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2005年11月12日 (土)

補足:正字正假名なら何でも良いのか

 最も分かり易い例は憲法である。現憲法は正假名で書かれてゐるが、だから即ち素晴らしい憲法であるとは云へない。戰前は詐欺師も出齒龜も正假名で文章を書いたのである。

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2005年11月 5日 (土)

正字正假名なら何でも良いのか

 當り前の話だが、正字正假名で書いた文章が全て素晴らしい譯ではないし、略字新假名で書いた文章が全て駄目だと云ふ譯でもない。松原正氏の「パソコンとハムレット」は幸ひにして正字正假名で連載中だが、假に略字新假名であつても私は必ず買ひ求め讀み耽つたであらう。
 況はんや波江某の字數歌などと云ふ代物は表向き正假名で書かれてゐても、やつてゐる事は國語破壞以外の何物でも無い。波江某は、自稱右翼でその實アナーキストの福田和也(中川八洋『福田和也と《魔の思想》』參照)と同類だと思ふ。
 正字正假名である事が唯一の取り柄である文章――。そんな物に何の意味も無い。表記は大事だが中身も大事なのである。當り前ながら。

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2005年11月 3日 (木)

最近の買ひ物

 *フローベル『三つの物語』(鈴木信太郎・辰野隆・吉江喬松譯、新潮文庫)、百圓
 *コンラッド『颱風』(三宅幾三郎譯、新潮文庫)、百圓
 *『ジャム詩集』(堀口大學譯、新潮文庫)、百圓
 *芥川龍之介『文藝的な、餘りに文藝的な』(新潮文庫)、百圓
 *ツルゲーネフ『散文詩』(中山省三郎譯、角川文庫)、二百圓
 *ピエール・ルイス『ビリチスの歌』(鈴木信太郎譯、角川文庫)、四百圓
 *ゴーゴリ『隊長ブーリバ』(平井肇譯、角川文庫)、五百圓
 *『山内義雄譯詩集』(角川文庫)、五百圓

 すべて正字正假名表記。すべて古本。

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2005年11月 2日 (水)

國語問題は政治問題か

 政治的自由は私的自由を生み出す限りにおいてのみ貴重である。この事を國語問題に當て嵌めるとどうなるだらう。
 技術的理由により一部は實現不可能であるものの、私は御覽のやうにほぼ正字正假名で文章を書き、ウェブ上で公開する事が出來る。正字正假名の手紙も自由に書けるし、その氣になれば自費出版等で本を出すことも出來るだらう。商業的理由は兔も角、政治的理由でそれが妨げられる氣遣ひは無い。又、古本屋に行けば正字正假名で書かれた書物を自由に買ひ求め樂しむ事が出來る。これほどの私的自由がありながら、國に對して不平不滿を竝べるのは贅澤ではないか。政府の惡口ばかり云ふ正字正假名派を見ると、さう思ひたくなる。
 勿論實際には、政府は内閣告示や内閣訓令の形で「常用漢字」「現代仮名遣い」「送り仮名の付け方」等を事實上強制してゐる。従つてこれらの告示や訓令を撤囘させる事は政治的目標として意味がある。だが嚴しく云へば、これらの告示訓令は「事實上」強制であつても、本來的には強制ではない。「お上に逆らはず」「長い物には卷かれろ」と云ふ情けない根性(厄介な事に長所の裏返しでもある)が日本人に無ければ、こんな告示や訓令は無視して正字正假名は生き殘つてゐた筈なのである。
 日本國憲法も略字新假名と同じやうに日本人は受け容れた。やや脱線するが、日本人は政治が大好きだから、日本國憲法を改正する段になつても、私的自由にかかはる國語表記には殆ど誰も關心を寄せず、憲法は略字新假名になるだらう。「保守派」知識人の中からも「まづは憲法改正が先決」とて表記問題を棚上げする聲が出るに違ひない。しかし實を云へば憲法の表記なんぞどうでも良い。日本人一人一人が國語表記をどうでも良いと思つてゐる時に、憲法の表記を論つて何の意味があらう。
 告示や訓令に名を籍りた政府の介入は断乎排すべきである。私的自由を可能ならしめる政治的自由を確保する爲である。しかし問題はその前、或いはその後である。日本人一人一人が正字正假名を尊重すると云ふ私的自由を自らの意志で行使しない限り、政治的目標の達成は至難だし、假に何かの拍子に達成出來たとしても、永續する見込みは無い。近年評判の芳しからぬ言葉だが、啓蒙がまづ不可缺なのである。

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2005年11月 1日 (火)

政治と私的自由

 サミュエル・ジョンソンは「これまで人間が考案したもので、およそ整つた居酒屋や旅館ほどに無限の幸福を生み出す設備はない」と言つた。それから百七十年後、同じイギリス人のジョージ・オーウェルも居酒屋への愛着を込めてかう書いた。

 「水月」では、れつきとした食事こそできなくても、スナック・カウンターがいつも開いてゐるから、ここでレバ・ソーセージのサンドイッチとか、この店の名物の貽貝、チーズ、ピクルス、それに、これはパブにしかなささうな茴香の種が入つてゐる大きなビスケットなどを買へばいい。[中略]酒器にもうるさく、かりにも一パイントのビールを柄がついてゐないグラスで出すやうな愚は、決して犯さない。ガラスと白目のマグのほかにも、この店ではいまのロンドンではめつたに見られないストロベリー・ピンクの陶のマグを置いてゐる。[中略]いちばん意表をつくのは庭である。紳士用のサルーン・バーから狹い通路を抜けていくと、鈴掛の木が何本か植わつてゐるかなり廣い庭があつて、木陰に緑色の小さなテーブルが置いてあり、そのまはりに鐵の椅子が竝んでゐるのだ。庭の上手には子供用のブランコがいくつか、それに滑り臺もひとつある。(「パブ『水月』」小野寺健譯)

 オーウェルが描く理想の居酒屋「水月」は實は架空の存在であるが、ほぼそれに近い店もロンドンに「二、三軒はある」と云ふ。ジョンソンもオーウェルも私的自由のもたらす幸福について静かに語り、決して聲高に「國益」だの「改革」だのと叫びはしない。かといつて、政治に無關心なわけでは決してない。「政治上の自由は、それが私的な自由を生み出す限りでのみ貴重」であるに過ぎない事を承知してゐるのだ。

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