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2005年4月 8日 (金)

「反省」の沒道徳

 教科書問題再燃でまたぞろ日本人は「過去への反省」を求められてゐる。しかし少なくも私は、戰前戰中に何か「惡い事」をした覺えは無い。そもそも生まれてもゐない。なにゆゑ反省せねばならぬのか。剰へ、なにゆゑ反省の印として自分の金をODAだの何だのに差し出さねばならぬのか。

 アメリカの政府はいつも良いことの味方であつたわけではない。日系アメリカ人は第二次世界大戦中強制収容所に入れられた。[中略]かうした事件の犧牲者は、どれだけ成功したかは別にして、政府にたいし賠償を請求してきた。彼らは正義の基本に訴へ、惡いことをした人は犧牲者への賠償をさせられるのが原則だと主張する。これは良い原則であるが、筋違ひなところがある。これらの事件の場合、惡いことをした當事者が犧牲者に賠償をすることは現實にはできないからだ。一九四〇年代の強制収容所の看守「中略」は、多くの場合、過去の人たちであるし、自分のおこなつた惡い行爲にたいして補償をする經濟力など持たないのがふつうだ。また、惡いことがおこなはれたとき、それと無關係の第三者が犧牲者への賠償をさせられるのは正義の根本理念ではない。たとへば私自身は、日系アメリカ人であらうとだれであらうと、人を強制収容所に送り込んだことはない。[中略]しかし、「政府」は過去の損害を修復するために、私も含め、事件とまつたく關係のないアメリカ人納税者にその負擔をさせてきた。(スティーヴン・ランズバーグ『フェアプレイの經濟學』、斎藤秀正譯)

 植民地支配が良かつたか惡かつたかと云ふ議論以前に、この私は、そんな昔の事に一切關はりが無い。百歩譲つて、もし「惡い事」をしたのが私の親族だつたとすれば、濟まないと思ふかもしれない。しかし、それも場合によりけりである。戰場であれば、親族がたとひ相手を殺したとしても、「戰爭なのだからお互ひ樣だ」としか考へられない。元々相手の領土だつたところを植民地にした事自體、何をされても仕方のない罪なのであらうか。それなら、北方領土でロシア人が日本人に殺されても仕方ないのか。

 道徳的責任は個人だけが負ふ。自分自身が惡事を働いてもゐないのに、反省してみせるのは寧ろ道徳的に不潔な行爲である。かつて社會黨黨首だつた土井たか子が東南アジアを歴訪し、しきりに戰時中の日本の行爲を謝罪した事があつた。しかし、土井は口では殺人の罪を謝りつつ、決して自殺しようとしなかつた。それどころか土下座すらしなかつた。考へてもみるがよい、人を殺めた時、それを贖へる行爲は自ら命を絶つ事しかないではないか。結局、土井も自分が惡い事をしたとはさらさら思つてゐなかつたのである。政治家のやる事とは云へ、何たる沒道徳。また、戰時中に人を殺しましたと頻りに反省してみせる元軍人が時々ゐるが、そんなに惡かつたと思ふなら、なにゆゑ腹を切りもせず生き續けてゐるのか。

 かう云ふ放言をする私に、意地でも謝らせたい輩は最後にかう云ふだらう。「お前も日本人だらう。同じ日本人がやらかした惡事を多少なりとも濟まないと思ふのが人情ではないか」。全然。或る行爲が日本の恥だとは思つても、自分が濟まないと考へる理由など無いからだ。朝日新聞や左翼人士はよくこの手を使ふ。連中は何かと云ふと國家や民族を惡者扱ひするが、日本國や日本人が消えて一番困るのは、彼らなのである。

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