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2004年4月30日 (金)

汝の「常識」を疑へ

前口上

以下は、電子掲示板「アレクセイの花園」における「『正字正假名』論爭」の延長であり、ホランドこと碧川蘭氏による私(木村)への批判に對する反論として書かれる文章である。碧川氏は言ふ。

一般的に「現實社會」で適用される「決まり事」や「義務」といふものは、所詮「人爲」的なものであり「絶體原理(神的原理)」ではありえないから、「例外」の存在は「自明の前提」なのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

その通りである。そこまで解つてゐながら、なにゆゑ碧川氏が「新字新假名の文章を引用時に正字正假名に變更する事」をあつさり非常識と決めつけ得るのか、理解に苦しむ。表記變更は、「引用文を勝手に改變してはならない」と云ふ「決まり事」「義務」の「例外」である。從つて、決して非常識な行爲ではない。これから、そのゆゑんを説くとしよう。

表記變更は非常識か

作家・大西巨人氏の愛讀者には、以下のやうな「斷り書き」はお馴染の筈である。

なお、引用に際して、私は、原典のかな遣いに従ったが、原典が旧かな遣いの場合にも、促音ならびに拗音に関する「字を小さくする書き表わし方」は、これを(従来の我流どおりに)採用した(漢字は、総じて新字体)。(光文社文庫『春秋の花』 「はしがき」)

大西氏はこの「我流」に從ひ、例へば、森鴎外の短篇小説『心中』原文の「方角がしつかり分からなかつたと云ふのが不思議ぢやありませんか」と云ふ箇所を、「方角がしかり分からなかたと云ふのが不思議ぢありませんか」と改變してゐる。大西氏は、『大西巨人文選』第二卷の「卷末對話」において、「促音、拗音は小さく表記するはうが合理的なやうな、讀みやすいやうな」(原文は新字新假名)とその理由を述べてゐる。

この方針が果して適切かどうかは、意見の分かれるところであらう。例へば、大西氏自身も認める通り、詩歌にもこの原則を適用すると、美觀上、かなり違和感がある。かと言つて、「散文は小さい字、詩歌は大きい字」と使ひ分けるのも統一感を缺く。また、私自身は、促音・拗音の大きい字を含む文章が讀みにくいとは別段感じない。從つて私は大西氏の「我流」に追隨はしないが、一つの見識であるとは思ふ。兎も角も私は、大西氏による原文改變を、表現の自由の正當な行使と認める。


「趣味的」大いに結構

私が新字新假名で書かれた文章を引用する時、正字正假名に改める理由も、大西氏とほぼ同じである。具體的論證は弊サイトの「ブルクハルトと鷗外の言葉」「なぜ書くか、『古い』表記で」等を御參照願ひたいが、日本語の文章は、正字正假名で表記する方が「合理的」であり、「讀みやすい」。合理的なものには屡々美が具はるから、「美しい」と云ふのも理由の一つに擧げて良からう。また、私には、引用部を含む文章全體を統一した國語論理體系で表記したいと云ふ思ひもある。

碧川氏に言はせれば、私が以上擧げたやうな理由は、「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」と云ふ事にならう。假にさうだとしても、私は、私自身による表記改變を、大西氏による表記改變と同等に、表現の自由の正當な行使と考へる。「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」で「讀みにくい」結果を招いたり、その他の害惡を社會に及ぼしたりするとは、到底斷定出來ないからである。新字新假名に直す場合の方が、「讀みやすい」と感ずる人の數は多いだらう。しかし、言ふ迄もなく、表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無いのである。

「引用時の表記變更」を實踐する(實踐した)プロの言論人は、大西巨人氏に限らない。小林秀雄、福田恆存、松原正、小西甚一、唐木順三、葦津珍彦と云つた人々を、差し當たり私は擧げる事が出來る。このうち一部の人については、具體例を解説した文章(「表記變更は公正な慣行である」)を書いた事があるので、參照されたい。以上擧げた人々は、碧川氏の言ふ「誰しも常識として知つてゐること」を知らない愚者ではないし、「當り前の禮儀」を辨へない馬鹿でもないと私は信ずる。

のみならず、これらの人々による表記變更は、獨自の信念・配慮に基く改變を引用文に施す事により、我國の言論を眞に豐かで自由なものにしてゐると積極的に評價する。彼ら(そして私)の表記變更は、假に「趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)」代物であるとしても、それと同時に、「普遍性」を持つと確信する。趣味・主觀と普遍性とは必ずしも排他的なものではない。

