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2005年4月25日 (月)

教育は政府の仕事か

 教科書檢定など廢止して仕舞へば良いと思ふ。多くの出版社が自由に教科書を作り、各學校はそれらの中から自由に選擇する。質の惡い教科書は淘汰されるであらう。ある學校で政治的に「左」に偏向した教科書が採用されても、別の學校では「中道」「右」の教科書が採用され、全體ではバランスが取れるであらう。政府が教科書の内容に口を挟まないやうにすれば、外國から文句を云はれる心配も無くなる。

 學生や親も學區に縛られず、義務教育の段階から學校を選擇できるやうにすべきである。偏向した教師が牛耳る學校、やる氣の無い教師しかゐない學校に行かなくて濟むやうになる。選擇の範圍には私立校も含める。入學金や授業料は國が「教育切符」の形で支援すれば良い。そもそも日本には私立の小中學校が少なすぎる。教育切符制により私立校への需要が高まれば新設増加が期待できる。

 戰後の「國語改革」一つ取つても、政府が教育に口を挟むとろくな事は無い。

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コメント

御高説拜讀、御健筆ぶりには敬意を表します。
さりながら、御説は、
「良貨は惡貨を驅逐する」
「外國は我國の民間がやることには文句を言はない」
「小學生中學生やその親は、教師の質を入學前に判定することが可能である」
等を前提とせねば成立たぬやうに思ひます。
いづれも無理な前提ではありませんか。
もしも私の誤讀なら、然るべく御教示下さい。

投稿: 北面老 | 2005年5月 5日 (木) 18時00分

 お讀み戴きまして光榮です。所詮制度いぢりに過ぎず、私の提案通りにすれば萬事解決するとは自分でも考へてをりません。しかし國が教育の細かいところまで直接口を挟む事に比べれば、多少増しではないかと思ふ次第です。

>「良貨は惡貨を驅逐する」
 
 良貨と惡貨の「バランスがとれる」状態になると書きましたが、御指摘の通り、樂觀的過ぎたかもしれません。良貨はいづれ惡貨に驅逐されるかもしれません。しかし教科書制作・選擇を自由化すれば、少なくも良貨があちこちから世に出續ける可能性は高まります。檢定制度の下では政府の匙加減次第で、全ての教科書が良貨となる希望もありますが、同時に全てが惡貨となる恐れもあります。危機管理上(?)、全てが惡貨となるリスクを冒すよりは、良貨惡貨が混在し、その中から選擇出來る方が増しだと考へます。萬が一、良貨を撰ぶ日本人が誰もをらず、結果的に「惡貨が良貨を百パーセント駆逐する」やうな仕儀に立ち至るとしても、政府に任せるよりは増しだと思ひます。日本人がそのやうな情けない状態に成り果てた時、政府は「物を見る目は國民と同程度で、權力だけは強い」と云ふ始末の負へない存在になつてゐる可能性が大きいからです。

>「外國は我國の民間がやることには文句を言はない」

 文句は言ふかもしれません。しかし民間の言論・學問の自由に文句を言ふのは西側諸國では相當異常な行爲ですから、日本が上手くやれば「文句を言ふ奴の方がをかしい」と云ふ國際與論を身方に出來るでせう。まあそこまでは無理かもしれませんが、少なくとも政府が矢面に立たなくて濟むやうになり、相手の壓力をかはす外交戰術的效果があります。

>「小學生中學生やその親は、教師の質を入學前に判定することが可能である」

 受驗生やその親は、學習塾の質について實に詳しい情報を持つてゐます。個々の教師についての情報はそれほどでもないかもしれませんが、塾全體の評判が良ければ良質な教師が多いと判斷出來るでせう。小中學校の選擇が自由化されれば、塾と同じやうな状態になると思ひます。いや、既に小中學校についての親同士の情報交換はかなりのものです。とはいへ入つてみて初めて分かる事もあるでせうから、轉校の自由も是非認めなければなりません。無論、このやり方なら必ず立派な人間が育つなどと云ひたい譯ではありません。

投稿: 木村貴 | 2005年5月 6日 (金) 00時58分

成程、尊兄の意とされる處はよく分りました。何事にまれ、世の大事に安易な解決は無い、といふ事のやうですね。

ところで私事に亙りますが、我が愚息どもは小中高とも近所の公立校に教育を委ね、「反體制的」でをかしな教師の指導も結構受けたやうですが、それでも立派かどうかは兎も角、親の慾目ながら全うな人間には育つてくれました。

また曾て自衞隊の新隊員らに入隊時の事情に就いて尋ねた處、その殆どが高校教師の反對を押して入隊して來てゐました。

だとすれば、押し竝べて教師の感化力とは何程のものなのか、といふ疑問も湧きます。
私自身は概ね善き教師に惠まれたと感謝してゐるのですが。

投稿: 北面老 | 2005年5月 6日 (金) 10時00分

 全體主義の北朝鮮にも孝子はゐるわけですから、教育制度や先生の「質」などは人間が持つて生まれた道徳心とあまり關はりがないのかもしれませんね。

 それでも影響がゼロと云ふ事は無いでせうから、制度を變へる事により改善される部分もあるでせう。逆に云へば、制度變更によつて期待できるのは、精々その程度の改善でしかないと云ふ事です。

 今の世の中には、制度をいぢる事で全てが解決されるかのやうに論ずる人が多いので、寧ろ安易な制度變更論を批判するやう心がけるべきなのでせう。

投稿: 木村貴 | 2005年5月 6日 (金) 11時55分

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