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2004年8月29日 (日)

中島義道、裸で歩け

「新潮45」九月號の連載「罵事討風」で小谷野敦が中島義道と福田和也に嚙み附いてゐる。

 この形式での連載も今回が最後になるようだ。そこで出血大サービス、いつも私の隣で書いている中島義道先生を批判しよう。八月号「明狂死酔」で中島は、世間の人は本当のことを言わない、と言い、あたかも自分は本当のことを言っているかのように喧伝している。だが、中島の言っていることなどというのは、せいぜい苦笑を誘う程度のものでしかない。しかも、福田和也さんのゼミで話をした、と書いている。福田に対して、右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎、などとは決して言わないのだ。「大衆評論家」の加藤諦三は批判しても、いま現在論壇の覇権を握っている人には決して攻撃を加えない。イラク人質三人組に関しても、朝日新聞的な意見を言っていただけである。こんな姑息な処世術を駆使しながら、「ぐれる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。
 「右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎」の仲間には、宮崎哲彌や坪内祐三も入れるべきだと思ふ。さて小谷野が批判した中島の八月號の文章を引張り出して讀んでみると、確かに非道い。こんな件りもあつた。
 それにしてもおもしろいのは、テレビ出演者は、これほど性的ゴシップが好きなのに、誰も彼もが「まじめな」インタヴューでは、慎重に性的発言を避けることである。オリンピックで金メダルを取ったりノーベル賞授賞式から帰国した英雄たちに「お疲れでしょうが、いま何をしたいですか?」という質問が必ず出るが、誰も「無性にセックスしたいです」とは答えない。いまは、スピーカー轟音を撒き散らす参議院選挙運動の真っただ中であるが、本日のテレビ特別番組で、司会者が各党幹事長に独自の健康法を聞いていた。出てきた回答は「よく寝ること」「晩酌すること」など。「セックスすること」という回答はなかった。興味深いのは、もしそう答えると、みんな(たぶん)あっと驚くことである(私はセックスが大好きなわけではありません、これ「本当のこと」です、念のため)。
 たしかに「苦笑」するしかない。中島に進言する。どうして人間は風呂の中で裸になつて體を伸ばすのが好きなのに、往來では誰も彼もが服を着て歩くのだらうか。中島はきつと疑問に思つてゐるに相違ない。構はないから裸で歩け。

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コメント

中島氏の著作をお読みになったことがおありでしょうか?氏の著作の内容を踏まえれば恐らく、ここで中島氏が言いたいのは「現代日本人は、お決まりの質問にお決まりの答えが返ってくることを望んでおり、本当のところ言語によるコミュニケーションなど望んでいない。それは私にとって無意味で不愉快だ」ということです。セックスは例の一つにしかすぎないのでは?氏の論は、正当であるかは別として常に論理としては通っていますよ。
ここで「なぜ外で服を着るのか」などと言う論点のずれた問いを発しても、「警察に捕まるから」程度の答えしか返ってこないでしょう。
あなたの論の結論「中島は裸で歩け」はどういう論理により導かれるのでしょうか?私には論理が飛躍しているとしか思えません。氏は性をオープンにしろ、なんてここでは一言も言っていません。ただ、マスコミにおける下品に性的ゴシップの許される空間と「マジメ」な空間は、極めて曖昧な、いわゆる日本人的な「察する」という習慣によってのみなされており、病的に言語によって現象を把握しようとする氏は、「察する」文化を否定していると思われます(著作を踏まえると)。
最後にもう一度言います。氏は性の解放を助長する言葉など一言も言っておりません。ゆえに「中島は裸で歩け」という結論は誤読に基づく詭弁に過ぎません。

投稿: ハザマ | 2004年9月 8日 (水) 19時11分

>中島氏の著作をお読みになったことがおありでしょうか?

