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2004年12月28日 (火)

或る松原信者の辯

 燒鳥屋で樂しい一時を過ごす。以下醉つた勢ひで雜感。

 松原正ファンの中に時々、「私は松原信者ではない」と斷る人がゐる。察するに、自分は松原氏の云ふことを全て無批判に受容れる主體性の無い人間ではないと釘を刺しておきたいのであらう。しかし熱烈なる松原信者の私に云はせれば、それは贅言に過ぎない。松原氏がその著作や講演で何よりも強調してゐる事、それは「自分の頭で論理的に考へよ」と云ふ一語に盡きる。従つて、眞の松原信者であれば、たとひ「教祖」自身の發言であつても、それが正しいか否かを自分の頭で論理的に吟味し、然る後に「信者」であり續けるかどうかを決斷してゐる筈である。換言すれば、自分の頭で松原氏の發言を吟味してゐると自負する者は、「松原信者ではない」などと斷る必要は無い。寧ろ、「松原信者である」と臆面もなく公言すべきなのである。私のやうに。

 口語譯の現代版聖書で洗禮を受けた人間は基督教徒として信用出來ないと云ふ話。全く同感である。聖書に書いてあるではないか、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」。言葉の重要性を知らない者は文化を知らないのであり、文化を知らない者は人間を知らないのであり、人間を知らない者が人間を救へる筈がないのである。

 政治と文學。政治的に行動しようとすれば妥協が必要である。金を集める實力が必要である。文學は理想を追求するがゆゑに、政治の立場からすれば「何を暢氣な事を」と感ずる場面もあるだらうし、事實、極樂蜻蛉としか表現出來ない獨善的な文學者(哲學者・言論人)も少なくない、いや、さう云ふ連中の方が壓倒的多數派である。にも拘はらず政治に先行する領域として文學は必要であるし、政治家や政治活動家はその必要性を忘れるべきではない、と書いて締め括らうと思つたが、現代日本に於いて政治家や政治活動家の心を動かすだけの思想を持つ言論人がどれだけゐるだらうかと云ふ疑問に再度思ひ到り、何とも齒切れの惡いまま寢る事にする。お休みなさい。

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