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2005年7月28日 (木)

テロと西洋文明

 七月七日のロンドン爆破テロから五日後、オランダの裁判所で、ある殺人事件の公判が開かれた。昨年十一月、映畫監督のテオ・ファン・ゴッホがアムステルダムの路上でイスラム過激派の若い男に銃殺された事件である。
 ゴッホはイスラム社會での女性虐待を告發する映畫「服從」で、女の裸體にコーランの言葉を描いてみせ、イスラム教徒の反感を買つた。自轉車で仕事場に向はうとしてゐたゴッホに二十六歳の男は六發の銃彈を浴びせ、喉を引き裂く。遺體の上に「神の意思による」と記した聲明文を殘し、警官と銃撃戦の末逮捕された。
 男の名をムハンマド・ブイエリと云ふ。モロッコからの移民の二世で、オランダとモロッコ雙方の國籍を有してゐる。テレグラフの報道によると、法廷に立つたブイエリは裁判官に向ひ、殺害の事實關係を認めたうへでかう言ひ切つた。「我が教への名において行動したのだ。もし自由の身になつたら同じ事をやるだらう」。そして傍聽席にゐた被害者の母親に向き直り、かう言つた。「お前の痛みは感じない。同情も感じないと認めざるを得ない。お前の爲に感ずる事は出來ない、なぜならお前は信者でないからだ」。