「哲學の教科書」と他に一二册讀んだだけです。それらの本ではこれほど非道くはなかつたと思ふのですが。

>氏の著作の内容を踏まえれば恐らく、ここで中島氏が言いたいのは「現代日本人は、お決まりの質問にお決まりの答えが返ってくることを望んでおり、本当のところ言語によるコミュニケーションなど望んでいない。それは私にとって無意味で不愉快だ」ということです。セックスは例の一つにしかすぎないのでは?氏の論は、正当であるかは別として常に論理としては通っていますよ。

それなら、セックスの話は的外れな「例」でしかありませんね。現代日本人がAと云ふ行動を取つてゐる事を批判したいのならば、「現代日本人以外の人間はAと云ふ行動などしない」と云はねばならない。ところが、中島氏のゐたオーストリアの人間も、スイス人もアメリカ人もイラン人もマレーシア人も、誰も公の場で「無性にセックスしたいです」などと云ひはしません。

>ここで「なぜ外で服を着るのか」などと言う論点のずれた問いを発しても、「警察に捕まるから」程度の答えしか返ってこないでしょう。

それなら中島氏から批判された「現代日本人」は、「世界中の誰もそんな馬鹿な眞似はしないから」と一斉に答へるでせうね。

>あなたの論の結論「中島は裸で歩け」はどういう論理により導かれるのでしょうか?私には論理が飛躍しているとしか思えません。氏は性をオープンにしろ、なんてここでは一言も言っていません。ただ、マスコミにおける下品に性的ゴシップの許される空間と「マジメ」な空間は、極めて曖昧な、いわゆる日本人的な「察する」という習慣によってのみなされており、病的に言語によって現象を把握しようとする氏は、「察する」文化を否定していると思われます(著作を踏まえると)。

だから、「察する」文化であらうがなからうが、公の場で「セックスしたい」なんて口走る奴は、ただの馬鹿です。現代日本人論とは何の關係もありません。現代日本人の特性でも何でもない事に絡んでみせて、現代日本人を批判したやうな氣になつてゐる中島氏も只の馬鹿です。

>最後にもう一度言います。氏は性の解放を助長する言葉など一言も言っておりません。ゆえに「中島は裸で歩け」という結論は誤読に基づく詭弁に過ぎません。

私も性の解放についてなんぞ一言も書いてをりません。現代日本人を論じるのにセックスしたい云々などと書くのは的外れだし、その的外れな理屈を當て嵌めれば、中島氏は裸で歩かざるを得なくなると書いた迄であります。

投稿: 木村貴 | 2004年9月10日 (金) 19時45分

どうも論点がずれてしまっています。何とか論点を絞りたく存じます。

まず中島氏の主張を私は次のように解釈しました。
「マスコミは有名人のセックススキャンダルを暴くのが好きだ。これは大衆が望んでいることでもある。そうであるのに、インタビュー等でセックスに関することを述べるのは禁忌である。これも大衆が臨んでいることだ。有名人に対する大衆の態度は矛盾している。有名人のセックススキャンダルを望んでおきながら、もし有名人が直接にセックスに関することを言ったら驚く、というのもおかしなことだ。」
さて、ここからどのような論理によって「中島は裸で歩け」という結論が導かれるのでしょうか?中島氏はAという個別具体的な日本人特有の現象を批判したいのではなく、むしろ「習慣により隠蔽された矛盾」を指摘しているのであり、この場合、「日本人におけるセックス」が批判対象なのではない、と思います。この場合、セックスを例に出すことは「習慣により隠蔽された矛盾」の具体例としては不適切どころか適切なものです。

木村さんは「大衆がセックススキャンダルを好む」ということを「風呂で裸になりくつろぐ」ということに例えてられてますが、これこそ例えが間違っております。ある個人が風呂で裸になることは基本的に衆目にさらされないことです。温泉や銭湯であっても、基本的には男女別の浴室であり、恥ずかしいところはなるべく隠す、というマナーが存在しています。入浴という行為はなるべく恥ずかしいところを隠す方向にあるのです。一方で、マスコミ(大衆)は積極的に有名人のセックスを暴こうとします。こちらは恥ずかしいところを暴こうとしております。中島氏は、これが「奇妙な同居」であると指摘しているのであり、論理的には相容れないものです。中島氏の論でこの2つの事象を同位に結びつけることは、やはり氏の論をよく理解されておられないからではないか、と思います。中島氏が「セックススキャンダルが大好きだ」と述べていれば、「裸で歩け」と言うことも可能ですが。そんなことは言ってないですよね。

