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2005年10月24日 (月)

撰んだのは日本人

 國語問題關係者の集りで、誰だつたか「日本中のパソコンに入つてゐるファイルを全部正字正假名に變へて仕舞ふウィルスが出來ませんかね」と冗談を云ひ、思はず笑つて仕舞つた事がある。確かに新種のウィルスでも誕生してくれない限り、正字正假名が一時的にでも復活する望みはまづ無い。何故か。
 まづ政治的な手段を考へよう。正字正假名を義務づける法律を國會で作らせよう。民間まで直接縛る事は無理でも、役所が公文書の表記を正字正假名に變へ、「新聞・出版もこの表記を尊重する事が望ましい」と一言通達しさへすれば、お上に弱い日本人の事、忽ち右に倣へで正字正假名が復活するだらう、かつて略字新假名が瞬く間に廣まつたやうに……否。
 そもそも正字正假名を義務づける法律なんぞ出來る筈が無い。今は戰後のどさくさではない。大衆民主主義の世の中である。國會議員や高級官僚と雖も、大衆や、大衆を顧客とする新聞・出版界の意に反して略字新假名を廢止出來る道理が無い。裁判に略字新假名の不正を訴へても無駄だ。裁判官も大衆の便利を第一に考へるからである。
 では文化的手段に轉じよう。日本の代表的知識人や文學者、それも出來れば全員に、正字正假名で書いて貰はう。正字正假名でなければ原稿を渡さないと出版社や新聞社に通告して貰はう。知識人文學者が大衆に範を示せば、正字正假名の文章が當り前になれば、そこで初めて、政治的手段が成功する可能性も生ずる……否。
 そんな夢のやうな話が實現可能なら疾くの昔に實現してゐる。日本の知識人文學者の大部分は國語表記なんぞに關心は無い。關心が多少あつても現状を變へようとまでは思はない。或いは喰ふ爲にはそんな閑人のやうな事を言つてゐられない。福田恆存はじめ正字正假名派知識人の多くが健在だつた頃からさうだつたのだから、今更何をか云はんや。
 サミュエル・ジョンソンは云つてゐる、「人類は知的な苦勞への甚しい嫌惡を持つてゐる。しかし知識が簡單に入ると想定しても、多分大部分の人間はわづかな手數をかけてそれを手に入れるよりは、無知のままで滿足する方を撰ぶだらう」。正字正假名派はまづ、この苦い眞實を噛み締めるべきである。文部省や國語審議會や日教組が惡いから「不正字不正假名」が普及したのではない。日本人自身がそれを撰んだのだ。こんな國で正字正假名が自然に復活する事はあり得ない。
 繰り返すが、政治を動かさうとしても無駄である。まづは文化的手段に着手するしかない。個人で出來る事に限りがあるとすれば、組織でやらざるを得ない。難しいのは、明確な目的意識を持つた指導者が全體を纏めないと組織は迷走すると云ふ事である。

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コメント

まずお断りしておきます。福田恒存センセーについて以前に行った投稿は論争を目的としたものなので、反論に対しては再反論しましたが、前回の愛国心の問題を含めて、今後の投稿はいずれも木村様の主張に対する私の感想でありますので、これに対する反論などがあったとしても、ほとんど再反論は致しません。
 さて、旧かなづかいが復活するか、という事では復活しないことで私は木村様の意見に賛成ですが、その理由が異なります。復活しない理由は、二枚舌の巨匠福田恒存センセーについての私の主張で明らかにしましたように、旧かな支持・新かな否定を主張している人の全てが、我利のためにのみ新かな表記で著書を出版していることです。こんな言行不一致なことをやっていて、己の主張していることが実現できるはずが無いことは、誰が考えても明らかでしょう。それも、例えば敗戦前の大日本帝国時代のような、国体を変革する思想の持主を処罰するという法律が制定されているならともかく、旧かな表記で著書を出版すると処罰されるなんて事のない世の中においてさえ、都合のいい理屈を並べ立て、己の主義・主張を捨ててまであえて新かな表記の本を出版する手合いが、旧かな支持論者の圧倒的多数を占めているのですから、旧かな復活は夢のまた夢でしょう。私に言わせれば、新仮名排斥論者のほとんど全てはお調子者の福田恒存同様の卑劣漢です。

