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2004年4月30日 (金)

強者は辯明せず――「南京虐殺」問題

題名: 強者は辯明せず~南京虐殺論議に思ふ~


日時: 00/05/23 TO : dennohshotohki@egroups.co.jp

こんにちは、木村です。


「動向」今年五月號掲載の中村粲教授「屈辱外交からの脱出(下)」より。



私はあつたことはあつたとして認めるべきだと思ふのです。それは實は日本だけでなく、どこでもあるんです。捕虜の不法處斷といふことは、どこでもやつてゐるのですから、日本人もそれはあつたと認めていいと思ふのです。私はそのことは中國大使館に行つたときに言つたのです。私は特に捕虜の不法殺害とか虐殺はあつたと思ふ。しかしながら、無かつたことは無かつたと言ふほかはない。私はさういふ立場なのだといふことを向うにも言つたのです。


(中略)だから我々が否定すべきなのは、日本軍が計畫的、また組織的に住民三十萬人以上を殺した、中には百萬といふ數まで今、出てゐるのです。アイリス・チャンの本では七十萬、六十萬も出てゐる。これをはつきり否定することが、我々の立場として一番説得力があると思ふのです。そして
あつたことはあつたと、捕虜の不法殺害、虐殺、それからその中に兵隊と誤認された市民が入つてゐた可能性もあるわけです。


(中略)南京事件といふものは、さういふ風にして區別して考へると、相手を説得出來るんぢやないかと思ふのです。全てをなかつたと言つてしまふと、これは無理だと思ふのです。確かにあつた。見た日本人もゐるのですから。



「南京虐殺」は史實を離れて政治的に利用されてゐるのであり、外國がさういふ便利な武器を手放す筈はありません。しかも支那は全體主義の國です。中村教授がどんなに頑張つても、「相手を説得」する事は不可能であります。眞劍な中村教授を批判するのは氣の重い事ですが、中村さんが支那を相手にやつてゐることは空しいと思ふ。


日本人が自分自身の歴史を書く爲に「南京虐殺」を調べるのは好い。また、事實無根の言ひがかりに反論する基礎知識を學ぶ事にも異論はありません。しかし、調査の結果をもとに、「俺は潔白だ。だから今後は俺を責めるな」とて、外國を「説得」しようとしても、それは無理ではありますまいか。
ことに、中村教授のやうに「あつたことはあつたとして認める」立場をとるならば、結局、日本を攻撃する材料は盡きない事になる。いくら「どこでもやつてゐる」行爲でも、「惡い事は惡い」と言はれれば、お人好しの日本人はまたすぐに「反省」するに決まつてゐます。


文化大革命で「南京虐殺」を上囘る規模の粛清をやらかし、ヴィエトナムやチベットを侵略した支那人は、膨大な歴史資料を漁つて身の潔白を證明したりしません。彼等が強者だからです。強者は他者に自分を理解してもらはうなどと思はない。「俺の事が嫌ひなら、別に附き合つてもらはなくて結構」と云ふだけです。それでも世界の國は支那に近づいてゐます。かつて植民地支配を大々的にやらかした西洋諸國も、反省なんぞしやしません。


日本人が支那人や西洋人のやうに圖太く、ふてