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2005年5月29日 (日)

大阪講演會終了

 大阪講演會事務局の皆樣、お疲れ樣でした。大變樂しい會でした。福岡のOさんも無事にお歸りになつたでせうか。

 今囘の講話のメモ。

 *人間が度し難く惡い存在であると云ふ認識があつて初めて道徳が必要になる。
 *教育とは現場の教師の人徳で生徒を治める事が全て。知識人の空理空論は役に立たない。
 *西洋の知識人の知的誠實・知的剛勇。ジョージ・スタイナーのヒトラー論。
 *日本語の「ゆるす」の語源は「ゆるくす」。人と人とが赦し合ふ文化。西洋は神が人を赦す文化。
 *幾ら教養を積んでも人間の獸性を消し去る事は出來ない、と云ふやうな本質論を日本の知識人は誰も書かない。
 *シェイクスピアの作品はそれまでの文學に比べ人間中心的な性格が強いが、それでもシェイクスピアは神に一目も百目も置いてゐた。
 *J.S.バッハの「アリア」のやうな世俗音樂でさへ、人間を超えた崇高なものへの憧れ無しには書けなかつた筈だ。
 *日本が鎖國の昔に返れない以上、西洋の流儀を學ばなければならない。
 *岸信介曰く、戰後の政治家は活字を恐がる。
 *日本人は仲間内でかく恥には敏感だが、國を擧げて晒す恥には極めて鈍感。
 *Nein(否)と云へないのは人間ではない。或るドイツ兵の言葉。
 *ヒトラーの惡口を云ふ若き同胞を窘めたユダヤ人。「君は心の中のガラクタを吐き出してゐるだけだ」。スタイナーの作品より。北朝鮮や中國の惡口を書いてばかりゐる日本の知識人との天文學的隔り。
 *一朝一夕に片付かない問題が存在する事すら日本人は氣づかない。
 *外國や他人を幾ら罵つても自分が悧口・立派になる譯ではない。
 *東郷大將も魚屋の親父も掏摸も人殺しも誰もが持つてゐる大和魂。生殖器と同じで自慢するものではない。
 *「天」は絶對神と異なり極めて曖昧なもの。
 *「天皇制」には良いところと惡いところがある。良いところだけ摘み食ひは出來ない。
 *ヤーウェが人間を罰するとしたら、西部邁が云ふ金儲け主義などではなく、傲慢を罰するのである。
 *ベケットの「ゴドーを待ちながら」について論じようとされたところで時間。十一枚の原稿のうち五枚分しかお話しになれなかつたさうです。

 なほ、「日經ビズテック」最新號が先日發賣になりました。http://bpstore.nikkeibp.co.jp/item/main/148222223730.html

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2005年5月15日 (日)

國語問題協議會總會及び講演會御案内

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/kouenkai76.htmより轉載します。漢數字は原則洋數字に書替へました。

總會及び第76囘講演會 御案内

風薫る盛春の頃、皆樣には益々御健勝のことと存じます。
さて、左記の通り、本協議會の今年度總會、春期講演會ならびに懇親會を開催致します。萬障御繰合せの上御出席賜りますやう御願ひ申上げます。

平成17年4月20日 國語問題協議會
事務局長 谷田貝 常夫

事務局 〒146-0085
東京都大田區久ヶ原三丁目24-6
電話 080-3411-5501
電送(ファックス) 03-5908-9356
電子メイル 0359089356@mail.keikaibox.com
電網頁 http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/

一、日 時 平成17年5月21日(土)午後2時45分より
二、會 場 日本倶樂部 大會議室 (有樂町 國際ビル8階)
千代田區丸の内三丁目1-1(03-3211-2511)
三、總 會  2時45分より3時15分まで
四、講演會  3時20分より5時30分まで
國語破壞と日本文化 早稻田大學教授 留守 晴夫
戰後日本の文化の倒錯――國際的視野から 元ベルギー大使 加藤 淳平
五、懇親會  講演會終了後、同所にて午後6時から
六、會 費  講演會參加費1000圓、懇親會費6000圓。

※ 事務局の電送(ファックス)番號および電子メイルが變更になつてをりますのでご注意ください(本状の記載が正確です)。また、會場は日本工業倶樂部ではありませんので御注意ください(國際ビルは帝劇のビルです)。

以 上

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2005年5月13日 (金)

普遍と特殊

 松原正氏の著作においては、「洋の東西を問はず人間なら誰でもやらかす行爲」と、「西洋人或いは日本人であるがゆゑにやらかす行爲」との雙方が説かれてゐる。戰爭論においては、ローレンツを引用して人間の攻撃性を指摘した箇所は前者に屬し、ハムレットを引いて西洋人の正義病を論じた箇所は後者に属する。

