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2004年5月 1日 (土)

はじめまして&西部邁の惡文

はじめまして&西部邁の惡文 投稿者:木村貴  投稿日:11月29日(月)

はじめまして、木村と申します。35歳、男です。半年ほど前からインターネットを使い始めた初心者で、不慣れな點も多いかと思ひますが宜しくお願ひします。

さて、以前、野崎さん(申し譯ありません。お名前の正しい字が出ません)が西部邁の文章を槍玉にあげてゐましたが、同感です。「保守主義」を標榜しながら占領表記を使ふ矛盾の他に、例へば「發言者」12月號の卷頭論文。「辯護士や文筆家を中心とする當時の知識人たちのグリーヴァンス(不平不滿)…」「ほとんどあらゆる知識の大前提をなすタシット・ナレッジ(暗默の知識)…」「…一切の權力にリヴォルト(反感および反抗)を呼びかける…」等、何でいちいちカタカナ英語で書かなければならないか理解に苦しむ。わざわざ括弧で日本語譯を入れるなら最初から日本語で書けばよからう。英語を引用せねば文意が通らぬなら、いつそ原語で書いてくれたはうが辭書を引くにも便利だ。

志村史夫氏は『理科系の英語』(丸善ライブラリー)で西部と石原愼太郎の文章を引き、「私は、このやうな文章を見ると、『下線を施したカタカナ英語を正しい綴りで書け』といふやうな問題を作りたくなる」と皮肉つてゐる。「インディヴィデュアリズムつまり個體主義」(西部)だの、「日本とアメリカのフリクション、摩擦のベースには、レイシャル・プレジュディスが頑として存在してゐる」(石原)だのといつた文章を綴る人間が、現代日本の代表的な「保守派知識人」「保守政治家」であるとは、實に奇怪千萬。

★記念すべき初のウェブ掲示板書込み。

西部邁、続き 投稿者:木村貴  投稿日:11月29日(月)

數年前、圖書館でミニコミ誌「月曜評論」のバックナンバーを讀んでゐたら、松原正先生と西部邁の對談記事があつた。松原先生は「私は以前あなた(西部)を批判したが、あなたが田中角榮擁護論を書いてゐるのを讀み、話してみたくなつた」といふ主旨のことを言つてをられたと記憶する。私もかつては、衆愚政治を批判し、經濟規制の無原則な緩和に異を唱へる西部を偉いと思つてゐた。今も部分的には評價してゐる。だが、彼には思想家として決定的な何かが缺けてゐる。


(無題) 投稿者:木村貴  投稿日:11月30日(火)

羽織さん、野嵜さん、温かい歡迎の言葉をありがたうございます。今後ともよろしくお願いします。羽織さんがご教示くださつた「寶島30」の西部さんの記事は讀んでゐません。なるほどカタカナ英語も彼なりの考へがあつてやつていることなのでせうが、そのために文章が明晰を缺いては、結局何の爲の言論だか判らなくなる。「彼は言論人として決定的に重要な明晰を缺いてゐる」と書くべきだつたかもしれません。

ついでに西部さんの文章に對する不滿をもう一つ。彼は自分が批判する相手の名前をほとんど明記しない。「對米屬國意識に染まつた日本のエコノミストたち」だの、「官主導を蛇蝎のやうに忌み嫌つてゐるはずの日本のインテリたち」だのといつた表現ばかりだ。經濟論壇にある程度詳しい人ならある程度見當はつくが、これは言論人として正々堂々たる態度とは言へない。匿名にするのは武士の情のやうに見えても、その實、反論を豫め封じる逃げではないか。いつだつたか、朝日新聞が社説で藤岡信勝を暗に指しつつ、「從軍慰安婦はゐなかつたと主張する知識人がゐる」と事實に反することを書いて、藤岡を惡玉に仕立て上げようとしてゐたのを思ひ出します。名指ししなければ、少々大袈裟なことを書いても文句の出る心配はない。西部さんは朝日と同じ事をやつてゐる。

松原先生は、福田恒存さんが猪木武徳を匿名で批判した時、師匠の福田さんを難詰されたさうですね。人を斬る以上、相手が自分を斬る機會も平等に與へる。西部さんに限らず、さう言ふ「ゲームのルール」を守らない言論人は今の日本に多いのでせうけれども。

猪木正道 投稿者:木村貴  投稿日:11月30日(火)

「福田恆存さんが猪木武徳を匿名で批判した」と書いたのは、「猪木正道」の誤りでした。猪木武徳さんは別人の經濟學者です。御免なさい。

保守と言葉 投稿者:木村貴  投稿日:12月03日(金)

羽織さん、ROMさんは「西部氏の言葉遣ひを論ふのでなく、思想の中身を見よ」 といふご意見だと私は理解しました。しかし、西部さんが「自分は保守だ」と主張する限り、言葉遣ひは決して些末な問題では有り得ません。むしろ本質です。

保守とは、我々の、我々だけのかけがへのない文化を守ることであり、言葉は文化の根底をなすものだからです。西部さんは「日本の傳統を守るべし」と言ふ。その「傳統」に國語は含まれないのか。やむを得ない事情のため正統表記で書けない場合もある。それは仕方がない。しかし西部さんはさうでない。野嵜さんが指摘する通り、何やら言ひ譯にならぬ言ひ譯をして逃げてゐる。思想家として最も肝心な點から目を背けてゐるといふ事ではないか。

カタカナ英語にしても又然り。過剰なカタカナの羅列は、國語を美しくも合理的にもしない。繰り返しになりますが、西部さんは何を保守しようといふのでせうか。その何かに比べれば、國語表記なんぞは「不要不急の閑問題」で、大事の前の小事、後囘しにしても差し支へないと考へているのでせうか。

著作と文體 投稿者:木村貴  投稿日:12月03日(金)

ショウペンハウエルの「著作と文體」といふ文章の一部です。

「今述べたやうな無謀なやり方で、二つの重要な時稱を根絶すれば、およそ國語と いふものは最低の野蠻語になりさがる。だからドイツの著作家向きの初級国語學校を 建て、未完了過去、完了、過去完了の相違、次に所有格と奪格の相違をも習得させる ことが必要であらう。(中略)たとへば"Leibnitzens Leben"〔ライプニッツの生涯〕、"Andreas Hofers Tod"〔アンドレアス・ホーファーの死〕と書かなければならない のに"Das Leben von Leibnitz","Der Tod von Hofer"と書くのである。他の國語では、このやうな文法的誤りが歡迎されるはずはない」(斎藤忍隨譯、岩波文庫『読書について 他二篇』)

隨分細かいことを言ふ、と思ひますか。こんな調子でまだ延々と「言語上の破廉恥行為」の實例をあげ、攻撃していきます。ドイツ語はよく分かりませんが、私はショウペンハウエルの自國語を大切にする姿勢を立派だと思ふ。彼は自分の思想の中に、國語とは何であるかをしつかりと位置づけてゐる。私はさういふ人の言ふことを信用する。文章の最後でこんな事も言つてゐます。まるで現代の日本人に言つてゐるやうです。「我がドイツ人は温順である。ドイツ人には怒りがない。鳩のやうである。しかし怒りを缺く者は知性を缺く」(同上)

(「言葉 言葉 言葉 掲示板」(平成11年)より)

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