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2005年4月25日 (月)

教育は政府の仕事か

 教科書檢定など廢止して仕舞へば良いと思ふ。多くの出版社が自由に教科書を作り、各學校はそれらの中から自由に選擇する。質の惡い教科書は淘汰されるであらう。ある學校で政治的に「左」に偏向した教科書が採用されても、別の學校では「中道」「右」の教科書が採用され、全體ではバランスが取れるであらう。政府が教科書の内容に口を挟まないやうにすれば、外國から文句を云はれる心配も無くなる。

 學生や親も學區に縛られず、義務教育の段階から學校を選擇できるやうにすべきである。偏向した教師が牛耳る學校、やる氣の無い教師しかゐない學校に行かなくて濟むやうになる。選擇の範圍には私立校も含める。入學金や授業料は國が「教育切符」の形で支援すれば良い。そもそも日本には私立の小中學校が少なすぎる。教育切符制により私立校への需要が高まれば新設増加が期待できる。

 戰後の「國語改革」一つ取つても、政府が教育に口を挟むとろくな事は無い。

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2005年4月20日 (水)

愛國無罪

 支那の反日デモを見ると、愛國心が如何に道徳的にいかがはしい代物かと云ふ事がよく分かる。

 黨派心や愛國心は食慾性慾と同じで、政治的動物である人間なら誰もが抱く感情である。だから愛國心を無理に否定しようとすれば反動が起こる。かと云つて、愛國心を抱く事自體は誇るべきやうな事ではない。

 又、絶對に謝らうとしない支那の政治家の態度を、日本人は見習ふべきである。

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2005年4月17日 (日)

健康

 アメリカ牛肉の輸入再開は絶對許さないと息卷いてゐる日本人が多いが、輸入したつて自分が喰はなければ良いだけの話ではないか。

 まともな國防の備へも無い日本人が健康の話になるとやたらと神經質になる姿は異常である。

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2005年4月13日 (水)

日本のメッセージ

 思へば世界を取り仕切るやうになつてからのアメリカは、良くも惡くも「自由」「機會均等」「民主主義」「アメリカン・ドリーム」といつたメッセージをもつてゐた。しかし、「パックス・ニッポニカ」(エズラ・ヴォーゲル)が話題に上るに反比例して、わが國では、ビジネスで成功するためのハウ・ツー以外に、日本はどんなメッセージを世界へ發信できるだらうかとの困惑が深まつてゐる。(林敏彦『大恐慌のアメリカ』、岩波新書、昭和六十三年)

 今や「パックス・ニッポニカ」などと持ち上げて呉れる人もゐなくなつて仕舞つたが、「世界へ發信できる」メッセージは相變はらず見當たらない。もし安保理常任理事國になつても同じだらう。「平和」だの「共生」だのと綺麗事を竝べるくらゐなら、何も云はない方が増しだが。

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2005年4月 8日 (金)

國家と國民

 資本主義國で、國を相手取つて訴訟を起こす事は、納税者全員を訴へるのと同じである。或る政策に贊成したか反對したかを問はず。

 共産主義國で、國を相手取つて訴訟を起こす事は、現實的にも論理的にも不可能である。

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「反省」の沒道徳

 教科書問題再燃でまたぞろ日本人は「過去への反省」を求められてゐる。しかし少なくも私は、戰前戰中に何か「惡い事」をした覺えは無い。そもそも生まれてもゐない。なにゆゑ反省せねばならぬのか。剰へ、なにゆゑ反省の印として自分の金をODAだの何だのに差し出さねばならぬのか。

 アメリカの政府はいつも良いことの味方であつたわけではない。日系アメリカ人は第二次世界大戦中強制収容所に入れられた。[中略]かうした事件の犧牲者は、どれだけ成功したかは別にして、政府にたいし賠償を請求してきた。彼らは正義の基本に訴へ、惡いことをした人は犧牲者への賠償をさせられるのが原則だと主張する。これは良い原則であるが、筋違ひなところがある。これらの事件の場合、惡いことをした當事者が犧牲者に賠償をすることは現實にはできないからだ。一九四〇年代の強制収容所の看守「中略」は、多くの場合、過去の人たちであるし、自分のおこなつた惡い行爲にたいして補償をする經濟力など持たないのがふつうだ。また、惡いことがおこなはれたとき、それと無關係の第三者が犧牲者への賠償をさせられるのは正義の根本理念ではない。たとへば私自身は、日系アメリカ人であらうとだれであらうと、人を強制収容所に送り込んだことはない。[中略]しかし、「政府」は過去の損害を修復するために、私も含め、事件とまつたく關係のないアメリカ人納税者にその負擔をさせてきた。(スティーヴン・ランズバーグ『フェアプレイの經濟學』、斎藤秀正譯)

