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2004年11月28日 (日)

宗教・科學・合理主義

 かなり長くなつて仕舞ふが、リチャード・ドーキンスの「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」(垂水雄二譯、早川書房『惡魔に仕へる牧師』所收)から、ドーキンスの宗教觀を端的に示す件りを引用する。國語論としても讀める頗る論理的な文章だが、娘への手紙と云ふ形式で書かれてをり、表現は平易である。

 

 私たちにとつて、なぜ傳統がそれほど重要なのかといふ理由を説明してみようと思ふのです。すべての動物は(進化と呼ばれる過程によつて)、その種類がすんでゐるふつうの場所で生き延びることができるやうにつくられてゐます。ライオンは、アフリカの草原で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ザリガニは淡水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐますが、ロブスターは鹽水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。人間も動物です。そして私たちの體は、……ほかの人間が一杯ゐる世界のなかで生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ほとんどの人は、ライオンやロブスターのやうに自分で食べ物を捕まへたりはせず、それをほかの人から買ふのですが、その人もまた別の人から買つたのです。私たちは「人間の海」のなかを「泳ぐ」のです。ちやうど、水の中で生き延びるために、魚にエラが必要なのと同じやうに、ほかの人とうまく折り合つていくために、人間には頭が必要なのです。海が鹽水で滿たされてゐるやうに、人間の海には、憶えなければならない難しいことがいつぱいあるのです。たとへば言葉です。


 

 君は英語をしやべりますが、友達のアン・カトリンはドイツ語をしやべります。君たちは、別々の「人間の海」で「泳ぎまはる」のに適した言葉を、それぞれしやべつてゐるのです。言葉は、傳統によつて傳へわたされていきます。それ以外のやり方はないのです。ペペは英國ではa dogですが、ドイツではein Hundになります。どちらか一方の言葉がより正しいとか、より眞實だといふやうなことはありません。どちらも、ただ受け繼がれてきただけのことです。うまく「人間の海で泳ぎまはる」ことができるために、子供は自分の國の言葉や、自分の國の人間についてのたくさんの事柄を覺えなければなりません。といふことは、とてもたくさんの傳統的な情報を、吸ひ取り紙のやうに吸收しなければならないことになります(傳統的な情報とは、おぢいさんおばあさんから、兩親、子供へと受け渡されてゐる事柄について言つてゐるだけだといふのを、覺えておいてください)。子供の腦は傳統的情報の吸ひ取り紙でなければならないのです。そして子供に、その國の言葉の單語のやうな、役に立ついい傳統的情報と、魔女や惡魔や不死の聖母マリアを信じるといつた、馬鹿げた惡い情報とを選り分けるやうに期待することはできないのです。


 

 子供は傳統的な情報の吸ひ取り紙だから、大人の言ふことを、眞實であつても嘘であつても、正しくても間違つてゐても、何でも信じてしまひやすいといふのは、殘念なことですが、どうしやうもありません。大人の言ふことの多くは、證據に基づいた眞實であるか、少なくとも良識のあるものです。けれども、その一部が、嘘だつたり、馬鹿げてゐたり、あるいは邪惡なものでさへある場合、子供たちもそれを信じてしまふのを防ぐ方法がありません。さて、その子供たちが大人になつたとき、どうするでせうか? さうです。もちろん、彼らは、次の世代の子供たちに傳へるのです。そして、なにかがいつたん強く信じられてしまふと――たとへ、それが完全に嘘であり、そもそもそれを信じる理由がまつたくなかつた場合でさへ、永遠につづくことができるのです。


 

 これは、宗教でおこつてきたことなのではないのでせうか? 神あるいは神々の存在を信じること、天國を信じること、マリアがけつして死なないと信じること、イエスが人間の父親をもたなかつたと信じること、祈りはかなへられると信じること、ブドウ酒が血に變はると信じること――かうした信仰のどれ一つとして、正しい證據によつて裏づけられてはゐません。でも、何百萬人といふ人々が信じてゐるのです。たぶんきつと、人々が何でも信じてしまふ幼いときに、信じるやうに教へられたからなのでせう。


 