 人文主義者エラスムスを生んだオランダは、自由と寛容を尊ぶ國として知られる。移民受入れにも西歐諸國の中で最も積極的で、異文化との共存を旨として來た。
 フォーリン・アフェアーズ七・八月號に掲載されたロバート・レイキンの論文「ヨーロッパの怒れるイスラム教徒」によれば、オランダでは移民向けの福祉や住宅政策が充實し、移民を優先的に雇用させる法規があり、無料の語学教室もある。事實上、その恩惠を最も享受するのはアラブ系イスラム教徒であり、町には税金でイスラム學校や禮拜所が建てられ、公營テレビにはアラビア語の番組がある。ゴッホを殺したブイエリ自身、犯行当時は失業手當で暮してゐた。
 しかし自由と寛容の理想を掲げて來たオランダは、映畫表現の自由を否定し異教徒に甚だ非寛容なブイエリの言動によつて、これまで避けてゐた難問に直面せざるを得なくなつた。自由で寛容な社會は、その價値觀を否定する相手に對しどこまで自由を認め寛容であるべきなのか。理想に從へば特定の信仰を排除出來ないが、かといつて相手の言ひ分を果てしなく認めれば社會そのものが成立しなくなつて仕舞ふ。
 「我々は非寛容に對して寛容であり過ぎた」。オランダの右派國會議員、ヘイルト・ウィルダースは斷言する。イスラム系移民の受入制限が持論で、イスラム過激派から殺害を豫告する脅迫状が毎週のやうに届くと云ふ。紋切型のマスコミは、右派政治家と云ふとすぐに差別主義の加害者と決めつける。しかし人間とはそれほど單純なものではない。
 ウィルダースの先輩格に當たる右派政治家で、二〇〇二年に動物愛護原理主義者に暗殺されたピム・フォルタインも一筋縄で行かぬ人物だつた。性道徳においても自由と寛容を旨とするオランダ人らしく、同性愛者である事を公言する一方で、同性愛者を宗教上の理由から差別するイスラム系移民を批判し、オランダの國民であればオランダの生活習慣に從ふやう訴へた。同性愛者と云へば弱者、弱者と云へば反體制派と云つた安易な圖式に慣らされた日本人には俄に理解し難い言動であらう。
 映畫監督ゴッホはブイエリに撃たれながら、かう叫んだと云ふ。「話し合はう、止めろ!」ゴッホは齒止め無き寛容主義を認める男ではなかつたが、それでも最期まで、人間は「話し合」へば何らかの解決を見出せると信じてゐた。平和主義者を以て任ずる言論人やマスコミは、イスラム過激派と民主的に話し合ふべきだと主張する。だがそれは果たして可能なのか。
 イラン生れのジャーナリスト、アミール・タヘリは不可能だと斷ずる。ロンドン爆破テロ翌日の七月八日、タイムズ・オンラインでかう書いた。「殘念ながら、諸君の敵は何か明確な事を望んでゐる譯ではないし、怒りを宥めたり圓卓を圍んで討議したりしたからといつて、反論を受容れる事もない。いや寧ろ、連中には明確な望みがあるとも云へる。諸君の生活を完全に管理し、一日中あらゆる行動について指圖する事だ。もし抵抗しようものなら、連中は諸君を殺す事を神聖なる義務だと心得るだらう」。
 イスラム過激派との「話し合ひ」に甘い期待をかけるべきではないと主張する言論人はタヘリだけではない。
 ウォールストリート・ジャーナル電子版のコラム「本日最高のウェブ」を擔當するジェームズ・タラントは七月十三日、「痛みを感じない」と言ひ切つた法廷のブイエリについて、憤りを顯はに書いた。「イスラエルによる〝パレスチナ人の土地〟の〝占領〟も、アメリカによるイラクへの〝一方的侵攻〟も、グアンタナモやアルグレイブ收容所での囚人〝虐待〟も、廣がる〝所得格差〟も、その他テロの辯護者が延々と竝べ立てる不平不滿のどれ一つとして(ゴッホ殺しには)關係無かつた。イスラムのテロは狂信と憎惡から起こる。分かり易く單純だ」。
 ワシントン・ポストのコラムニスト、チャールズ・クラウサマーも七月十五日附の記事で、ブイエリが最近三年間に亘り失業手當を受取つてゐた事實に觸れ、「異教徒」の税金で賄われる公的扶助をイスラム過激派から取り上げよと提言した。クラウサマーは右派の論客として有名だが、筋は通つてゐる。
 脱線するが、筋の通らない言論人の代表格は、對イラク戰に踏み切つたブッシュ政權を罵り、日本でも人氣を集めたアメリカの映畫監督マイケル・ムーアであらう。二年前、ムーアは何の根據あつてか、「テロリストの脅威なんぞ存在しない」と斷言した。今囘のロンドン爆破テロの直後、ラジオのトーク番組司會者、ラリー・エルダーはコラムの冒頭にこの發言を掲げ、痛烈に皮肉つた。「ロンドンに言へ」。ムーアに快哉を叫んだ輕薄な日本人もエルダーから嗤はれるに違ひない。
 今後、ヨーロッパの「對テロ戦争」はアメリカのそれより困難を極める可能性があると云ふ。ヨーロッパのイスラム系移民はアメリカよりも數が多いし、移民受容の歴史が長いアメリカと異なり、文化や言語で同化が進んでゐないからだ。イギリスのエコノミスト誌は七月十六日號でイスラム過激派とテロの特集記事を組んだが、その題名は「ヨーロッパの眞中で」だった。内部に潛在的脅威を抱へ込んだヨーロッパの危機感を如實に示してゐる。
 アメリカ人の間には、慌てるヨーロッパ人の姿を見て「それ見た事か」と内心溜飲を下げてゐる樣子も窺へないではない。しかしそれ以上に強調しなければならないのは、ヨーロッパに對するイスラム過激派のテロを、アメリカを含む西洋全體への挑戰と受け止める見方が實に多い事である。
 例へば元ニューヨーク市長のエド・コッチは七月十四日、ウェブサイト「リアル・クリア・ポリティクス」に一文を寄せたが、その題名は「失敗してはならぬ、これは文明の戰爭だ」であつた。コッチはかう説く。「我々はイラクやその他の國で手を束ね、テロリストが世界中で己の意思を強いる儘にしておくべきなのだらうか。そうは思はない。ドイツ、フランスなどのやうに、我々の民主的價値を守るべきでありながら、未だに血を流し金を費やす事を避け尻込みしてゐるやうな國は、自由と寛容の大義から逃走した事を後悔するに相違ない」。
 コッチはヨーロッパ人の弱腰を嚴しく指彈するが、一方で彼らを「民主的價値」を共有する仲間とみなし、「我々」と云ふ言葉を用ゐてゐる。のみならず、まるでオランダ人のやうに「自由と寛容」の大事を強調してゐる。ヤンキーのコッチも又、エラスムスの精神的末裔なのだ。日本の言論人の誰が「自由と寛容」について大眞面目に説くだらうか。
 實際は、ヨーロッパとアメリカの共有する西洋文明の源流はエラスムスより遙か以前に遡る。キリスト教である。オランダの作家、レオン・デ・ウィンテルは七月十六日附ニューヨーク・タイムズへの寄稿で祖國の將來についてかう書いた。「長い目で考へると、我々は若いイスラム教徒を幾分鼓舞し、多數派のカルヴィン主義的價値觀を理解するやう仕向けなければならない」。カルヴィン主義がプロテスタントの一宗派であり、ヨーロッパの多くの國やアメリカにおいても熱心に信仰されてゐる事は云ふ迄も無い。
 主要國首腦がロンドン爆破テロを非難すべく發表した共同聲明には、無論我國の小泉純一郎首相も名を連ねた。それは所詮政治的な連帶に過ぎず、歐米間のやうな強い精神的紐帶は日本と歐米の間には存在しないのだが、殆どの日本人はその弱みを意識しない。これはテロの脅威よりも危うい事なのだ。

