けふ讀んだ本。
- 子安宣邦『國家と祭祀』(青土社)
- 高橋哲哉『靖國問題』(ちくま新書)
兩書の結論が酷似するのに驚く。まづ子安本。
戰ふ國家を連續させない意志の表示であつた戰爭放棄と完全な政教分離をいふ日本國憲法の原則は、いまいつそうその意義を増してゐるといへるだらう。
次いで高橋本。
「第二の靖國」の出現を防ぐには、憲法の「不戰の誓ひ」を擔保する脱軍事化に向けた不斷の努力が必要である。
要するに日本國憲法第九條を守れと云ふ結論である。子安も高橋も「戰爭は惡」と云ふ命題を絶對視してゐるから、かう云ふ十年一日、いや六十年一日の如き結論にならざるを得ない。しかし戰爭はなぜ惡なのか。兩者の文章には、人間が死ぬからと云ふ理由しか見當たらない。それでは日本軍に對する中國の「自衞戰爭」も又惡だつたのか。いやいや、人間が死ぬのは戰爭に限らぬ。過去の内戰、革命、反革命鬪爭等々が全て惡であり、その惡を正當化・美化するやうな儀式・表象も盡く惡であると子安高橋が斷ずるのであれば、その思想的首尾一貫に敬意を表したく思ふ。
なほ高橋の江藤淳批判、子安の中西輝政批判には聽くべきところがある。
江藤は靖國神社を擁護するに當たり、日本文化における「死者との共生感」を根據に擧げたが、それならなにゆゑ「靖國は日本の戰死者のなかでも軍人軍屬だけを祀り、民間人戰死者を祀らないのか」。又、なにゆゑ「靖國は敵側の戰死者を祀らないのか」、就中、なにゆゑ同じ日本人であるにも拘わらず、幕末の賊軍をはじめ「天皇のゐる側に敵対した戰死者は排除する」のか。「日本文化」論を盾にする限り、これらの問ひには答へられない。古來、日本の武將は必ずといつて良いくらゐ、敵側の戰死者を祀つてゐるのだ。
江藤は靖國が佐賀の亂の叛亂軍を祀つてゐない事を氣にして、かう言つたと云ふ。「國内の戰死者であれば、請願してこれから祀つてもらへばいい」「いまならもうだいぶほとぼりも冷めたから、祀つていただけるかもしれない」。この發言を捉へて高橋は「なんと政治的な祀りであることか」と批判してゐるが、その通りである。靖國は政治的役割を負はされた神社なのである。そして私は、人間がパン無くしては生きられぬ存在である以上、政治は必要だと思ふ。政治的神社も必要だらう。高橋哲哉も子安宣邦も己が國家を率ゐる立場になれば、新たな「國家神道」を必要とするに違ひない、フランス革命時に無神論者のロベスピエールが「最高存在」と云ふ擬似神を必要としたやうに。
中西輝政はかう書いたと云ふ。
繰り返し言ふが、國の存立のために命を捧げるといふ、これ以上はない崇高な自己犠牲の精神を發揮した人々は、國家が全力をもつて顯彰し、後世に傳へていかなければならない。さうでなければ、國家としての道義心は廢れ、將來の危機において立ち上がれる日本人も期待できないはずである。
人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。中西の發言には、さう云ふ對立を想定した緊張感が微塵も無い。そもそも國家に道義心など無い。國家にあるのは政治だけである。政治と道徳、國家と個人の二元論に立つ靖國論を讀みたく思ふ。
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