« 晝休み | トップページ | 日本人と言論 »

2004年12月22日 (水)

差異と普遍

 このやうな驚くべきことがどのやうにして可能となるのだらうか。言語學者と認知科學者は、若干の嫉妬も込めて、子どもは生まれながらにして、スタート地點がかなり有利なのだといふ結論に達した。もともと、子どもは言語を學ぶための特別のしくみをもつてゐるやうに見える。このやうな特別のしくみがどのやうなものからできてゐるかは誰にもわからない。おそらく、人間の言語はどのやうなものかといふ知識と、どのやうな音と構造が言語には含まれてゐるのかといふ知識、それにそのやうな音と構造を認識する策略が關はつてゐるのだらう。言語學者はこのやうな生まれながらのスタート地點を「普遍文法」と呼んでゐる。(マーク・ベイカー『言語のレシピ――多樣性にひそむ普遍性をもとめて』、郡司隆男譯、岩波書店)

 恐らくノーム・チョムスキーの唱へた「普遍文法」は正しい發見なのだらう。彼の政治的信條がどうであらうと。人間はどの國に生まれても生後せいぜい二年でその國の言葉をほぼ文法の誤り無く話せるやうになる。人間の多樣な言語の背景に普遍的な法則が存すると考へるのが自然であらう。相對主義を正義とした近現代の人文・社會科學は民族間の差異を強調し過ぎた。アメリカ人もサモア人もドイツ人も支那人も日本人も、同じ人間である以上、何らかの普遍的な性質を共有する筈である。人類の普遍性を忘れるべきではない。

 にも拘はらず、民族間の差異は依然として重要である。人間は互ひの集團的差異を非常に氣に懸ける動物だからだ。支那語も日本語も所詮同じ法則に基づく言語なのだから日本人はこれから支那語を公用語にすれば良い、と云ふ話にはならないだらうし、その逆も然りだらう。人間の頭骸骨はどれでも同じやうなものなのだからお前と俺の女房を取り替へよう、と云ふ話にならないのと同じである。人間について考へる際には、普遍性と差異性の雙方をしつかりと見据ゑるべきなのである。

|

« 晝休み | トップページ | 日本人と言論 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30565/2338135

この記事へのトラックバック一覧です: 差異と普遍:

« 晝休み | トップページ | 日本人と言論 »