投稿: 福田恒存をやっつける会会長 | 2006年6月12日 (月) 11時22分

何度も書き掛けては止め、書き掛けては止め
遂に、読者を
一、作家・評論家・学者、その他の文筆家
一、新聞人、雑誌・単行本の編集者
一、国語の教師
一、右三者を志す若い人
に規定し、始めて「私の国語教室」は上梓されました。
国語問題は、下手をすると人を狂気に導く。狂気に人を導くものは、常に「観念」です。
故に、その「観念」と戦う者、戦える者、即ち、国語を正しく考えようとする者、それに耐えられる者を読者としたのです。(私には、耐えられません。降参です。)
確かに福田さんは、小っちゃな「っ」や「ゃ」はお嫌だったでしょうし、「横書き」なんてしようものなら、「パソコンは馬鹿です。」、「いえ、馬鹿は人間です。」、「ああ、そうか。」(ニヤリ)と、言ったに違いありません。でも、ご自分の読者にパソコンの使用禁止を求めることなど思ってもいなかったのではないでしょうか。
何故なら、「正しく考えよう」とするそこには、観念のつけ入る隙が山ほどあって、しかも誰もが危うきに遊べる訳ではなく、又、誰もが遊ぶべき場でもないのですから。
敢えていうなら、「私の国語教室」の威力・魔力を福田さんは知っていたし、「覆水盆に返らず」の重さは、それを言う誰よりも知っていた。しかし、正しく考えようとすることは、「覆水を盆に返す」ことより遥かに大切なことだったのです。いや、その覆水のなかを自在に泳いでみたかった。そして泳げると確信した。それは、国語への信頼が確信させたのです。その意味では、確かに、「保守主義者」といえるかもしれない。けど、福田さんは、「○○主義」、や「○○主義者」などいうものを信じてはいなかったのではないでしょうか。「主義」=「思考停止」くらいなものでしょう。
「仮名遣ひ」は、福田さんにとって「意匠」でも、又、「絶対」でもなく、その反省が、国語の伝統と直結する「対象」であった。
序にいえば、「表音的表記」も国語の健康を維持するための「必要悪」であり、観念と足場との距離を測る三点観測の杭として捉えていらしたのではないかしら。ただ、それが「表音主義」いう「観念」として現れれば、猛烈に反発するでしょう。
「言うは難く、行うは易し」なのだよと、口癖のように言っておられた福田さんのどこをどう読めば、「原理主義者」福田恆存が出てくるのか、私には不思議でなりません。常に「常識」の人であり、「バランス」の人であった福田さんが、「観念」に殉じようなどと、先ず、自分を疑い、「観念」を疑う福田さんが、そんな恥ずかしい馬鹿なことを考える訳もなく、読者に求める訳もないからです。
「考える」それが、福田さんの「言行一致」であり、誰かが言っていたように、その「貴族主義」が福田さんの最大の弱点であると言えばある訳です。まあ、「僕は、ノルマは嫌いなのだよ。」そう仰るでしょうが。

投稿: 世留 | 2006年6月12日 (月) 13時13分

御金儲けが好きな人間が、正字正假名で本を出す訣がないでせう。新字新かな「でも」本を出す、それを「会長」さんは「矛盾」だと極附ける訣ですが、何が何う矛盾であるのか、「会長」さんは全く説明出來ません。だから、「会長」さんの指摘はナンセンスなのです。

「我利」で新字新かなに轉向した人がゐる、と非難する、その人が、新字新かなに轉向した出版社の人の意嚮によつて、新字新かなで出版する事を餘儀なくされる――さう云ふ事情が「ある」訣ですが、「会長」はわざとさうした事情の存在を無視します。なぜか。さうしないと「会長」の主張は成立たないからです。

即ち、「会長」は、自分の主張を正しいものであるかのやうに見せかけるために、都合良く材料の撰擇を行つてゐるのです。


「会長」は、ただひたすら自分の意見を他人に押附け、快を貪る事だけを目的に投稿してゐます。だから「会長」は、公的な場での發言であるにもかかはらず、「木村さんの發言への感想だから」と言つて、「会長」自身の矛盾・誤解・誤讀・曲解・歪曲を突込まれても、それを「無かつた事」にして誤魔化さうとします。「これに対する反論などがあったとしても、ほとんど再反論は致しません。」と言つてゐるのがその證據です。

投稿: 野嵜 | 2006年6月12日 (月) 19時50分

既に『あっぱれクライトン』譯出の時期が『私の國語教室』執筆の時期の遥か以前である事、また、同譯書が福田氏の單獨譯でなく鳴海四郎氏との共譯書である事が明かになり、「会長」はそれに反論出來ないでゐます。そして、新潮文庫のやうな出版社の方針が定まつた叢書に收録されたものを除けば、福田氏の單行本で刊行された著書が『私の國語教室』以後、全て正假名である事は明かな事實です。「会長」の主張は全て崩れ去つてゐるのですが――と言ふより、さう云ふ事實があるのだから「会長」は自分の主張を撤囘しなければならないのですが、未だに「会長」は執拗に福田氏の人格を非難し續けてゐます。これでは、「会長」は「わかつてゐてわざとやつてゐる」事にしかならない訣で、即ち根據のない誹謗中傷を「会長」は續けてゐる事になります。さう云ふ誹謗中傷は明かに犯罪行爲であり、「会長」は犯罪行爲をおほつぴらに續けてゐる訣です。

犯罪行爲を繰返してゐる「会長」には、自らの行爲を反省し、早急に福田氏及び關係者に謝罪をしていただきたいものです。

投稿: 野嵜 | 2006年6月12日 (月) 19時56分

>前回の愛国心の問題を含めて、今後の投稿はいずれも木村様の主張に対する私の感想でありますので、これに対する反論などがあったとしても、ほとんど再反論は致しません。

 それは樂で良いですね。では投稿禁止と致します。

投稿: 木村貴 | 2006年6月12日 (月) 23時05分

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