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2005年5月10日 (火)

質問封殺法

 村田宏雄『オルグ學入門』(勁草書房、昭和五十七年)を讀む。「相手の質問に對し、答に困つた時」の對處法を述べてゐるが、身も蓋もない内容で笑へる。以下要約。

 (1)認識操作 「どんな事實にもとづいてそのやうな質問をするのか」と質問で切り返した後、相手の述べた事實について「自分はその事實をそのやうには認識しない。認識に相違がある以上、答へられぬ」と突つぱねる。

 (2)爭點操作 質問の意味を勝手にすりかへ、囘答しやすい質問に直し、それを聽く相手があきれると共に聽くことで疲勞退屈し、再度の質問をする意欲を失はせる方法。「今の質問は、このやうな意味かと考へる」云々。納得せぬ相手が再度囘答を促してきた場合にも、相變はらず同じやうな的外れの囘答を續けるのが祕訣。

 (3)前提操作 「その質問に對する答を理解するには、それ以前にあなたの側に何々と云ふ事實あるいは理論についての知識を持つてゐてもらふ必要があるが、知つてゐるか」と相手の知らぬ事實や理論を持ち出し、相手が知らぬと答へたら「それを勉強してから來い」と突つぱねる。

 (4)次元操作 「あなたは現在のみを問題にしてゐるが、私は將來を問題にしてゐる。次元を異にする質問には答へられぬ」

 (5)立場操作 「あなたは少數のリーダーの立場に立つてゐるが、私は大衆の側に立つて思考してゐる。大衆の立場に立つ限り、あなたのやうな質問は出ない。よつて答へる必要がない」

 (6)戻し質問・リレー質問 「もしあなたが私の立場ならどう答へますか」と逆に質問を返す。時には質問者本人でなく、質問者の仲間を指名して囘答を促す。答へられなかつた時、「質問者自身ですらわからない質問に答へるわけにゆかない」と突き放す。

 (7)本心操作 「そのやうな質問をするひとの心のなかは、大體見當がついてゐる。そのやうな否定的態度をとるひとに對しては、何を答へても無駄である。時間もないので、もつと前向きの心を持つてゐるひとの質問に對してのみ答へることにしたい」と、相手の質問を封殺する。

 よし今度からこの手で行かう。

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コメント

ほんと、身も蓋もありませんね。

投稿: 北面老 | 2005年5月10日 (火) 09時25分

>よし今度からこの手で行かう。

すると、それまで「質問封殺」をしてゐた側が、途端に「質問封殺するな」と非難し始める羂。擧句、自分の過去の所業を棚に上げて、大々的に「こいつは質問封殺をやつてゐる」とブログを作つて宣傳を始めたり。

その手の「戰術」に長けてゐる連中に對しては、附燒刃のやり方では敵ひません。困つたものです。

投稿: 野嵜 | 2005年5月11日 (水) 20時27分

 『オルグ學入門』には、聽衆に紛れ込んだサクラに拍手させると云ふテクニックも紹介してあつたり。つまり多重名義。苦笑。http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8991/aleksey/aleksey.html

投稿: 木村貴 | 2005年5月12日 (木) 01時29分

要するにこんな本が書かれて賣られてゐるといふ事は、我國に全うな對話や爭論が成立たない、といふ事の何よりの傍證なのでせうが、この著者に採るべき處があるとすれば、「相手に質問されて、答に困」る事態のある事を想定してゐる事でせうか。我が論壇には、どれほど理を盡して反問されても、「困つた事になつた」といふ意識すら持たない、ないしは持てない輩が跋扈してゐますからね。敢て名は擧げませんが。

投稿: 北面老 | 2005年5月12日 (木) 12時11分

>村田宏雄『オルグ學入門』

私が大学生の頃に、この題名の本を読んだ事を覚えております。当時、この本が何の役に立ったのかは、全く覚えておりません。しかし、つい最近までのネットにおける自分の悪辣非道なる振舞に、この本が役立っていたことは間違いないでしょう(失笑)。

投稿: 岡崎「としあき」 | 2005年5月12日 (木) 20時10分

 村田氏は大學の先生であると云ふ事以外、本の略歴からは分からないのですが、恐らく左翼政黨系の人なのでせう。

 しかし私はかう云ふ本が書かれ、賣られてゐると云ふ事自體を慨嘆する氣にはなりません。「政治の手段としての言論」について説いた書物であると云ふ事を著者自身が認識してゐる、いや、認識してはゐないかもしれませんが、結果的に認めて仕舞つてゐるからです。

 例へば選擧活動の時の握手の仕方や頭の下げ方を解説した本と同じでせう。さう云ふ「政治の手段としての言論」に關する書物を書いたり賣つたりするのは、別に我が國の專賣特許と云ふ譯でなく、寧ろ共産主義その他のイデオロギーの發祥地たる外國の方が「本場」に違ひありません。要するにどこの國にもある事でせう。

 恐らく西洋と日本との大きな違ひは、「イデオロギー宣傳の爲の言論」と「眞理追究の爲の言論」の雙方が存在し、かつ區別されてゐると云ふ點ではないでせうか。

 イデオロギーと眞理の區別には微妙な部分もあるでせう。だが少なくとも西洋においては言論の性格を二元的に見る知的習慣があり、日本には乏しいやうに思はれます。「イデオロギー」に相當する日本語が存在しないと云ふ事實はその傍證でせう。

 村田氏自身、「自分は眞理でなく政治的文章を書いてゐる」と云ふ自覺があつたかどうか分かりませんが、少なくとも文章には本音がさらけ出されて仕舞つてゐます。かう云ふ脇の甘い人を私は嫌ひになれないのです。それに村田氏は政治活動における人間心理については身も蓋も無い眞實を語つてゐます。

 始末に負へないのは、イデオロギーを眞理と強辯し、かつ、相互の區別を巧妙に隱さうとする狡賢い連中です。

投稿: 木村貴 | 2005年5月13日 (金) 00時24分

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