「意味」と「姿」を峻別せよ

私がなにゆゑ、上に擧げた言論人の表記變更を正當と考へるか。彼らの表記變更の内容は樣々であるし、その動機・目的は必ずしも全て明らかではない。だが共通して言へるのは、表記變更により、いささかも引用元の文章の論旨を曲げてゐないと云ふ事である。

碧川氏は、「文意」の通常の意味に「姿(みてくれ)」と云ふ要素を加へ、この廣義の「文意」の尊重が重要だと説く。しかし、引用時の「改變して構はないもの、改變してならないもの」を分析的に論ずるには、「意味」と「姿」は出來る限り峻別して考へるべきである。

私は、「姿」そのものを論ずる文章でない限り、狹義の「文意」(意味)さへ曲げてゐなければ、少なくも必要最低限には原著者を尊重したと言つて差し支へないと考へる。そして、「姿」の部分は、引用者の責任において、讀者への配慮のために變更を加へて構はないと考へる。なぜなら、引用文は飽く迄も「從」であり、それを論ずる引用者自身の文章が「主」であるからである。引用文の何を改變し、何をそのまま殘すかは、引用者が文章の目的に應じて判斷して構はないし、判斷すべきである。「文章を書く」とは、そのやうな取捨選擇の決斷を含む綜合的行爲なのである。

飜譯からの類推

例へば、主となる文章が英語ならば、從である引用文はそれに合はせて英語に變へるのが自然だし、正當でもある。つまり、飜譯である。著作權法第32條は、他人の著作物からの引用が承諾なしに行へる旨などを定めてゐるが、文化廳の『著作權法入門』(著作權情報センター發行)によると、引用と同樣の目的で、「飜譯も出來る」(同書40頁)。「姿」の歪みは勿論の事、「意味」の歪みもなかなか避け得ない外國語への飜譯ですら、原著者の承諾なしに行へるのだから、「姿」の歪みが遙かに小さく、「意味」の歪みは皆無な正字正假名への變更は、法的に當然認められると考へるのが至當である。

碧川氏は、「法は最低限の取り極めに過ぎない。たとへ法が認めても、趣味的・主觀的な國語表記の改變は、原著者に失禮だからやるべきでない」と仰るかもしれない。だがそれなら、「飜譯を伴う趣味的・主觀的な引用」も許されない事になる。或る日本人が趣味で日本語の小説の一部を英語に飜譯し、英語で批評を書き、公開する事は許されない惡行なのか。私はさうは思はない。

禮儀は大事である。しかし私は、「禮儀」を過度に重んじた結果、自由で豐かな言論活動を排除するやうな社會を招く事は望ましくないと考へる。從つて、たとへ「禮儀」に外れようと、「飜譯を伴う趣味的・主觀的引用」「國語表記變更を伴う趣味的・主觀的引用」の雙方を擁護する。そして幸ひな事に、既に見たごとく、我國の現在の法制度はそれらに對する強い後盾となつてゐるのである。

表記變更する時・しない時

ところで、私は、大西巨人氏の「斷り書き」を、原文の新字新假名のままで引用した(漢字はPC環境によつては一部正字にしか見えないかもしれないが、技術上の問題ゆゑ御寛恕を乞ふ)。大西氏に對する「失禮」を恐れたからではない。國語表記そのものを主題とした文章の場合、表記を變更すれば、讀者を混亂させる事があるからである。

例へば、「漢字は、総じて新字体」を「漢字は、總じて新字體」と直せば、讀者は「おやおや、引用文は新字體と言ふが、大西氏自身は舊字體で書くのかしらん。何だか矛盾してゐる」と奇妙に思ふであらう。このやうな文章の場合、表記變更はやるべきでない。

逆に言へば、混亂を招く恐れがなければ、引用者の責任において、合理性や讀みやすさを目的に表記を變更して構はない。私は、大西氏の對談發言を正字正假名に直して引用した。國語表記に關する内容ではあるが、引用部分に拗音・促音が存在しない爲、讀者に「矛盾してゐる」と感じさせる恐れが小さいからである。それでも誤解する人が皆無ではないだらうから、念の爲、「(原文は新字新假名)」と註を加へたのである。但し、今囘は説明しやすいやうに敢へて改變したが、通常は、同じ文章中に同一筆者の文を複數引用する場合は、表記は統一すべきであらう。