投稿: ハザマ | 2004年9月16日 (木) 08時58分

追加です。
木村さんのおっしゃっていることに直接反論しないと、暗に主張を認めたとも言われかねないので補足です。先に書いた私の反論を踏まえた上で以下書きます。

>それなら、セックスの話は的外れな「例」でしかありませんね。現代日本人がAと云ふ行動を取つてゐる事を批判したいのならば、「現代日本人以外の人間はAと云ふ行動などしない」と云はねばならない。
硬派なサイトをお作りになられる木村さんが、このような物言いをなされるとは意外です。他国における一般論が、日本における特殊性・独自性を批判する根拠となるのであれば、日本の独自のアイデンティティなんて成立できなくなります。日本の習慣Aを批判するのでれば、その習慣Aに矛盾する日本人一般が保持する通念Bあるいは習慣Cを導き出すのが最も効果的です。この場合、木村さんの提示する論法では「日本は特別なんだよ!」という反論に対処できないのですが、私の提示する論法はそれを許しません。中島氏はこのような論理の展開をしています。著書の中でも、中島氏はなるべく海外の例を使って日本を批判することを避けようとはしています。

>だから、「察する」文化であらうがなからうが、公の場で「セックスしたい」なんて口走る奴は、ただの馬鹿です。現代日本人論とは何の關係もありません。現代日本人の特性でも何でもない事に絡んでみせて、現代日本人を批判したやうな氣になつてゐる中島氏も只の馬鹿です。
公の場で「セックスしたい」なんて口走る人間がバカだ、なんてことは中島氏だって認識しています。日本社会においてその発言は馬鹿なものとされると認識しているからこそ、有名人がそのような発言をうまく回避するということを指摘できるのです。また、公の場で「セックスしたい」と言わない日本人を批判することが趣旨の文章ではないことは私の先に示した指摘でおわかりですね?ならば、ここで中島氏が馬鹿であるという指摘は的外れであるということも明らかでしょう。

>私も性の解放についてなんぞ一言も書いてをりません。現代日本人を論じるのにセックスしたい云々などと書くのは的外れだし、その的外れな理屈を當て嵌めれば、中島氏は裸で歩かざるを得なくなると書いた迄であります。
的外れな理屈、とおっしゃいますが、中島氏の論と木村氏の風呂の例えが全く結びつかないことは先に指摘しました。「裸で歩かざるを得なくなる」とおっしゃいますが、
>どうして人間は風呂の中で裸になつて體を伸ばすのが好きなのに、往來では誰も彼もが服を着て歩くのだらうか。中島はきつと疑問に思つてゐるに相違ない。
この論からどうして「裸で歩かざるを得ない」という必然が導かれるのか全く理解できません。万が一、服を着ることを疑問に思っていても(これは本気で考えれば極めて学問的な問いですけれども)、一般通念に照らし合わせて取りあえず服を着る、という選択をするのが社会生活を営むにあたり妥当である、という結論は精神に障害が無い限り誰でも至る結論です。必然というならむしろこちらの結論でしょう。中島氏も裸で歩いていないわけですから。百歩譲って木村さんの論法を取ったとしても、必然として「裸を歩かざるを得ない」などという結論を導くことは出来ません。

>現代日本人を批判したやうな氣になつてゐる中島氏も只の馬鹿です。
と、おっしゃいますが、同じ理屈で「中島氏を批判したやうな氣になつてゐる木村氏も只の馬鹿です」と木村氏の論からは言えそうなのですが、いかがでしょうか?