 ほかの何百萬人といふ人々は、子供の時に違つたことを教へられたために、まるで違つたことを信じてゐます。イスラム教徒の子供は、キリスト教徒の子供とは違つたことを教へられます。そして兩方とも、大人になつて、自分たちが正しくてあいつらは間違つてゐると、すつかり信じこんでしまふやうになります。キリスト教徒のなかでさへも、ローマ・カトリック教徒は、英國國教會員や米國聖公會員、シェーカー教徒やクエーカー教徒、モルモン教徒やペンテコステ派とは違つたことを信じてゐて、誰もが、自分たちが正しくてほかの宗派は間違つてゐると、すつかり信じこんでゐるのです。彼らは、君が英語をしやべり、アン・カトリンがドイツ語をしやべるのとまつたく同じ種類の理由によつて、違つたことを信じてゐるのです。どちらの言葉も、それぞれの國では、正しい話し言葉です。しかし、異なつた宗教が、それぞれの國で眞實だといふことはありえないのです。なぜなら、異なつた宗教は反對のことが眞實だと主張してゐるからです。マリアが、カトリックのアイルランド共和國では生きてゐるがプロテスタントの北アイルランドでは死んでゐるといふやうなことは、ありえないからです。


 森鴎外の短篇小説「かのやうに」に登場する綾小路が若しドーキンスの文章を讀んだなら、皮肉な表情を浮かべてかう言ひ放つに違ひない。「人にきみのやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ當てて、先祖の幽靈が盆にのこのこ歩いて來ると思つてゐる。みんな手應へのあるものを向うに見てゐるから、崇拜も出來れば、遵奉も出來るのだ」。

 又、スティーヴン・ピンカー『人間の本性を考へる』(山下篤子譯、NHKブックス)によれば、アメリカの保守派知識人として名高いアーヴィング・クリストルはかう書いたと云ふ。「さまざまな種類の人にとつてのさまざまな種類の眞實がある。子どもに適した眞實、學生に適した眞實、教育のあるおとなに適した眞實、きはめて教養の高いおとなに適した眞實。だから、だれもが利用できる一セットの眞實があるべきだといふ意見は、現代民主主義の誤謬である。それはうまくいかない」。

 しかし私は綾小路やクリストルとは異なり、全ての人間は社會的地位や年齡や「教養」に關はりなく、出來得る限り合理的に思考すべきだと思ふ。合理的思考こそが眞の教養だとすら考へる。合理的に考へる限り、眞實は一つであり萬人に共通でなければならない。さうした考へ方からは綾小路やクリストルが暗に指摘するやうな問題も生ずるかも知れないが、その問題も合理的精神無しに解決する事は出來まい。

 合理的精神が宗教を否定するとは限らない。ウィリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』(桝田啓三郎譯、岩波文庫)にかう書いてゐる。

 プラグマティズムは、われわれの精神とわれわれの經驗とが相たづさへて作り出す結論以外の結論にはまつたく無關心であるが、頭つから神學を否定するやうな偏見をもつてはゐない。もし神學上の諸觀念が具體的生命にとつて價値を有することが事實において明らかであるならば、それらの觀念は、そのかぎりにおいて善である、そしてかかる意味で、プラグマティズムにとつて眞であるであらう。

 ジェイムズは無信仰な人間ではなかつた。かうも書いたと云ふ。「われわれはただ祈らずにゐられないから祈るのである。いかに科學が反對しようとも……ひとは永久に祈りつづけるであらう」。キリスト教の信仰は私には分からないが、八百万の神に祈る日本人も「祈らずにゐられないから祈る」點では恐らく同じだと思ふ。だが祈ると同時に合理的に思考する事が必要である。決して容易な事ではないと思ふけれども。

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2004年11月25日 (木)

再論・引用時の假名遣ひ變更

 「現代かなづかい」で書かれた文章を正假名遣ひに改めて引用する事や、その逆の行爲は正當か。私、木村は正當だと考へる。この問題は何故か熱い論爭に發展しやすい。最近の論爭についてはhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8991/inyo/inyo.htmlを參照されたい。今囘は問答形式で異論を檢討する。

 ――そもそも何の爲に假名遣ひを變更するのか。素直にそのまま引用すれば良いではないか。

 理由は色々ある。私の場合、(1)「現代かなづかい」は不合理で讀みにくいから(2)地の文と引用文とで表記が異なると讀みにくいから(3)他人の文章といへども引用した以上は自分の著作物の一部だから(4)假名遣ひの變更と不變更を意識的に使ひ分ける事で表現上の效果が得られるから、等々。