不要な註は不要

序でだから、「(原文は新字新假名)」と云つた類の註記の要不要について少しく詳しく述べる。要するに、書かなくとも誤解を招く恐れがなければ、わざわざ書く必要はない。私が註記拔きで中井英夫氏の文章を正字正假名で引用(正確にはうろ覺えによる再現)した事を、碧川氏はかう批判した。

最低限『「原文は略字新假名」と註記』が必要だといふことがわからないといふ段階で、既に充分「非常識」でせう。それに事實、それはなされてゐなかつたのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

中井英夫氏が新字新假名で執筆すると云ふ事實は、表記變更を指摘した碧川氏自身は勿論の事、議論の當面の參加者で、中井ファンであるアレクセイこと田中幸一氏も、讀書經驗の豐富な樂古堂主人こと大内史夫氏も、百も承知の筈である。さう云ふ意味(中井氏が新字新假名派である事)も込めて、私は最初に「皆さんの方がお詳しい中井英夫氏」と書いたのである。そこまでの含意は傳はらなくとも仕方ないが、いづれにせよ、中井本に詳しい讀者を相手に、「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要なんぞ全く無い。註は原著者への義理立ての爲に書くものではない。讀者の爲に書くものなのだ。

一般讀者の中には、私の引用を見て「中井英夫と云ふ人は正字正假名で書くのか」と誤解した人もあるかもしれぬ。しかし、それは原文に當たればすぐ判る事である。もしその人が誤解したまま議論に加はつて來たら、その時點で私が説明すれば濟む。原文を確かめもせず、どこかで誰かに「中井英夫は正字正假名派」と知つたかぶりして恥をかいたら? そこまで面倒は見切れない。

言論公開者の覺悟

また御覽のやうに、私は碧川氏の文章を、「原文は新字新假名」と云つた註を附けずに正字正假名に直して引用してゐる。碧川氏が新字新假名で書く事は、論爭の舞臺である掲示板「アレクセイの花園」を見れば一目瞭然だし、内容的にも混亂を招く恐れはないからである。碧川氏はさぞ氣分を害されてゐる事であらう。だが私は、批判された腹いせに嫌がらせをしてゐる譯ではない。誰の文章であらうと、同じやうに改變するのである。

筋論を言へば、碧川氏は、私による表記變更に文句を附ける事は出來ない。既に述べた如く、引用時の表記變更は合法的な行爲なのである。法治國家において、合法的な行爲を許さない資格は誰にも無い。法治國家で言論を公にする人間たるもの、たとへ表記變更が不本意でも、「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が必要なのである。

私自身、すでに「原典尊重とは何か(1)」で書いたやうに、その覺悟は當然ある。これは碧川氏が言ふやうな「物分かりの良い態度」なんぞではなく、「返したくなくとも、借りた金は返す」と云ふのと同じ、法治國家の國民として當り前の意思表明なのである。

合法的な表記變更を「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が無い人間は、法治國家において言論を公にする資格が無い。公開された著作物は原著者のものであると同時に、公共の財産でもある。碧川氏や泉下の中井英夫氏やがいかに「憤り・無念」を感じようと、「表記變更は許さぬ」と口にしたら最後、言論公開者として失格なのである。

感情問題

「さうは言つても、嫌がる人の文章をわざわざ變へて、嫌はれたらどうする」と仰る方もあるだらう。私も、相手と仲良くしたい場合、その點だけは困る。困るけれども、表記變更を自分の方針として公言した以上、こればかりは仕方がない。

私は「電子掲示板など自分にとつて氣輕な場所では、それほど改まつた文章を書く必要はない」と考へるから、掲示板での引用は新字新假名の文章をそのまま複寫する事が多い。これなら、相手との軋轢は取敢へず表面化しなくて濟む。

しかし、そのやうな誤魔化しは遲かれ早かれ、この「汝の『常識』を疑へ」のやうな改まつた文章を書く時に馬脚を現すだらうし、仲の良い人の文章だけを「贔屓」して新字新假名のまま引用してゐる事が讀者に知れ渡つたら、私の言論人生命は終りである。表記變更しても相手から嫌はれないやうにする爲には、日頃から信頼關係を築くしかない。それでも嫌はれるなら、諦めるしかない。

私の過誤

ところで、「アレクセイの花園」における私の態度は、折角温く迎へてくれた人々と信頼關係を築くうへで、至らない點があつた。以下、その點を説明し、陳謝しなければならない。私は、かう書いた。

無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。(「瓦礫の家(2)」)