投稿: ハザマ | 2004年9月16日 (木) 14時23分

單なる茶々ですが。

> 公の場で「セックスしたい」なんて口走る人間がバカだ、なんてことは中島氏だって認識しています。日本社会においてその発言は馬鹿なものとされると認識しているからこそ、有名人がそのような発言をうまく回避するということを指摘できるのです。

「日本社會以外の社會」でも、現代なら大抵は馬鹿にされる文言を口にすることが、どうして「現代日本社會の批判」足り得るのでせうか。そこに論理の飛躍があると、木村氏は反論でさう指摘してゐるだけかと思ひます。

「中島氏の飛躍した論法を是とする」のならば、「同じ論法を用ゐた「中島氏は裸で歩け」といふ結論を、中島氏は受け入れざるを得なくなる」といふ指摘でせう。詭辯を用ゐてゐるのは中島氏の方であつて、木村氏はその論法を使つて皮肉を述べてゐるに過ぎません。

投稿: 江洲 | 2004年9月17日 (金) 01時04分

>まず中島氏の主張を私は次のように解釈しました。
「マスコミは有名人のセックススキャンダルを暴くのが好きだ。これは大衆が望んでいることでもある。そうであるのに、インタビュー等でセックスに関することを述べるのは禁忌である。これも大衆が臨んでいることだ。有名人に対する大衆の態度は矛盾している。有名人のセックススキャンダルを望んでおきながら、もし有名人が直接にセックスに関することを言ったら驚く、というのもおかしなことだ。」

 何處に矛盾があるのでせうか。(1)人間は他人の性生活について知る事を好む(2)人間は自分の性生活について他人に知られる事を好まない――この二つの態度の何處に矛盾があるのでせうか。ハザマさんにはこの一點だけお伺ひしたい。

投稿: 木村貴 | 2004年9月17日 (金) 10時05分

補足。

>有名人のセックススキャンダルを望んでおきながら、もし有名人が直接にセックスに関することを言ったら驚く、というのもおかしなことだ。

 視聽者は「人間は自分の性生活について知られる事を好まない」と云ふ事を常識として知つてゐますから、有名人が眞面目な番組で自分の性生活について突然明け透けに語り始めれば、それあ「驚く」でせう。しかし、一瞬後には喜ぶに違ひない。「人間は他人の性生活について知る事を好む」からです。

 勿論、例へば傍で子供が一緒にテレビを觀てゐたら、「何で眞面目な番組でいきなり妙な事を喋り出すんだ」と憤慨するでせうが、それは「人間は子供の前で性生活について話題にしたがらない」と云ふ別の原則があるからに過ぎません。以上の言動のどこにも矛盾はありません。

投稿: 木村貴 | 2004年9月17日 (金) 10時22分

>何處に矛盾があるのでせうか。(1)人間は他人の性生活について知る事を好む(2)人間は自分の性生活について他人に知られる事を好まない――この二つの態度の何處に矛盾があるのでせうか。ハザマさんにはこの一點だけお伺ひしたい。

このような質問をいただくとは正直がっかりです。このような私人の矛盾に気付かぬほど私は愚かではありません。私が議論で問題にしているのはマスコミの態度です。マスコミが私人と同じく矛盾した態度を取るべきでしょうか?マスコミは公人です。このような硬派なサイトをお作りになられている木村さんは、きっと公私の別を重んじる方のはずです。そのような方が、私人の矛盾の論理を使って自己の論の正当化を図るとは、思想の一貫性が欠如しているように思えてなりません。残念です。公を重んじるのであれば、マスコミの矛盾(それは私人の矛盾に無条件に媚びたため生じたものです)を指摘する中島氏の論に賛同すべきでしょう。

また、私は先に木村さんの論における例示が誤っていると指摘しましたが、それに回答がないということは私の意見が正しかった、と認識していただけたのでしょうか?

投稿: haazma | 2004年9月18日 (土) 00時10分

江洲さん
>「日本社會以外の社會」でも、現代なら大抵は馬鹿にされる文言を口にすることが、どうして「現代日本社會の批判」足り得るのでせうか。そこに論理の飛躍があると、木村氏は反論でさう指摘してゐるだけかと思ひます。

言っていることが無茶苦茶だとお気づきでしょうか。「現代なら大抵は馬鹿にされる文言を口にする」ことなど中島氏は言ってませんよね?しかも誰もそのことを言わない、と中島氏は言っているのですよ?誰も口にしてません。だから「どうして「現代日本社會の批判」足り得るのでせうか。」という疑問の前提が成り立っていません。この質問に私が回答することは不可能です。おわかりでしょうか?

