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2004年11月28日 (日)

宗教・科學・合理主義

 かなり長くなつて仕舞ふが、リチャード・ドーキンスの「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」(垂水雄二譯、早川書房『惡魔に仕へる牧師』所收)から、ドーキンスの宗教觀を端的に示す件りを引用する。國語論としても讀める頗る論理的な文章だが、娘への手紙と云ふ形式で書かれてをり、表現は平易である。

 

 私たちにとつて、なぜ傳統がそれほど重要なのかといふ理由を説明してみようと思ふのです。すべての動物は(進化と呼ばれる過程によつて)、その種類がすんでゐるふつうの場所で生き延びることができるやうにつくられてゐます。ライオンは、アフリカの草原で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ザリガニは淡水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐますが、ロブスターは鹽水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。人間も動物です。そして私たちの體は、……ほかの人間が一杯ゐる世界のなかで生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ほとんどの人は、ライオンやロブスターのやうに自分で食べ物を捕まへたりはせず、それをほかの人から買ふのですが、その人もまた別の人から買つたのです。私たちは「人間の海」のなかを「泳ぐ」のです。ちやうど、水の中で生き延びるために、魚にエラが必要なのと同じやうに、ほかの人とうまく折り合つていくために、人間には頭が必要なのです。海が鹽水で滿たされてゐるやうに、人間の海には、憶えなければならない難しいことがいつぱいあるのです。たとへば言葉です。


 

 君は英語をしやべりますが、友達のアン・カトリンはドイツ語をしやべります。君たちは、別々の「人間の海」で「泳ぎまはる」のに適した言葉を、それぞれしやべつてゐるのです。言葉は、傳統によつて傳へわたされていきます。それ以外のやり方はないのです。ペペは英國ではa dogですが、ドイツではein Hundになります。どちらか一方の言葉がより正しいとか、より眞實だといふやうなことはありません。どちらも、ただ受け繼がれてきただけのことです。うまく「人間の海で泳ぎまはる」ことができるために、子供は自分の國の言葉や、自分の國の人間についてのたくさんの事柄を覺えなければなりません。といふことは、とてもたくさんの傳統的な情報を、吸ひ取り紙のやうに吸收しなければならないことになります(傳統的な情報とは、おぢいさんおばあさんから、兩親、子供へと受け渡されてゐる事柄について言つてゐるだけだといふのを、覺えておいてください)。子供の腦は傳統的情報の吸ひ取り紙でなければならないのです。そして子供に、その國の言葉の單語のやうな、役に立ついい傳統的情報と、魔女や惡魔や不死の聖母マリアを信じるといつた、馬鹿げた惡い情報とを選り分けるやうに期待することはできないのです。


 

 子供は傳統的な情報の吸ひ取り紙だから、大人の言ふことを、眞實であつても嘘であつても、正しくても間違つてゐても、何でも信じてしまひやすいといふのは、殘念なことですが、どうしやうもありません。大人の言ふことの多くは、證據に基づいた眞實であるか、少なくとも良識のあるものです。けれども、その一部が、嘘だつたり、馬鹿げてゐたり、あるいは邪惡なものでさへある場合、子供たちもそれを信じてしまふのを防ぐ方法がありません。さて、その子供たちが大人になつたとき、どうするでせうか? さうです。もちろん、彼らは、次の世代の子供たちに傳へるのです。そして、なにかがいつたん強く信じられてしまふと――たとへ、それが完全に嘘であり、そもそもそれを信じる理由がまつたくなかつた場合でさへ、永遠につづくことができるのです。


 

 これは、宗教でおこつてきたことなのではないのでせうか? 神あるいは神々の存在を信じること、天國を信じること、マリアがけつして死なないと信じること、イエスが人間の父親をもたなかつたと信じること、祈りはかなへられると信じること、ブドウ酒が血に變はると信じること――かうした信仰のどれ一つとして、正しい證據によつて裏づけられてはゐません。でも、何百萬人といふ人々が信じてゐるのです。たぶんきつと、人々が何でも信じてしまふ幼いときに、信じるやうに教へられたからなのでせう。