補足・訂正をずるずると後囘しにしたまま、ここまで來てしまつたが、これは大變亂暴な文章であつた。ガラクタ云々で私が眞に言ひたかつたのは、「もし或る人間が、新字新假名が望ましくない表記だと理性的に納得したなら、『こんな表記で書くのは嫌だ。なぜかうなつたのだ』と、戰後の國語改革に對し腹を立てるのが自然である」と云ふ事であつた。しかし、こんな文章ではさうした意圖はさつぱり傳はらない。

もつと正直に言へば、粗雜な文章をうつかり書いて仕舞ふのは、私自身の中に、「俺は正しいのだから少々亂暴な事を言つても良い」と云ふ驕りや、「この場所なら多少破目を外しても大目に見て貰へるだらう」と云ふ甘えがあるからに違ひない。恥づかしい事である。こんな事を口走るやうでは、「引用時の表記變更は正當」と聲を大にして主張しても、すんなり受容れて貰へる道理がないし、碧川氏から「『わが佛(「正字正かな」だけ)は尊し』といふ類ひの『情』に囚はれ」てゐると批判されても仕方がない。粗暴な發言で氣分を害された方々には、重ねてお詫び申上げます。

例外は例外的に認める

大内氏の「文庫の『略字新假名遣い』化には、反對されないと思ひますが、いかがでせうか」と云ふ御質問に對し、私は以下のやうに答へた。

文庫本の「略字新假名遣」化については、やはり「反對」と言はざるを得ません。第一に、全集は經濟的・物理的(場所塞ぎになる)な理由で一般人が購入するのに必ずしも向かないから。第二に、年少者であつても、振り假名や「慣れ」によつて、正字正假名は意外に簡單に讀めるからです。これは樂古堂さん御自身の經驗からもお判りでせう。(「>樂古堂樣」)

この私の囘答を指して、碧川氏は「例外を認めない・原理主義」と批判した。そんな事はない。例へば、中學生向けの現代國文法の教材として鴎外の作品をどうしても使ひたいなら(そもそもそんな目的ならば、鴎外なんぞより最初から新字新假名の文章を使へば宜しいのであるが、それはまあ措くとして)、正字正假名のまま教へても混亂するばかりで本來の目的を達せられないだらうから、現代日本で支配的な新字新假名に變へなければならないだらう。

しかし、大内氏は「現代國文法の教材」などではなく、「文庫」と仰つたのである。文庫本をそのまま教材に使ふ人もなくはないだらうけれども、一般的には、作品そのものを味はふのが文庫本の最大の役割であらう。子供も讀むが、大人だつてそれ以上に讀む。鴎外の作品を原典で樂しみたいが、全集を買ふ經濟的・物理的餘裕のない大人も讀む。全集はすぐ品切になる。古本屋にあるとは限らない。古本屋が近くにない人だつてゐる。

「新字新假名に慣れた現代人に、正字正假名は無理」と思ふ人がゐたら、それは取越苦勞である。實のところ、明治以降の口語文なら、正假名と新假名の文章にさほど大きな違ひはない。漢字も類推で判るものが殆どである。振假名を附ければ、さらに讀みやすくなる。ならば、古典は文庫本でも、いやいや、國民が入手しやすい文庫本だからこそ、表記を變へず、原文の味はひを殘す方が良いではないか。しかも、現代においては新字新假名の文庫本は溢れかへつてゐるが、正字正假名の文庫本は(岩波の僅かなリクエスト復刊本等を除けば)皆無に等しいのである。

私は、「原理主義」から文庫本の表記改變に闇雲に反對したのではない。以上のやうに現實の諸條件を勘案し、理性的に「反對」と結論したに過ぎない。條件次第では「例外」を認める。但し、私は、大原則として正字正假名は新字新假名よりも勝れると考へるのだから、結果として正字正假名を選擇する場面が多くなるのは當然である。

私は、正字正假名と新字新假名との間で搖れ動きつつ眞實を撰びかねてゐる者ではない。すでに正字正假名を「眞實」として撰びとつた人間なのである。しかし、狂信的に固執してゐる譯ではない。萬が一、誰かが「正字正假名は間違つた國語表記である」と私に悟らせてくれる日が來たなら、喜んで眞理に從はう。

「無念」に想ひを巡らす

そろそろお終ひにしたいが、ここで、碧川氏の文章をもう一度引く。

ボクたちは誰しも「自分の作品が、他者に無斷で改竄された場合の、憤り・無念さ」などを想像して(つまり、相手の立場に立つ・他者を思ひやる、ことによつて)「出來うる限り、原作者の意志を尊重しようと努力すべき」だと「主體的・倫理的」に考へるべきなのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