>詭辯を用ゐてゐるのは中島氏の方であつて、木村氏はその論法を使つて皮肉を述べてゐるに過ぎません。
それに論理が誤っているているのは木村氏の方だと論理的に説明しましたが、それには何ら触れられていませんね。私の論が論理的に破綻していることを論証していただかないと、木村氏の論の妥当性は回復されません。あなたの言っていることは、「木村氏の言っていることはとにかく正しい」という風にしか聞こえません。

投稿: hazama | 2004年9月18日 (土) 00時25分

> 言っていることが無茶苦茶だとお気づきでしょうか。「現代なら大抵は馬鹿にされる文言を口にする」ことなど中島氏は言ってませんよね?しかも誰もそのことを言わない、と中島氏は言っているのですよ?誰も口にしてません。だから「どうして「現代日本社會の批判」足り得るのでせうか。」という疑問の前提が成り立っていません。この質問に私が回答することは不可能です。おわかりでしょうか?

どなたかは存じませんがお答へします。ハザマ氏が中島氏の著作から「現代日本人は云々」なる解釋を持ち出してゐるのですが、その文言をとらへて批判することがどうして無茶苦茶になるのか意味不明であります。それに、私は「木村氏の反論」について述べてゐるのですが、どうして中島氏の話になるのでせうか。論理の飛躍が感ぜられますが如何。

> それに論理が誤っているているのは木村氏の方だと論理的に説明しましたが、それには何ら触れられていませんね。私の論が論理的に破綻していることを論証していただかないと、木村氏の論の妥当性は回復されません。あなたの言っていることは、「木村氏の言っていることはとにかく正しい」という風にしか聞こえません。

木村氏が引用してゐる部分の中島氏主張を讀むと、どう讀んでも木村氏の解釋が間違つてゐるやうには思へないのですが。といふか、ハザマ氏がやれ「現代日本人」だ、やれ「マスコミ」だ、やれ「「察する」文化」だと、「無茶苦茶な論證」で難癖つけてゐるだけなのですが。「(中島)氏の論は、正当であるかは別として常に論理としては通っていますよ。」といふハザマ氏の主張のどこに根據がありますか。「常に論理が通る」のならば、一瞥して愚論と思へる文章など書かないと思ひますが。

といふか、ハザマ氏は中島氏の著作を引いて「かう讀むが正しい」と論證すべきなのに、いきなり木村氏の論を「誤讀だ」と決め付けてゐるだけなのですから、どんなに偉さうに書かれてゐても讀むに値しません。私は木村氏とハザマ氏の論を比較して木村氏に理があるから木村氏の論を支持してゐるだけです。「あなたの言っていることは、「木村氏の言っていることはとにかく正しい」という風にしか聞こえません。」などと私が何も考へずに文章を書いてゐるかのやうに書かれるのは大變に不愉快です。

投稿: 江洲 | 2004年9月18日 (土) 02時58分

>このような質問をいただくとは正直がっかりです。このような私人の矛盾に気付かぬほど私は愚かではありません。私が議論で問題にしているのはマスコミの態度です。マスコミが私人と同じく矛盾した態度を取るべきでしょうか?マスコミは公人です。このような硬派なサイトをお作りになられている木村さんは、きっと公私の別を重んじる方のはずです。そのような方が、私人の矛盾の論理を使って自己の論の正当化を図るとは、思想の一貫性が欠如しているように思えてなりません。残念です。公を重んじるのであれば、マスコミの矛盾(それは私人の矛盾に無条件に媚びたため生じたものです)を指摘する中島氏の論に賛同すべきでしょう。