 

 ほかの何百萬人といふ人々は、子供の時に違つたことを教へられたために、まるで違つたことを信じてゐます。イスラム教徒の子供は、キリスト教徒の子供とは違つたことを教へられます。そして兩方とも、大人になつて、自分たちが正しくてあいつらは間違つてゐると、すつかり信じこんでしまふやうになります。キリスト教徒のなかでさへも、ローマ・カトリック教徒は、英國國教會員や米國聖公會員、シェーカー教徒やクエーカー教徒、モルモン教徒やペンテコステ派とは違つたことを信じてゐて、誰もが、自分たちが正しくてほかの宗派は間違つてゐると、すつかり信じこんでゐるのです。彼らは、君が英語をしやべり、アン・カトリンがドイツ語をしやべるのとまつたく同じ種類の理由によつて、違つたことを信じてゐるのです。どちらの言葉も、それぞれの國では、正しい話し言葉です。しかし、異なつた宗教が、それぞれの國で眞實だといふことはありえないのです。なぜなら、異なつた宗教は反對のことが眞實だと主張してゐるからです。マリアが、カトリックのアイルランド共和國では生きてゐるがプロテスタントの北アイルランドでは死んでゐるといふやうなことは、ありえないからです。


 森鴎外の短篇小説「かのやうに」に登場する綾小路が若しドーキンスの文章を讀んだなら、皮肉な表情を浮かべてかう言ひ放つに違ひない。「人にきみのやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ當てて、先祖の幽靈が盆にのこのこ歩いて來ると思つてゐる。みんな手應へのあるものを向うに見てゐるから、崇拜も出來れば、遵奉も出來るのだ」。

 又、スティーヴン・ピンカー『人間の本性を考へる』(山下篤子譯、NHKブックス)によれば、アメリカの保守派知識人として名高いアーヴィング・クリストルはかう書いたと云ふ。「さまざまな種類の人にとつてのさまざまな種類の眞實がある。子どもに適した眞實、學生に適した眞實、教育のあるおとなに適した眞實、きはめて教養の高いおとなに適した眞實。だから、だれもが利用できる一セットの眞實があるべきだといふ意見は、現代民主主義の誤謬である。それはうまくいかない」。

 しかし私は綾小路やクリストルとは異なり、全ての人間は社會的地位や年齡や「教養」に關はりなく、出來得る限り合理的に思考すべきだと思ふ。合理的思考こそが眞の教養だとすら考へる。合理的に考へる限り、眞實は一つであり萬人に共通でなければならない。さうした考へ方からは綾小路やクリストルが暗に指摘するやうな問題も生ずるかも知れないが、その問題も合理的精神無しに解決する事は出來まい。

 合理的精神が宗教を否定するとは限らない。ウィリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』(桝田啓三郎譯、岩波文庫)にかう書いてゐる。

 プラグマティズムは、われわれの精神とわれわれの經驗とが相たづさへて作り出す結論以外の結論にはまつたく無關心であるが、頭つから神學を否定するやうな偏見をもつてはゐない。もし神學上の諸觀念が具體的生命にとつて價値を有することが事實において明らかであるならば、それらの觀念は、そのかぎりにおいて善である、そしてかかる意味で、プラグマティズムにとつて眞であるであらう。

 ジェイムズは無信仰な人間ではなかつた。かうも書いたと云ふ。「われわれはただ祈らずにゐられないから祈るのである。いかに科學が反對しようとも……ひとは永久に祈りつづけるであらう」。キリスト教の信仰は私には分からないが、八百万の神に祈る日本人も「祈らずにゐられないから祈る」點では恐らく同じだと思ふ。だが祈ると同時に合理的に思考する事が必要である。決して容易な事ではないと思ふけれども。

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