お上に逆らはず」「長い物には卷かれろ」と云ふ情けない根性(厄介な事に長所の裏返しでもある)が日本人に無ければ、こんな告示や訓令は無視して正字正假名は生き殘つてゐた筈なのである。
 日本國憲法も略字新假名と同じやうに日本人は受け容れた。やや脱線するが、日本人は政治が大好きだから、日本國憲法を改正する段になつても、私的自由にかかはる國語表記には殆ど誰も關心を寄せず、憲法は略字新假名になるだらう。「保守派」知識人の中からも「まづは憲法改正が先決」とて表記問題を棚上げする聲が出るに違ひない。しかし實を云へば憲法の表記なんぞどうでも良い。日本人一人一人が國語表記をどうでも良いと思つてゐる時に、憲法の表記を論つて何の意味があらう。
 告示や訓令に名を籍りた政府の介入は断乎排すべきである。私的自由を可能ならしめる政治的自由を確保する爲である。しかし問題はその前、或いはその後である。日本人一人一人が正字正假名を尊重すると云ふ私的自由を自らの意志で行使しない限り、政治的目標の達成は至難だし、假に何かの拍子に達成出來たとしても、永續する見込みは無い。近年評判の芳しからぬ言葉だが、啓蒙がまづ不可缺なのである。

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