えーと、中島義道氏は私人とマスコミを分けて議論してゐる訣ではなく、どちらも一緒くたに批判してゐるのですが。原文から引用しませうか。

>こうして、テレビに出演している者ばかりではなく、テレビを見ている人々も、つまり九九%のわが国民は――信じがたいことであるが――自分の感受性に反した言葉を使っても苦しまないことが、次第にわかってきた。とすると、私は彼らとは感受性を共有できず、「普通の」世界から遁走するほかないわけである。(中島義道「だから私は『ぐれる』のです」)

 「現代日本人」一般を対象とした議論で分が惡くなると対象をマスコミに限定する論點のずらし。こんな行爲を目の當たりにするとは、「正直がっかりです」。それから、ハザマさんは「このような私人の矛盾」とお書きになつてゐますが、何處が矛盾してゐるのでせうか。正々堂々たるべき議論の場で、しつこく同じ質問を繰り返さねばならないとは、「正直がっかりです」。

>また、私は先に木村さんの論における例示が誤っていると指摘しましたが、それに回答がないということは私の意見が正しかった、と認識していただけたのでしょうか?

 何だか、木村からせめて「技あり」なり「有效」なりを取りたくて堪らないと云つた調子のお尋ねですね。さう云ふ御質問は「この二つの態度の何處に矛盾があるのでせうか」と云ふ私の度重なる質問に答へられてからでも遅くはありますまい。何しろ、この質問にまともに囘答出來なければ「一本」で試合は終りなのですから。お互ひ無駄は止めませう。

投稿: 木村貴 | 2004年9月18日 (土) 03時15分

はて、分が悪いのは木村さんの方であると認識しているのですが。何度でも言わないと分からないのであれば、再び言いましょう。この場合の私人の矛盾とは、性規範におけるダブルスタンダートの存在です。社会規範や社会道義を前提にすれば(こういう概念は木村さんが最も重んじる概念では?)、自他別々に基準を設けることは無節操というのです。矛盾してますよね?
中島氏の場合、公私の別をつけないのは当然です。氏は自らをドン=キホーテと名乗り、とにかく社会に対して個人主義を貫こうとします。『うるさい日本の私』という著作の中で、無責任極まりない消費者に対応するため、サービス提供側が過剰に注意の放送を流すという現状に対して、そんな放送なくともルールを守れる多くの一般人はある種強制的・暴力的な放送に怒りを感じないのか?鈍感極まりない、私はうるさくて癪に触ると述べています。ここでは、公の側が異常なほど私の側に阿り、無責任な社会構造が再生産されているとされています。そのような認識において、公私が別せられる必要は有りません。
公私の別を明確にしたいのは、あなたの方でしょう。身勝手な私人に怒りを感じているのはあなたでしょう。(プロ野球問題の文章が好例)そのあなたが私人の無責任な論理を使って自己を正当化するのに恥を感じないとしたら、堂々の議論を自認するなど笑止の沙汰です。
私は常にあなたのどこが矛盾しているか、どこが論点ずらしかしっかりと述べています。それを明言した上であなたの論の問題点を述べています。これは議論の場で私がロジックを重んじるが故です。あなたは私からの指摘を受け止めず、のらりくらりと論点をずらすだけです。これはあなたが議論の場でレトリックを重んじるが故です。国会の答弁などの議論では、レトリックこそが重要ですが、真の議論の場ではロジックの方が重要であることは明白ですよね?そうではないとおっしゃるなら、あなたはソクラテスやプラトンをいかがお考えか?

>だか、木村からせめて「技あり」なり「有效」なりを取りたくて堪らないと云つた調子のお尋ねですね。さう云ふ御質問は「この二つの態度の何處に矛盾があるのでせうか」と云ふ私の度重なる質問に答へられてからでも遅くはありますまい。何しろ、この質問にまともに囘答出來なければ「一本」で試合は終りなのですから。お互ひ無駄は止めませう
このような破廉恥極まりない言動が、レトリックだと言うのです。「技あり」「有効」を取りたいのは、この場合あなたの方でしょう。私の議論、すなわち木村氏の例えが完全に間違っているという指摘に関して全く正面からの回答がありませんよ?私は、あなたの指摘に常に回答していますが。ご自分でご自分の矛盾を指摘するとは錯乱気味なのでしょうか?