 植民地支配が良かつたか惡かつたかと云ふ議論以前に、この私は、そんな昔の事に一切關はりが無い。百歩譲つて、もし「惡い事」をしたのが私の親族だつたとすれば、濟まないと思ふかもしれない。しかし、それも場合によりけりである。戰場であれば、親族がたとひ相手を殺したとしても、「戰爭なのだからお互ひ樣だ」としか考へられない。元々相手の領土だつたところを植民地にした事自體、何をされても仕方のない罪なのであらうか。それなら、北方領土でロシア人が日本人に殺されても仕方ないのか。

 道徳的責任は個人だけが負ふ。自分自身が惡事を働いてもゐないのに、反省してみせるのは寧ろ道徳的に不潔な行爲である。かつて社會黨黨首だつた土井たか子が東南アジアを歴訪し、しきりに戰時中の日本の行爲を謝罪した事があつた。しかし、土井は口では殺人の罪を謝りつつ、決して自殺しようとしなかつた。それどころか土下座すらしなかつた。考へてもみるがよい、人を殺めた時、それを贖へる行爲は自ら命を絶つ事しかないではないか。結局、土井も自分が惡い事をしたとはさらさら思つてゐなかつたのである。政治家のやる事とは云へ、何たる沒道徳。また、戰時中に人を殺しましたと頻りに反省してみせる元軍人が時々ゐるが、そんなに惡かつたと思ふなら、なにゆゑ腹を切りもせず生き續けてゐるのか。

 かう云ふ放言をする私に、意地でも謝らせたい輩は最後にかう云ふだらう。「お前も日本人だらう。同じ日本人がやらかした惡事を多少なりとも濟まないと思ふのが人情ではないか」。全然。或る行爲が日本の恥だとは思つても、自分が濟まないと考へる理由など無いからだ。朝日新聞や左翼人士はよくこの手を使ふ。連中は何かと云ふと國家や民族を惡者扱ひするが、日本國や日本人が消えて一番困るのは、彼らなのである。

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2005年4月 6日 (水)

日經ビズテック

 最新號が書店で發賣中。松原正先生の「パソコンとハムレット」第二回が載つてゐます。

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2005年4月 3日 (日)

弱者とは何か

 昨晩、NHKで所得格差をテーマにした討論會をやつてゐた。ジャーナリストの斉藤貴男が「日本には社會的ヒエラルヒーがあつて、下層の人達は中小企業にしか入れない」と憤ると、ライブドア社長の堀江貴文から「中小企業がなぜ惡いのか」とすかさず突つ込まれ、返答に窮してゐた。

 斉藤貴男は、自分の事を「他者」への思ひやりのある人間だと信じてゐるのだらう。實際、正義感の強い男なのだらう。だがさう云ふ人間は、往々にして、無意識の裡に「他者」を見下してゐるものだ。大企業こそ望ましく、中小企業なんぞ働くに價しないと云ふ圖式を前提としない限り、斉藤の論は成り立たない。そもそも、大企業も中小企業も固定的な身分制度ではない。ソニーもホンダも昔は中小企業だつたのだし、大企業も潰れるのである。

 討論會には一般視聽者も參加してゐたが、その中で、五十歳くらゐの勞組の男が、斉藤貴男と同じやうに「弱者に目を向けろ」と云ふやうな事を盛んに發言してゐた。それならば提案がある。勞組を解散して團體賃金交渉を止め、會社側が賃金を柔軟に引き下げられるやうにせよ。さうすれば、安い賃金でも喜んで働く若年失業者や外國人勞働者といつた弱者の就業機會が大きく廣がる。勞組は元々は弱者の集まりだつたかもしれないが、組織に入れない者から見れば強者なのである。

 たまに彼ら[左翼の諸政黨]は、イギリスの勞働者がアジアやアフリカの收奪からある程度利益を受けたことは認めたが、しかしつねに、われわれは收奪をやめてもなんとか繁榮を維持できるといふふうに思はせた。事實、多くの勞働者は自分たちが搾取されてゐると聞かされて社會主義に走つたのだが、しかし世界的立場から見れば、彼らこそ搾取者だつたのである。(ジョージ・オーウェル「作家とリヴァイアサン」、小野協一譯)

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