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2004年11月 1日 (月)

激情は愚ならず

 ロバート・H・フランク「オデッセウスの鎖」(山岸俊男監譯、サイエンス社)を讀んでゐたら、松原正氏の文章にも出て来る插話を偶然發見した。

 第二次大戰中に、聯合國側が樞軸國側の暗號を解いた直後、イギリスはドイツがコヴェントリーを爆撃しようとしてゐるといふ通信を解讀した。ここで、チャーチルは深刻なジレンマに直面した。コヴェントリーの市民を避難させれば、市民の命を救ふことはできるが、暗號が解讀されたことをドイツ側に知らせることになる。もし何もしなければ祕密は保たれ、戰爭は早期に終結する可能性が大きい。コヴェントリーの犠牲は、早期の勝利が確實になることで得られる利益によつて正當化されると、チャーチルは考へた。[中略]チャーチルの決斷は正しかつたと思ふが、そのやうな決斷は、別の指導者だつたらできなかつた可能性が強い。ありきたりの指導者だつたら、コヴェントリーの犠牲者に對する共感に壓倒されて、後で助かる可能性のある人々のことに十分考へをめぐらせなかつたかもしれない。
 例へば朝日新聞は何かと云ふと「徒らに感情的にならず理性的に對應しよう」と讀者に説教するが、チャーチルの非情な迄の「理性的對應」をフランクのやうに明確に肯定する度胸はまづ無いであらう。

 但しフランクは理性的判斷が常に正しいと主張してゐるわけではない。「オデッセウスの鎖」全體では、寧ろ感情に突き動かされて爲した行動こそ、結果的に當人(政治的指導者の場合は當該國家)の利益となる場合が少なくない事を論證してゐるのである。

 合理主義者は、このやうな[相互確證破壞(MAD)による]抑止力は意味がないと主張してきた。最初の攻撃を受けてしまつたら、抑止するには遲すぎる、つまり復讐したところで世界の破滅の可能性が高くなるだけだからである。合理主義者によれば、假想敵國はこのことを知つてゐるので、MADの抑止力は效果を持たなくなる。/表面的にはこの批判は正しい。[中略]このやうな場面で人間は非合理的に反應する可能性がある。結果の重大性を考へれば、相手國が核攻撃に對して完全に合理的に反應するだらうと考へるのは危險すぎる。
 フランクは一歩進んで、政治指導者の選び方について次のやうに「提案」する。
 ゴーティア(一九八五)は、核攻撃に對して反撃する「性質を持つやうにする」ことが、政策決定者にとつて合理的だと述べてゐる。確かに、そのことが敵側に知られてゐれば、攻撃の抑止に役立つだらう。[中略]ゴーティアと私が政策決定者として雇ひたいのはまさに同じ人物、すなはち、敵側がこいつは反撃するだらうと豫測する人物である。そして、そのやうな豫測を引き出すもつとも確實な方法は、本當にボタンを押すやうな人物を雇ふことである。
 非合理な復讐も辭さぬと云ふ激情の持主こそ、他者からの攻撃を抑止し、安全と云ふ利益を享受出來ると云ふ逆説である。感情と理性について語るのなら、此處まで踏み込むべきである。

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