そもそも、小谷野の言葉を称揚する点において、木村さんの不誠実な面が示されています。小谷野が昔書いた『もてない男」という本をご存知でしょうか?これはこれで笑い話として読むならいいかもしれませんが、自分がもてないことを社会・一般大衆のせいにするような男の論を真に受けるとは。きっと、「おぼっちゃまくん」などという愚劣極まりないマンガをかつて描いていた小林よしのりもお好きなことでしょう。旧漢字・旧仮名遣いでノーブルなところをお見せになりたいのでしょうが、その影に馬脚がちらついていると言えます。

投稿: ハザマ | 2004年9月19日 (日) 17時30分

>はて、分が悪いのは木村さんの方であると認識しているのですが。何度でも言わないと分からないのであれば、再び言いましょう。この場合の私人の矛盾とは、性規範におけるダブルスタンダートの存在です。社会規範や社会道義を前提にすれば(こういう概念は木村さんが最も重んじる概念では?)、自他別々に基準を設けることは無節操というのです。矛盾してますよね?

 矛盾してゐません。私は親族に死んで貰ひたくありませんが、見ず知らずの他人が死なうと別に何とも思ひません。これは生命規範における矛盾ですか。まあ矛盾とダブルスタンダードを同義だと思つてゐる粗雜な頭の持主なら肯定しかねませんが。

>中島氏の場合、公私の別をつけないのは当然です。氏は自らをドン=キホーテと名乗り、とにかく社会に対して個人主義を貫こうとします。『うるさい日本の私』という著作の中で、無責任極まりない消費者に対応するため、サービス提供側が過剰に注意の放送を流すという現状に対して、そんな放送なくともルールを守れる多くの一般人はある種強制的・暴力的な放送に怒りを感じないのか?鈍感極まりない、私はうるさくて癪に触ると述べています。ここでは、公の側が異常なほど私の側に阿り、無責任な社会構造が再生産されているとされています。そのような認識において、公私が別せられる必要は有りません。
>公私の別を明確にしたいのは、あなたの方でしょう。身勝手な私人に怒りを感じているのはあなたでしょう。(プロ野球問題の文章が好例)そのあなたが私人の無責任な論理を使って自己を正当化するのに恥を感じないとしたら、堂々の議論を自認するなど笑止の沙汰です。

 マスコミが一方で性道徳の頽廃を嘆いてみせ、一方でセックススキャンダル滿載の番組を流してゐると云ふ話なら、その矛盾を批判出來るでせう。しかし、中島義道氏が書いた話はそんな事ではない。もう一度引用しませうか。

>それにしてもおもしろいのは、テレビ出演者は、これほど性的ゴシップが好きなのに、誰も彼もが「まじめな」インタヴューでは、慎重に性的発言を避けることである。オリンピックで金メダルを取ったりノーベル賞授賞式から帰国した英雄たちに「お疲れでしょうが、いま何をしたいですか?」という質問が必ず出るが、誰も「無性にセックスしたいです」とは答えない。

 これはマスコミ自身の言動に關する文章ではありません。「有名人」とは云へ、マスコミとは一線を畫した運動撰手やノーベル賞受賞者の言動に關する文章です。取材を受けた人間が性生活について語らなかつたと云つて、それがマスコミの日頃の好色な番組作りと矛盾した事にはなりません。別の角度から云ひませう。中島氏は「誰も彼もが」「性的發言を避ける」と大仰に書いてゐますが、「まじめな」インタヴューであつても、マスコミと事實上一体化したタレントならば、「無性にセックスしたいです」くらゐは答へてみせる事でせう(テレビをよく知らない中島氏はさぞ「驚く」でせうが)。その意味で、マスコミは矛盾などしてゐません。要するに中島氏の文章は、哲學者とは信じ難いほど杜撰なのです。

>私は常にあなたのどこが矛盾しているか、どこが論点ずらしかしっかりと述べています。それを明言した上であなたの論の問題点を述べています。これは議論の場で私がロジックを重んじるが故です。あなたは私からの指摘を受け止めず、のらりくらりと論点をずらすだけです。これはあなたが議論の場でレトリックを重んじるが故です。国会の答弁などの議論では、レトリックこそが重要ですが、真の議論の場ではロジックの方が重要であることは明白ですよね?そうではないとおっしゃるなら、あなたはソクラテスやプラトンをいかがお考えか?

