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2004年11月19日 (金)

西洋精神の本質

 

 キリスト教徒であるといふことは神によつて愛されてゐるといふことであり、キリスト教徒でないといふことは神によつて憎まれてゐるといふことであり、神の怒りの對象であるといふことである。したがつて、キリスト教徒はただキリスト教徒だけを愛することが許されてをり、キリスト教徒以外の人を愛することが許されるのはただその人が可能的なキリスト教徒であるときだけなのである。[中略]「あなた方の敵を愛せよ」といふ命題は、ただ個人的な敵に關係するだけであつて、公けの敵・神の敵・信仰の敵・信仰をもたない人びとには関係しない。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」下卷百二十三頁、船山信一譯、岩波文庫)

 このサイトでは西洋思想、とりわけその代表であるキリスト教思想について好意的に取り上げる事が多い。實際、例へば政治と人間との關係について、イエス、アウグスティヌス、ルター以上に深く考へた神道思想家が日本にゐたとは思へない。だから福田恆存のいはゆる「カトリックの無免許運轉」ではないが、思はず己がクリスチャンであるかのやうな調子で物を書ひて仕舞ふ瞬間が無いとは云へない。

 しかし我々は矢張り時折、キリスト教徒の思考力の見事と同時に、その怖ろしさも思ひ出すべきである。フォイエルバッハが明け透けに云ふやうに、「汝の敵を愛せ」と云ふ教へは、飽く迄もキリスト教徒内部か、せいぜい「可能的なキリスト教徒」だけを念頭に置いたものであつて、キリスト教の神に刃向かふ異教徒を對象にしたものではない。さうでなければ、キリスト教國アメリカがアフガニスタンやイラクをあれほど徹底的に爆撃出來る筈は無い。

 無論、アメリカに於いて宗教と政治は建前上分離されてゐるし、分離されねばならぬのだが、宗教も政治も同じ人間に係はる事である以上、何時如何なる場合も完全に分離されてゐると考へる事も亦無理であらう。アメリカの保守派女流評論家アン・コールターは書く。「アメリカが嫌ひだつて? こつちも連中は嫌ひだ。いかれたイスラム教徒に好かれたいとは思はない。やつらが死ねばいいと思ふ」。

 だが此處で再び西洋精神の見事について語らぬ譯にいかない。「神が人間を造つたのではなく人間が神を造つたのだ」と喝破するフォイエルバッハの唯物論を讀んで、現代日本人の多くは「それがどうした。キリスト教の神が想像の産物に過ぎぬ事くらゐ先刻承知だ」としか感じないのではないか。しかしフォイエルバッハが生きた十九世紀のドイツで「神はゐない」と明言する事は、戰前の日本で「天皇は人間だ」と語る事以上に勇氣の要る行爲だつたのだ。事實、フォイエルバッハは大學講師時代、論文でキリスト教を批判した爲、職を追はれてゐる。強烈な絶對者を戴く文化は強烈な抵抗者を生む。我々日本人はそのどちらをも有しないのである。

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