 ――その程度の理由で假名遣ひを變へる必要があるのか。

 必要と信ずるからやるのである。例へば日本人の大半は高校レヴェルの英語を解するが、それでも英文のまま引用する事は少ない。英語は讀みにくいと云ふ、「その程度の理由で」日本語に書換へるのである。假名遣ひの書換へも同じだ。

 ――原文の假名遣ひを誤解される恐れがある。

 その恐れは否定しないが、己が表現の自由を犠牲にしてまで避けるべき誤解だとは思はない。 

 ――原著者の假名遣ひを變更する事自體、無禮ではないか。

 それなら外國の物書きの文章を似ても似つかぬ日本語に飜譯して引用する方が餘程無禮と云ふ事になる。外人には無禮を働いても構はないのか。

 ――假名遣ひは變へなくても意味が分かる。だが英語は兎も角、大抵の外國語は飜譯しなければ意味が分からない。

 意味が分かる分からないは日本人の勝手な都合だ。禮を盡くす事がそれほど大切ならば、引用の度に一々先方の了承を得るか、飜譯を伴ふ引用は一切愼むかするのが筋だらう。

 ――極論だ。

 極論は主張の論理性を檢證する有效な手段である。

 ――それでは一歩讓らう。表現の自由を犠牲にしない範圍で、禮を盡くすべきだ。

 その「範圍」は誰が決めるのか。私は他人の價値觀を押し附けられたくはない。

 ――法律や暴力で押し附けるわけではない。話し合ひでやれば良い。

 物事が全て話し合ひで濟むなら警察も裁判所も軍隊も要らぬ。

 ――自分の文章を「現代かなづかい」で引用されても構はないのか。

 構はない。私は他人の表現の自由を認める。

 ――木村は「現代かなづかい」派だと誤解する讀者がゐるかも知れない。

 誤解されたからと云つて別段困る事は無い。私の假名遣ひに關心のある讀者は原文を確かめる筈だ。確かめない讀者は誤解し續けるだらうが、それは當人の落ち度である。

 ――私は他人の假名遣ひを一切變更しない。

 それは勿論自由だし一つの原則だが、だからと云つて相手にも同樣の行動を求めたり期待したりする事は出來ない。見返りを期待した禮は僞物である。

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石井勲先生お別れの會

登龍館ウェブサイトより轉載。

石井勲先生お別れの会

2004年11月27日(土)午後1時 青山葬儀所
東京都港区南青山2-33-20 TEL 03-3401-3653
地下鉄千代田線乃木坂駅から徒歩3分 銀座線青山1丁目駅から徒歩8分
お問い合わせ 06-6773-3931 (株)登龍館

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2004年11月19日 (金)

西洋精神の本質

 

 キリスト教徒であるといふことは神によつて愛されてゐるといふことであり、キリスト教徒でないといふことは神によつて憎まれてゐるといふことであり、神の怒りの對象であるといふことである。したがつて、キリスト教徒はただキリスト教徒だけを愛することが許されてをり、キリスト教徒以外の人を愛することが許されるのはただその人が可能的なキリスト教徒であるときだけなのである。[中略]「あなた方の敵を愛せよ」といふ命題は、ただ個人的な敵に關係するだけであつて、公けの敵・神の敵・信仰の敵・信仰をもたない人びとには関係しない。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」下卷百二十三頁、船山信一譯、岩波文庫)

 このサイトでは西洋思想、とりわけその代表であるキリスト教思想について好意的に取り上げる事が多い。實際、例へば政治と人間との關係について、イエス、アウグスティヌス、ルター以上に深く考へた神道思想家が日本にゐたとは思へない。だから福田恆存のいはゆる「カトリックの無免許運轉」ではないが、思はず己がクリスチャンであるかのやうな調子で物を書ひて仕舞ふ瞬間が無いとは云へない。

 しかし我々は矢張り時折、キリスト教徒の思考力の見事と同時に、その怖ろしさも思ひ出すべきである。フォイエルバッハが明け透けに云ふやうに、「汝の敵を愛せ」と云ふ教へは、飽く迄もキリスト教徒内部か、せいぜい「可能的なキリスト教徒」だけを念頭に置いたものであつて、キリスト教の神に刃向かふ異教徒を對象にしたものではない。さうでなければ、キリスト教國アメリカがアフガニスタンやイラクをあれほど徹底的に爆撃出來る筈は無い。