 ロジックを重んじるなら、せめて矛盾の意味くらゐ明確にして貰ひたいものです。それからロジックとレトリックは排他的關係にはありません。ロジックを效果的に傳へる爲にレトリックが必要なのです。プラトンをお讀みなら御存知の筈です。

>>何だか、木村からせめて「技あり」なり「有效」なりを取りたくて堪らないと云つた調子のお尋ねですね。さう云ふ御質問は「この二つの態度の何處に矛盾があるのでせうか」と云ふ私の度重なる質問に答へられてからでも遅くはありますまい。何しろ、この質問にまともに囘答出來なければ「一本」で試合は終りなのですから。お互ひ無駄は止めませう。
>このような破廉恥極まりない言動が、レトリックだと言うのです。「技あり」「有効」を取りたいのは、この場合あなたの方でしょう。私の議論、すなわち木村氏の例えが完全に間違っているという指摘に関して全く正面からの回答がありませんよ?私は、あなたの指摘に常に回答していますが。ご自分でご自分の矛盾を指摘するとは錯乱気味なのでしょうか?

 えーとですね、今囘の議論で中島義道が裸で歩くべきかどうかと云ふ「論點」は、彼の文章が支離滅裂かどうかと云ふ事の決着がつけば、自動的に消滅すると云ふ事がお分かりになりませんか。要するに論ずる必要は無いのです。それともハザマさんは「中島氏が支離滅裂な事を云つたとしても、パンツくらゐは穿かせてやるべきだ」とでも仰りたいのでせうか。本論と枝葉の議論の區別がつかないやうな馬鹿と話は出來ません。

>そもそも、小谷野の言葉を称揚する点において、木村さんの不誠実な面が示されています。小谷野が昔書いた『もてない男」という本をご存知でしょうか?これはこれで笑い話として読むならいいかもしれませんが、自分がもてないことを社会・一般大衆のせいにするような男の論を真に受けるとは。きっと、「おぼっちゃまくん」などという愚劣極まりないマンガをかつて描いていた小林よしのりもお好きなことでしょう。旧漢字・旧仮名遣いでノーブルなところをお見せになりたいのでしょうが、その影に馬脚がちらついていると言えます。

 ある人物が下らぬ本を書いたからと云つて、云つてゐる事が全て的外れだとは限りません。ところで中島義道は木村と「同じ穴の狢」の僞善者の筈なのに、どうしてハザマさんは中島の文章を「稱揚」なさるのでせう。きつと、ここにハザマさんの「不誠実な面が示されて」ゐるのでせう。笑ひ。

投稿: 木村貴 | 2004年9月21日 (火) 03時19分

21世紀に生きてるのに分かりづらい文体使うんじゃねーよ

投稿: hihi | 2008年3月 6日 (木) 00時42分

日本人の品格が問はれてゐる時代に下品な言葉遣ひをするんぢやねーよ。

投稿: 木村貴 | 2008年3月 6日 (木) 02時50分

MESSAGE

投稿: ISHMAel back | 2008年3月22日 (土) 22時26分

まぁ、とにかくまずは現代語で書いてくれ

投稿: かい | 2009年4月 8日 (水) 09時53分

木村氏の完全な負け。
ただハザマ氏の最初の反駁が甘かった。
木村氏の理解力の低さと無駄なプライドの高さを考えると、もっと徹底的に潰すべきであった。
結果論だが。

投稿: 手島 | 2009年8月22日 (土) 13時24分

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