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2004年12月17日 (金)

引用とは何か

 「現代かなづかい」で書かれた文章を正假名遣ひに直して引用する事への反對意見には、主に(1)原文の表記が正假名遣ひであるかのやうな誤解を招くから(2)原著者の氣持ちを害するから――と云ふ二つの論據があるやうである。一部繰り返しになるが、それぞれの論據について反論を加へておく。

 まづ(1)であるが、そもそも文章を讀む者は、引用時に表記の變更があり得る事こそ常識だと辨へるべきである。私が繰り返し引き合ひに出す外國語からの飜譯を伴う引用はその端的な例だが、日本語にしても、例へば萬葉集から「ささの葉はみ山もさやにさやげども吾は妹おもふ別れ來ぬれば」と引用されてゐるのを見て、「萬葉集は漢字假名交じり文で書かれてゐる」と思ひ込む讀者もゐるだらう。勿論、實際には全て萬葉假名、すなはち漢字で書かれてゐる。それでは人麻呂の歌を漢字假名交じり文に直して引用した筆者は責められるべきなのか。斷じて否。

 此處で反論があり得よう。「『原文は全て漢字』と斷り書きを入れるべきである」。それは文章全體の趣旨による。參考書や古典入門書の類であれば入れた方が良い場合もあろう。しかし、或る程度教養のある讀者、或いは「これは原文通りでないかもしれない」と察する常識を持つ讀者を想定した文章で、一々「原文は全て漢字」などと書くのは、讀者を馬鹿にした行爲であり、徒に煩雜なばかりである。

 「教養や常識の無い讀者も讀むかもしれないではないか」と食ひ下がる向きがあるだらうか。それには一言、「教養や常識の無い者にどこまでも水準を合はせると云ふ思考、それこそ現代日本の病理である。『現代かなづかい』の横行もその一症状である」と答へよう。

 ところで私は萬葉集の原典を見て人麻呂の歌を引用したのではない。佐佐木信綱編の岩波文庫版から引用したのである。但し、文庫本では「さやげども」の箇所を振假名附で「亂げども」と表記してある。引用に當たり、讀みやすいやうに表記を變更したのである。私の主張を讀者に效果的に傳へると云ふ目的の爲に、必要かつ正當な表記變更であると判斷したからである。「亂げども」では讀み方が氣になつて思考の働きを邪魔するだらうし、「亂(さや)げども」では圓滑に讀み進めず思考の流れが滯るだらう。さらに、原典を讀みやすい現代國語に改めて一般讀者の利用に供すると云ふ佐佐木信綱自身の方針に鑑みて、「亂げども」を「さやげども」と書き改めて引用する行爲は許容され得る。引用とは、少なくもこの程度の判斷と決斷を伴ふ知的行爲なのである。

 引用は原文の單なる紹介ではない。引用者自身の主張を效果的に傳へると云ふ目的の爲に行ふものである。明確な目的意識を持つ筆者は(優れた筆者は必ず明確な目的意識を持つのだが)決して機械的な「原文尊重」には滿足し得ない。いやいや、そんな極端な「原文尊重」主義者は存在し得ない。誰だつて外國語や古典は自分達の都合に合はせ、現代國語に直して引用してゐるのである(飜譯書や古典全集の類からの引用は、他人に「現代國語に直す」行爲を肩代はりさせてゐるに過ぎない)。ならば何故、假名遣ひの變更だけが非難されねばならぬのか。そのやうな非難に正當な根據は無い。

 (2)原著者の氣持ちを害するから、については後日。

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