 無論、アメリカに於いて宗教と政治は建前上分離されてゐるし、分離されねばならぬのだが、宗教も政治も同じ人間に係はる事である以上、何時如何なる場合も完全に分離されてゐると考へる事も亦無理であらう。アメリカの保守派女流評論家アン・コールターは書く。「アメリカが嫌ひだつて? こつちも連中は嫌ひだ。いかれたイスラム教徒に好かれたいとは思はない。やつらが死ねばいいと思ふ」。

 だが此處で再び西洋精神の見事について語らぬ譯にいかない。「神が人間を造つたのではなく人間が神を造つたのだ」と喝破するフォイエルバッハの唯物論を讀んで、現代日本人の多くは「それがどうした。キリスト教の神が想像の産物に過ぎぬ事くらゐ先刻承知だ」としか感じないのではないか。しかしフォイエルバッハが生きた十九世紀のドイツで「神はゐない」と明言する事は、戰前の日本で「天皇は人間だ」と語る事以上に勇氣の要る行爲だつたのだ。事實、フォイエルバッハは大學講師時代、論文でキリスト教を批判した爲、職を追はれてゐる。強烈な絶對者を戴く文化は強烈な抵抗者を生む。我々日本人はそのどちらをも有しないのである。

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2004年11月16日 (火)

新國務長官にライス女史

 アメリカの新國務長官にライス大統領補佐官。
http://www.drudgereport.com/
http://abcnews.go.com/US/story?id=254647

 ライス補佐官が以前書いた文書より。

 共和黨政權の外交政策は間違ひなく國際主義的なものになる。共和黨の有力な大統領候補者たちの國際主義者としての實績は申し分ない。だがわれわれの國際主義は、幻想に過ぎない國際社會の利益ではなく、米國の國益といふ確固たる基盤から導きだされるものでなければならない。米國は横柄になることなく權力を行使し、他國を犠牲にしたり亂暴な態度に訴へることなく、國益を摸索するだらう。米國の中核的な價値を共有する國々と協調しつつ、權力を行使し國益を摸索すれば、世界はより繁榮し、平和で民主的になる。これこそ過去において米國に課せられた特別な役割だつたわけだし、二一世紀に向けて、再びわれわれはその責務を擔はなければならない。 (ロナルド・A・モース編著『「無條件勝利」のアメリカと日本の選擇』(時事通信社、二〇〇二年一月刊)

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福田恆存歿後十年記念講演會

 申込期限を過ぎて仕舞ひましたが、御關心のおありになる方は問合はせてみてください。以下、國語問題協議會ウェブサイトより轉載。http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/kouenkai75.htm

第七十五囘 創立四十五周年・福田恆存先生歿後十年記念講演會 御案内
中秋の頃、皆樣には益々御健勝のことと存じます。今年度秋の講演會ならびに懇親會を開催致します。今囘は、本會創立四十五周年および創立者の一人福田恆存先生の歿後十年を記念するものです。

平成十六年十月二十日 國語問題協議會會長 宇野 精一
事務局 〒一四六―〇〇八五 東京都大田區久ヶ原三丁目二十四ノ六
電話 〇八〇―三四一一―五五〇一
電送 〇三―五九〇八―九六一七
電子メイル 0359089617@mail.keikaibox.com
電網頁 http://www5b.biglobe.ne.jp/^kokugoky/


一、日 時 平成十六年十一月二十日(土)午後二時より
二、會 場 日本倶樂部 大會議室 (有樂町 國際ビル八階)
千代田區丸の内三―一―一(電話 〇三―三二一一―二五一一)
三、講演會  午後二時から四時半まで
四十五周年を迎へて 本會會長 東京大學名譽教授 宇野 精一
福田恆存と國語問題 東京大學名譽教授 小堀 桂一郎
福田恆存の思ひ出 早稻田大學名譽教授 松原 正
四、懇親會  講演會終了後、同所にて午後五時から七時まで
五、會費 講演會參加費一千圓、懇親會費六千圓。

※ 準備の都合上、十一月十日までに出缺を葉書または電送にて御返事下さい。會場定員を超過した場合、お斷りすることもあります。また、會場は日本工業倶樂部ではありませんので御注意ください。國際ビルは帝劇のビルです。