 文化について論ずる際には、普遍論と特殊論とを區別し、且つ雙方を重視する必要がある。

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イデオロギーと眞理

 公的言論の質がお粗末だからと云つて、「惡い」イデオロギーを非難するのは馬鹿げてゐる。問題は左翼のイデオロギーだけでもなければ右翼のイデオロギーだけでもない。全てのイデオロギーなのだ。支配的哲學の命ずるところを理性的に分析しなくなつた人間は必ず道を誤る。ある理念が善いか惡いか、有害か有益か、眞理か虚僞か、そんな事はイデオローグにとつてはどうでも良い。重要なのは、「主義」に役立つかどうかなのだ。(ダニエル・フリン『知的な馬鹿者達』、2004年)http://www.townhall.com/bookclub/flynn1.html
 ダニエル・フリンは政治的には右派の言論人である。だが上掲書において、左派のノーム・チョムスキーやハワード・ジンだけでなく、右派のアイン・ランドやレオ・シュトラウスも假借無く斬つてゐる。信頼出來る言論人だと思ふ。

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2005年5月10日 (火)

質問封殺法

 村田宏雄『オルグ學入門』(勁草書房、昭和五十七年)を讀む。「相手の質問に對し、答に困つた時」の對處法を述べてゐるが、身も蓋もない内容で笑へる。以下要約。

 (1)認識操作 「どんな事實にもとづいてそのやうな質問をするのか」と質問で切り返した後、相手の述べた事實について「自分はその事實をそのやうには認識しない。認識に相違がある以上、答へられぬ」と突つぱねる。

 (2)爭點操作 質問の意味を勝手にすりかへ、囘答しやすい質問に直し、それを聽く相手があきれると共に聽くことで疲勞退屈し、再度の質問をする意欲を失はせる方法。「今の質問は、このやうな意味かと考へる」云々。納得せぬ相手が再度囘答を促してきた場合にも、相變はらず同じやうな的外れの囘答を續けるのが祕訣。

 (3)前提操作 「その質問に對する答を理解するには、それ以前にあなたの側に何々と云ふ事實あるいは理論についての知識を持つてゐてもらふ必要があるが、知つてゐるか」と相手の知らぬ事實や理論を持ち出し、相手が知らぬと答へたら「それを勉強してから來い」と突つぱねる。

 (4)次元操作 「あなたは現在のみを問題にしてゐるが、私は將來を問題にしてゐる。次元を異にする質問には答へられぬ」

 (5)立場操作 「あなたは少數のリーダーの立場に立つてゐるが、私は大衆の側に立つて思考してゐる。大衆の立場に立つ限り、あなたのやうな質問は出ない。よつて答へる必要がない」

 (6)戻し質問・リレー質問 「もしあなたが私の立場ならどう答へますか」と逆に質問を返す。時には質問者本人でなく、質問者の仲間を指名して囘答を促す。答へられなかつた時、「質問者自身ですらわからない質問に答へるわけにゆかない」と突き放す。

 (7)本心操作 「そのやうな質問をするひとの心のなかは、大體見當がついてゐる。そのやうな否定的態度をとるひとに對しては、何を答へても無駄である。時間もないので、もつと前向きの心を持つてゐるひとの質問に對してのみ答へることにしたい」と、相手の質問を封殺する。

 よし今度からこの手で行かう。

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2005年5月 6日 (金)

自由より正義

 「自由より正義」と云ふ考へ方がヨーロッパにも根強いなどと書くと不審に思はれるかもしれないが、マルクスが言つた事は正しくこれなのである。ヨーロッパではマルクス主義の影響がなほ根強い。單に自己顕示慾を滿足させる爲にマルクスを利用してゐるだけの知識人も少なくないが。

 アメリカの「ネオコン」知識人の多くがかつてマルクス主義者だつたのは不思議でも何でもなく、寧ろ自然である。

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リバタリアニズムでは足りない

 學校選擇を自由化しろだの政府は信用出來ないだの、まるでミルトン・フリードマンか副島隆彦みたいな事を書いて仕舞つた。アポロは月に行かなかつたなどとアレな事を主張する副島氏は兔も角、フリードマンは好きだ。「教育切符」云々もフリードマンのアイデアをそのまま拜借したものである。

 しかしリバタリアニズム(自由至上主義)には同調出來ない部分がある。自由は何かを爲し遂げる爲の出發點に過ぎない。かつての共産圈の國民のやうに自由を禁じられてゐる人間以外、自由自體は目的にはならない。福田恆存曰く、「自由とは、所詮、奴隸の思想ではないか」。

 福田恆存なら「自由より宿命」と云つただらう。アメリカ人、例へばアーヴィング・クリストルは何と云つたか。

 それではF・ハイエクやM・フリードマンの新自由主義の理論はこのアナーキーの克服に何か役立つたであらうか。クリストルはこれに否と答へる。もしそれ[ニューレフト]に應戰しようとするならば自由とは違つたレベルに戰線を構へなければならない。それは資本主義がいかなる意味で「正しい社會」であるかを展開することによつてのみ可能である、と。(佐々木毅『現代アメリカの保守主義』)

 クリストルは「自由より正義」と云つたのである。これが所謂ネオコンサヴァティブの考へ方であると同時に、多數のアメリカ人、否、ヨーロッパ人を含む西洋人の間に今も根強い一つの思考なのである。

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