« 教育は政府の仕事か | トップページ | 自由より正義 »

2005年5月 6日 (金)

リバタリアニズムでは足りない

 學校選擇を自由化しろだの政府は信用出來ないだの、まるでミルトン・フリードマンか副島隆彦みたいな事を書いて仕舞つた。アポロは月に行かなかつたなどとアレな事を主張する副島氏は兔も角、フリードマンは好きだ。「教育切符」云々もフリードマンのアイデアをそのまま拜借したものである。

 しかしリバタリアニズム(自由至上主義)には同調出來ない部分がある。自由は何かを爲し遂げる爲の出發點に過ぎない。かつての共産圈の國民のやうに自由を禁じられてゐる人間以外、自由自體は目的にはならない。福田恆存曰く、「自由とは、所詮、奴隸の思想ではないか」。

 福田恆存なら「自由より宿命」と云つただらう。アメリカ人、例へばアーヴィング・クリストルは何と云つたか。

 それではF・ハイエクやM・フリードマンの新自由主義の理論はこのアナーキーの克服に何か役立つたであらうか。クリストルはこれに否と答へる。もしそれ[ニューレフト]に應戰しようとするならば自由とは違つたレベルに戰線を構へなければならない。それは資本主義がいかなる意味で「正しい社會」であるかを展開することによつてのみ可能である、と。(佐々木毅『現代アメリカの保守主義』)

 クリストルは「自由より正義」と云つたのである。これが所謂ネオコンサヴァティブの考へ方であると同時に、多數のアメリカ人、否、ヨーロッパ人を含む西洋人の間に今も根強い一つの思考なのである。

|

« 教育は政府の仕事か | トップページ | 自由より正義 »

コメント

うーむ、難しいですね。
少々惚け掛けた私の頭には、すつきり入つて來ません。自由も正義も、日本人にとつては所詮、借物の言葉だからでせうか。

因みに私は人權といふ言葉を聞く度に人造絹絲を思ひ浮べて仕舞ひます。それは曾て、擬ひ物ないし安物服地の代名詞だつた譯ですが。

投稿: 北面老 | 2005年5月 6日 (金) 13時52分

 人造絹絲、略して人絹。造つてゐた會社が帝國人造絹糸で、略して帝人。ちなみに人造絹絲はレーヨンの譯語で、帝人のライバルは東洋レーヨン、略して東レ。

 私は若輩者ですので、さすがにジンケンと云はれて人絹と云ふ言葉を思ひ浮かべる事はありません。やはり「人權」です。着たり食つたりした事はありませんが。

 自由だの正義だのは本當に身に付いた言葉なのかと聞かれると、日本人である以上、違ひますとしか云へません。しかしどうも西洋人はさうではないやうです。さう云ふ西洋人の考へ方に私は關心があります。ところが私程度の人間が己と無縁の考へ方について書かうとすると、どうしても上滑りな文章になつて仕舞ひます。情けない話ですが、今後とも努力したいと思ひますので宜しくお願ひ申し上げます。

投稿: 木村貴 | 2005年5月 7日 (土) 03時45分

御謙遜、恐れ入ります。こちらこそ、どうぞ宜しく。

ところで謙遜と言へば、過度の謙遜は遁辭ないし讀者への馴合の持掛けに等しいと、曾て某氏から嚴しく指導された事があります。

詰り、論を張るからには飽迄も強者たれ、弱者の振りをして反撃を免れようとするな、といふ事なのでせうが、難しい事ですよね。我々はどう足掻いても、所詮は福田恆存にも松原正にも成り得ないのですから。

あ、これもまた遁辭ですか。

投稿: 北面老 | 2005年5月 7日 (土) 09時12分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30565/4001909

この記事へのトラックバック一覧です: リバタリアニズムでは足りない:

« 教育は政府の仕事か | トップページ | 自由より正義 »