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2004年11月11日 (木)

プライドだけは一人前

 遲ればせながらブッシュ米大統領再選に關聨して。

 「アメリカのケツの穴を舐める」のは國辱物だと憤る平和主義者が多いのは不思議な事である。人間が他人の「ケツの穴を舐める」事を屈辱と感じ、それを強いる相手に抵抗しようとするからこそ、戰爭が起こるのである。平和主義を貫かうとするなら、嫌でも他人のケツの穴を舐める度量を養ふべきである。

 「アメリカのケツの穴を舐める」のは國辱物だと憤る國家主義者が多いのは不思議でない。しかし弱者たる日本はアメリカの「ケツの穴を舐め」なければ生きて行けない。國家主義者が日本滅亡に道を開くやうな主張をするのは矛盾である。

 左翼にも右翼にも、アジアと手を結べだのヨーロッパと組めだの主張する論客がゐるが、噴飯物である。アメリカのケツの穴は臭いが、アジアやヨーロッパのケツの穴は香しいとでも云ひたいのだらうか。アジアやヨーロッパは日本の都合に合はせて日本のケツの穴を喜んで舐めて呉れると信じてゐるのだらうか。

 弱者は常に強者に嫉妬し、強者を憎む。それは人間の性である。日本人もこの例に漏れぬどころか、軍事力がからきし無い癖にプライドや強者への憎惡だけは一人前である。身の程知らずの日本人はいづれアメリカと無謀な戰爭をやらかすかも知れない。戰爭は精神論だけでは勝てないと云ふ事をあれほど學んだにも拘はらず。

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2004年11月 4日 (木)

八方美人を賤しむ

 出久根達郎「行藏は我にあり」(文春新書)の後書だけ立ち讀み。題名は勝海舟の言葉に由來する。舊幕臣でありながら維新政府の要職に就いて富貴を極めた勝を、福澤諭吉は「痩我慢の説」で「斷然世を遁れて維新以来の非を改め」よと嚴しく批判した。それに對する勝の返答が「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候」、すなはち、世で働くか隱退するかは自分で決める、他人がどう云はうと知らぬと云ふものであつた。

 勝の言葉は一見堂々としてゐるやうだが、福澤の批判に何も答へてゐない。同じく福澤から詰め寄られた榎本武揚は、現在多忙なのでいづれ返事するとだけ答へ、結局反論しなかつたが、最初から答へる氣の無かつた勝に比べれば、まだしも道徳的に見える。

 ところが出久根達郎は、この一件について「居直つた」勝が好きであり、「逃げた」榎本も好きだと云ひ、のみならず、彼らを批判した「青つぽいところのある」福澤も好きだと云ふ。好き嫌ひに理窟は無いから誰からも文句は付けられまいと安心して書いてゐるのだらうが、「痩我慢の説」を讀んで、榎本は兔も角、「居直つた」勝が好きだなどとどうして書けるのか。福澤は破廉恥と云ふ言葉こそ使つてゐないが、要するに勝を破廉恥な男だと指彈してゐるのである。それを出久根は何の説明も無しに好きだと云ふ。どんな破廉恥漢でも居直つた姿が堪らなく好きだと云ふ特殊な趣味の持主でもない限り、出久根の文章は誰も理解出來ないであらう。

 重ねて云ふが、好き嫌ひを述べるのに精確な論證は不要だし、「好き」の方だけ擧げておけば誰からも苦情を云はれる心配が無い。しかし、道徳が關はる問題は、好き嫌ひだけで片付ける譯には行かない。いやいや、全うな物書きなら、道徳が關はる面倒な問題こそ、單純な好き嫌ひの話で終らせず、その意味をじつくり考へようとする筈ではないか。

 福澤は「内國の事にても朋友間の事にても、既に事端を發するときは敵は即ち敵なり」と書いた男である。「勝も好きだがあんたも好きだよ」と揉手しながら近付いて來るやうな八方美人を、誰よりも烈しく輕蔑したに違ひない。

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2004年11月 2日 (火)