既に述べたやうに、「憤り・無念」は全てを正當化する譯ではない。しかし、碧川氏の上記文章は、大筋では正論であるし、筆者の誠實を示すものである。ところで、私は「無念」と云ふ言葉からこんな事を考へた。

福田恆存氏が『私の國語教室』で縷々説いたやうに、戰後の國語改革は日本語を歪めて仕舞つたと私は信ずるが、今に至るも改善の兆しが全く見えない事に對し、福田氏は草葉の蔭でさぞや「無念」に思つてゐる事であらう。福田氏に限らぬ。「假名遣意見」を著した森鴎外も、言葉にうるさかつた幸田露伴も芥川龍之介も、苦勞の末に歴史的假名遣を確立した契冲も、本居宣長も國語學者の時枝誠記も、そして合理的で美しい國語を愛した多くの亡き人々も、その「無念」は想像に難くない。

私は、死者の「無念」こそ、深く「思ひやる」事が大切だと思ふ。G・K・チェスタトンは「死者にも投票權を與へよ」と述べたが、あらゆる弱者の中でも、死者は顧みられる事の最も少ない弱者だからである。いやしくも國語に關心を寄せる方々は、どこかで立ち止まつて、死者の「無念」に想ひを巡らせて貰ひたい。

勿論、これは「考へるのが當然」と云ふ押附けではないし、もし「戰後國語改革は惡」と云ふ結論に達したとしても、だから直ちに正字正假名で書けと云ふ事にもならない。「正字正假名は規範としては正しいが、自分は新字新假名が好きだから新字新假名で書く」と云ふ選擇だつて有り得るのである。「正字正假名を普及させたい」などと書いたから誤解されても仕方ないのだが、私は、個人がプライヴェートに書く文章において新字新假名を選擇するのは全く構はないと考へてゐる。私は、いやしくも一國の政府が、「現代仮名遣い」だの「常用漢字表」だの、非論理的な代物を國民の手本として掲げるのはをかしいと主張してゐるのである。

放言主義者かく語りき

最後に、「少數者のヒロイズム(選民意識)」と云ふ御批判に對して一言。たしかに私は、よく亂暴な放言をやらかす。碧川氏がお讀みになつた「反時代的言論」もその一つである。しかし私は、自分の掲示板では、時々は一方的な放言をやらかしても構はないと考へてゐる。亂暴な内容を補ふ發言が、過去ログやサイト本體の中に存在するからである。

例へば、民主主義については、こんな事を書いた事がある。

クリスト教の神は人間を超えた存在だから、近代になつて人間同士の平等と云ふ概念が廣がつても、宗教の思想的基盤は搖がない。と云ふよりも、「神の下に人間は皆平等」と云ふクリスト教の教義そのものが、民主主義の思想を生み出したのである。ところが、日本の天皇は飽く迄も人間、「人の上の人」に過ぎないから、平等思想が入つて來ると非常に困つた事になる。かと云つて、今更、平等思想を日本から追出さうとしても無理である。……困つた困つた。

いつか野嵜さんが書いていらつしやつたやうに、「天皇の下の平等」と云ふ形で西洋思想との折合ひをつけてゆくしかないのでせう。これまた難事だとは思ひますが。(「平等思想と天皇」平成13年5月1日 「地獄の箴言 掲示板」より)

平和主義については、こんな事を書いた事がある。

松原正氏が説くやうに、人間は正義を氣に掛けずにゐられない存在であり、それゆゑ戰爭は無くならない。人間が道徳的である爲には、戰爭は「最後の理性」として積極的に必要だとも思ふ。ゆゑに私は戰爭肯定論者である。しかし戰爭肯定論者は、ハティのやうに戰爭で息子を失ひ悲しむ母親の存在を忘れてはならぬと思ふ。無論、母親が我が子を愛するがゆゑに戰爭を望む場合も有るのであり、母性を反戰思想の道具に使ふのは僞善である。だが戰爭肯定論が戰爭否定論に比べ遙かに増しだとしても、夏目漱石が書いたやうに「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない」以上、そこから零れ落ちるものは有る筈なのである。(「トムは眞夜中の庭で」平成12年6月18日)

アレクセイの花園」でさんざん亂暴な發言をした私だから、碧川氏から「ヒロイズム」と決めつけられても「身から出た錆」ではある。けれども、一つの放言だけを材料に論評されたのは、ちと「無念」である。

(平成13年8月4日)

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