スタイナー、科學萬能主義を斬る
ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」(『言語と沈默』所收、橋口稔譯)より。
科學者たちは、經驗による證明といふ基準と、共同研究の傳統をたよりに、[中略]科學の方法とヴィジョンこそ今や文明の中心である、詩と形而上學の昔ながらの優越は終つた、と主張しようとしてゐる。[中略]しかし、だまされてはならない。科學も言語と感受性を豐かにするであらう[中略]。科學は、われわれの環境を、文化が育つ餘暇と生活の場を、つくり直すであらう。しかし、自然科學や數學は、つきることない魅力をもち、しばしば美を感じさせるかも知れないが、人間の興味を究極的に滿足させることはない。それは、人間の可能性に對するわれわれの知識や支配を、ほとんど増加させることがなかつた、とわたしはいひたいのだ。神經學や統計學の全部をもつてしても、ホメロスやシェイクスピアやドストエフスキーにおける、人間洞察のゆたかさには、どうみてもかなはない。
人間とは何かを知るために生物學や進化論の知識は有益だと思ふ。しかしそれだけでは足りない、文學や哲學が是非必要だとスタイナーは云ふ。正しい指摘である。但し、現代の、特に現代日本の文學や哲學がその期待に應へられるかどうかは別問題である。
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コメント
世にひろく使はれてゐる「C++」言語の開發者 Bjarne Stroustrup (譯書には「ビョーン・ストラウストラップ」とある)の本をよんでゐたら、かういふ件りがありました(氏はデンマークで修士、ケンブリッジで博士號を取り、アメリカのベル研で活躍してゐる):
「私の長年の(25年以上に及ぶ)趣味は、歴史だ。また學生時代やそれ以降も、哲學の勉強にかなりの時間を費やした。この二つの趣味が、私の知性の形や姿勢を作つたと思ふ。まづ、世界にさまざまな思想がある中で私には、觀念論より經驗主義がいちばんしつくりする。觀念論は、私には理解できない神祕思想だ。プラトンよりアリストテレス、デカルトよりヒュームだ。パスカルは、もうぜんぜんだめ。プラトンやカントには、たしかに壯大な“システム”があると思ふが、日常生活や具體的な個人のさまざまな特質からあまりに遠いところにあるので、どうもぴんとこない。」
「私は理論や論理だけに基づく決定が嫌ひで、そのことは私の文學趣味にも現はれてゐる。さういふ意味ではC++は、マーチン・A・ハンセン、アルベール・カミュ、ジョージ・オーウエルなど、コンピュータを一度も見たことのない小説家やエッセイストたちの影響を大きく受けてゐる。またコンピュータ科學者の中では、David Gries, Don Knuth, Roger Needhamのやうな、科學者である以前に人間であり常識人であつた人びとに大きく影響されてゐる。」
といふことで、情報科學といへども西歐人の教養の厚みを見、感銘を受けるのですが(ヒュームやオーウエルが出るてくるところが憎い)、小生とて漱石鴎外、白石宣長は讀みます。日本人の科學者や工學者も聖徳太子くらゐは、いつでも言及してほしいものですね。引用文は板主人木村さんにならひ、今囘は正統表記に直しました。
投稿: 渡邊 建 | 2005年9月27日 (火) 06時31分
書名等を忘れてゐました。
Bjarne Stroustrup: “The Design and Evolution of C++” (Addison Wesley,1994).
岩谷宏譯 『C++の設計と進化』(ソフトバンク パブリッシング㈱、平成十七年)。邦譯版には「2005年のC++」といふ筆者Stroustrupによる序章が追加されてゐる。なほ引用は同書二十八頁から。
投稿: 渡邊 建 | 2005年9月30日 (金) 03時17分
御教示有り難う御座います。關係ありませんが、愛國心について調べようと思ひ、先日渡邊さんのお持ちになつてゐた川田順『愛國百人一首』の復刊本(河出書房新社)を買ひました。本文は良いのですが、半藤一利と松本健一の卷末エッセイがいかにもこの二人らしい詰まらぬ内容でぶち壞しですね。
投稿: 木村貴 | 2005年10月19日 (水) 03時22分
コメント機能不調と云ふ事で渡邊樣がメールで下さつた御返事を代はつて投稿します。(木村)
(以下、渡邊樣の文章)
御返事ありがたうございます。御説まことに同感です。半藤松本兩氏の文章を、出版の免罪符のやうに掲載したこの本は、川田原文の歴史的假名遣ひを「現代仮名遣い」に改めたとの挨拶もありません。擔當編輯者の怯懦が目立ち、情けない限りです。
この本のかなで、川田が有村蓮壽尼の歌につけた解説は、まことに美事と思ひますので引用しませう(原文を假に復元):
雄々(をゝ)しくも君(きみ)に仕(つか)ふる武士(もののふ)の母(はは)てふものはあはれなりけり
蓮壽尼、名は蓮子(れんこ)、鹿兒島藩醫森氏の女。その子雄助兼武及び治左衞門兼清は櫻田門事件に與(あづか)り、兼武は本藩に檻送されて死を賜ひ、兼清は井伊大老の首級を擧げて現場で自刃した。蓮壽尼は一擧にして愛兒二人を失つたのだ。雄々しく大君に仕へて生命を捧げた事を喜ぶと共に、獨り退いては、母てふ者のあはれさを泣いた。義と情を分離せず、一個の靈肉に兼ね收めてゐるところが、眞の女性であり、眞の人間である。
投稿: 木村貴 | 2005年10月24日 (月) 02時47分