憂慮すべき事

 「文語の苑」http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/index.htmlより。

 陸奧宗光著『蹇蹇録』の緒言である。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki.html
 「である」は口語。「緒言なり」とすべきである。
 しかれどその裏にて眞の戰意欠くれば、ただのこけ威しと墮する。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki3.html
 「堕する」は文語では連體形。「堕す」と終止形にすべきである。
 「この囘答は外形において毫も圭角(けいかく)を露(あらは)さざれども、畢竟外交的筆法を以つて婉曲に露國の勸告を拒絶したるものなれば、露國がこれに滿足すべきや否や更に待つべき所」であつたが、ロシアは取り敢へずこの囘答を受諾し、即時反論の機を逸せり。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki9.html
 「であつたが」は「なりしも」とすべきである。

 私に文語を書く能力は無いが、その私でも指摘できるやうな初歩的な誤りである。トップページで「先人の磨き上げし文語の消え行くは、見るに忍びざるものあり」と嘆いてみせる「文語の苑」で公表する以上、せめて文法的に正しい文章を書くべきではないか。よしんば筆者が氣づかなかつたとしても、「文語の苑」には發起人が六十一人もゐるではないか。筆者と同じ幹事もゐるではないか。「文語の苑」參加者は、世間から文語が消え行く事よりも、自らの主張を裏切るやうな誤りを放置してゐる失態をまづ憂慮すべきである。

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2004年11月 1日 (月)

激情は愚ならず

 ロバート・H・フランク「オデッセウスの鎖」(山岸俊男監譯、サイエンス社)を讀んでゐたら、松原正氏の文章にも出て来る插話を偶然發見した。

 第二次大戰中に、聯合國側が樞軸國側の暗號を解いた直後、イギリスはドイツがコヴェントリーを爆撃しようとしてゐるといふ通信を解讀した。ここで、チャーチルは深刻なジレンマに直面した。コヴェントリーの市民を避難させれば、市民の命を救ふことはできるが、暗號が解讀されたことをドイツ側に知らせることになる。もし何もしなければ祕密は保たれ、戰爭は早期に終結する可能性が大きい。コヴェントリーの犠牲は、早期の勝利が確實になることで得られる利益によつて正當化されると、チャーチルは考へた。[中略]チャーチルの決斷は正しかつたと思ふが、そのやうな決斷は、別の指導者だつたらできなかつた可能性が強い。ありきたりの指導者だつたら、コヴェントリーの犠牲者に對する共感に壓倒されて、後で助かる可能性のある人々のことに十分考へをめぐらせなかつたかもしれない。
 例へば朝日新聞は何かと云ふと「徒らに感情的にならず理性的に對應しよう」と讀者に説教するが、チャーチルの非情な迄の「理性的對應」をフランクのやうに明確に肯定する度胸はまづ無いであらう。

 但しフランクは理性的判斷が常に正しいと主張してゐるわけではない。「オデッセウスの鎖」全體では、寧ろ感情に突き動かされて爲した行動こそ、結果的に當人(政治的指導者の場合は當該國家)の利益となる場合が少なくない事を論證してゐるのである。

 合理主義者は、このやうな[相互確證破壞(MAD)による]抑止力は意味がないと主張してきた。最初の攻撃を受けてしまつたら、抑止するには遲すぎる、つまり復讐したところで世界の破滅の可能性が高くなるだけだからである。合理主義者によれば、假想敵國はこのことを知つてゐるので、MADの抑止力は效果を持たなくなる。/表面的にはこの批判は正しい。[中略]このやうな場面で人間は非合理的に反應する可能性がある。結果の重大性を考へれば、相手國が核攻撃に對して完全に合理的に反應するだらうと考へるのは危險すぎる。
 フランクは一歩進んで、政治指導者の選び方について次のやうに「提案」する。
 ゴーティア(一九八五)は、核攻撃に對して反撃する「性質を持つやうにする」ことが、政策決定者にとつて合理的だと述べてゐる。確かに、そのことが敵側に知られてゐれば、攻撃の抑止に役立つだらう。[中略]ゴーティアと私が政策決定者として雇ひたいのはまさに同じ人物、すなはち、敵側がこいつは反撃するだらうと豫測する人物である。そして、そのやうな豫測を引き出すもつとも確實な方法は、本當にボタンを押すやうな人物を雇ふことである。
 非合理な復讐も辭さぬと云ふ激情の持主こそ、他者からの攻撃を抑止し、安全と云ふ利益を享受出來ると云ふ逆説である。感情と理性について語るのなら、此處まで踏み込むべきである。

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