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コメント

力の籠つた御稿、一氣に讀了し、猛暑に茹だつた頭でながら、色々と考へさせられました。
と言つても、「エラスムスの精神」やら「カルヴィン主義的價値觀」やらに不案内な私としては、御稿の趣旨をどこまで理解出來たのか、一向に自信は無いのですが。
例へば西歐社會は、「自由と寛容」を貫く爲には「非寛容」であれ、と言つてゐるのでせうか。もしさうだとすれば、「寛容」の度合ないし範圍をどう規定しようとしてゐるのでせうか。
更に言へば、謂はゆる「寛容」は我が神道の基本的屬性の一つとも言へる譯ですが、それは西歐人の謂ふ「寛容」と、どう異るのでせうか。
またゴッホは、異教徒社會に於ける女性虐待を告發する「自由」を、異教の神を冒涜するところまで押し廣げて仕舞つたのでせうが、さういふゴッホの「自由」觀を批判する論調は西歐社會には無いのでせうか。
等々、序での折にでも御教示戴ければ幸ひです。今後とも益々の御健筆を祈ります。

投稿: 北面窟 | 2005年7月29日 (金) 11時33分

お暑う御座います。御感想有り難う御座います。

>例へば西歐社會は、「自由と寛容」を貫く爲には「非寛容」であれ、と言つてゐるのでせうか。もしさうだとすれば、「寛容」の度合ないし範圍をどう規定しようとしてゐるのでせうか。

 もし西歐社會が世界中の樣々な文化に屬する人間が同時に集まり契約で拵へた人工物ならば、キリスト教もイスラム教も佛教も同格で、一方が他方に己の流儀を押し附ける必要は無い筈ですが、實際にはキリスト教の歴史的重みが壓倒的であり、キリスト教が脅かされれば西歐自體の存立が危ふくなつて仕舞ひます。従つて「自由と寛容」は飽くまでもキリスト教的價値觀を否定しない限りに於いて、と云ふ事になると思ひます。あからさまに云ふ西歐人は少ないかもしれませんが。

>更に言へば、謂はゆる「寛容」は我が神道の基本的屬性の一つとも言へる譯ですが、それは西歐人の謂ふ「寛容」と、どう異るのでせうか。

 西歐人の寛容は、まづ自分の信仰があつて、それと異なる宗教・宗派の人間を殺したり追放したりせず、自分同樣に信仰の自由を認めるものだと思ひます。これに對し日本の場合、そもそも自分の信仰なるものが有るのか無いのか分からない。何も無いから何でも受け容れるのではないかと云ふ氣がします。

>またゴッホは、異教徒社會に於ける女性虐待を告發する「自由」を、異教の神を冒涜するところまで押し廣げて仕舞つたのでせうが、さういふゴッホの「自由」觀を批判する論調は西歐社會には無いのでせうか。

 ゴッホと云ふ人は畫家のゴッホの一族らしく、かなり變人ではあつたやうです。女性の取扱ひにしてもイスラム教徒の立場からは色々言ひ分もあるのでせう。イスラム教にはイスラム教なりの價値觀があり、それを侮辱するやうな映畫を撮つた人間の側にも問題があると云ふ論調は、私は見ませんでしたが、恐らくあると思ひます。それこそ西歐の寛容精神の發露だと云へませう。さうした寛容精神のあり方こそが現在問ひ直されてゐる譯です。

投稿: 木村貴 | 2005年7月31日 (日) 00時19分

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