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2004年11月25日 (木)

再論・引用時の假名遣ひ變更

 「現代かなづかい」で書かれた文章を正假名遣ひに改めて引用する事や、その逆の行爲は正當か。私、木村は正當だと考へる。この問題は何故か熱い論爭に發展しやすい。最近の論爭についてはhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8991/inyo/inyo.htmlを參照されたい。今囘は問答形式で異論を檢討する。

 ――そもそも何の爲に假名遣ひを變更するのか。素直にそのまま引用すれば良いではないか。

 理由は色々ある。私の場合、(1)「現代かなづかい」は不合理で讀みにくいから(2)地の文と引用文とで表記が異なると讀みにくいから(3)他人の文章といへども引用した以上は自分の著作物の一部だから(4)假名遣ひの變更と不變更を意識的に使ひ分ける事で表現上の效果が得られるから、等々。

 ――その程度の理由で假名遣ひを變へる必要があるのか。

 必要と信ずるからやるのである。例へば日本人の大半は高校レヴェルの英語を解するが、それでも英文のまま引用する事は少ない。英語は讀みにくいと云ふ、「その程度の理由で」日本語に書換へるのである。假名遣ひの書換へも同じだ。

 ――原文の假名遣ひを誤解される恐れがある。

 その恐れは否定しないが、己が表現の自由を犠牲にしてまで避けるべき誤解だとは思はない。 

 ――原著者の假名遣ひを變更する事自體、無禮ではないか。

 それなら外國の物書きの文章を似ても似つかぬ日本語に飜譯して引用する方が餘程無禮と云ふ事になる。外人には無禮を働いても構はないのか。

 ――假名遣ひは變へなくても意味が分かる。だが英語は兎も角、大抵の外國語は飜譯しなければ意味が分からない。

 意味が分かる分からないは日本人の勝手な都合だ。禮を盡くす事がそれほど大切ならば、引用の度に一々先方の了承を得るか、飜譯を伴ふ引用は一切愼むかするのが筋だらう。

 ――極論だ。

 極論は主張の論理性を檢證する有效な手段である。

 ――それでは一歩讓らう。表現の自由を犠牲にしない範圍で、禮を盡くすべきだ。

 その「範圍」は誰が決めるのか。私は他人の價値觀を押し附けられたくはない。

 ――法律や暴力で押し附けるわけではない。話し合ひでやれば良い。

 物事が全て話し合ひで濟むなら警察も裁判所も軍隊も要らぬ。

 ――自分の文章を「現代かなづかい」で引用されても構はないのか。

 構はない。私は他人の表現の自由を認める。

 ――木村は「現代かなづかい」派だと誤解する讀者がゐるかも知れない。

 誤解されたからと云つて別段困る事は無い。私の假名遣ひに關心のある讀者は原文を確かめる筈だ。確かめない讀者は誤解し續けるだらうが、それは當人の落ち度である。

 ――私は他人の假名遣ひを一切變更しない。

 それは勿論自由だし一つの原則だが、だからと云つて相手にも同樣の行動を求めたり期待したりする事は出來ない。見返りを期待した禮は僞物である。

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