國語と權力
――お前は頻りに言論の自由を強調するやうだが、「現代かなづかい」による言論の自由も認めるのか。
認める。のみならず、「瞬間」を「とき」と讀んだり、「シクラメンのかをり」を「シクラメンのかほり」と書いたり、著作權者の諒解が取れればローマ字で福田恆存著作集や松原正著作集を出版したりする自由も認める。
――それはお前の持論と矛盾するのではないか。
矛盾しない。「瞬間」を「とき」と讀んだり、「かをり」を「かほり」と書いたり、日本語をローマ字で表記したりするのは愚劣だと思ふが、愚劣か否かと云ふ事と、その言論を法的に封じるべきか否かと云ふ事は次元を異にする問題である。自由には「愚行をやらかす自由」も含めるべきである。勿論、愚行を批判する自由も確保されてゐればの話だが。
――愚劣な國語表記が罷り通つても良いのか。
良いとは思はない。國語表記は正しく書くべきである。間違つた表記・表現を推獎する積もりは無い。だが抑も國語表記とは法律や國家權力で押し附けるべきものではない。日本人は何かと云ふとお上の權威に縋り附きたがるが、國語に限らず、凡そ文化とは權力で押し附けるべきものではない。
――福田恆存は愚劣な國語表記に反對したではないか。
福田恆存が政府やその提燈を持つ知識人を攻撃したのは、國家が國語を捩ぢ曲げようとしたからである。國家が國語に對して狼藉を働いたからその介入を排すべく已むなく立ち上がつたのであつて、國家權力を以て特定の國語表記を押し附けようとした譯ではない。言論を以て國民を説得せんとしたのだ。
――國語が亂れた時には國家の介入も必要ではないか。
否。カイザルの物はカイザルへ、神の物は神へと云ふ言葉があるやうに、政治と文化は別の領域に屬する。權力の力を頼む者はいづれ必ず權力に媚びる事になる。權力依存は兩刃の劍である。
――では現在の國語政策を放置すれば良いのか。
違ふ。國家が權力を嵩に正しい國語表記を妨げる場合には斷乎抗議すべきである。しかし權力によつて或る表記の使用を人に強制する事は出來ない。偶々強制出來たとしても何處かに變調を來す。人が或る表記で讀み書きする事を本心から撰ぶ爲には權力以外の何かが必要である。知識人の役割は其處にある。
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コメント
457 名前:なっち :04/12/14 22:49:48
あ れ れ 、 ホ ー ム ペ ー ジ の デ ザ イ ン が 、 同 じ だ け ど 、い い の か な 。
http://tsuru.cocolog-nifty.com/weblog/
投稿: 参考 | 2004年12月14日 (火) 22時57分
> い い の か な 。
いいのです。「ココログ」には出來合ひのデザインが何通りか用意されてゐて、「弁護士 鶴巻 暁 lawblog」の作者もそれをお使ひになつてゐるのではないかと。「なっち」呼ばはりは迷惑至極、と云ふか、あなた私以上の素人ですか。
投稿: 木村貴 | 2004年12月17日 (金) 09時22分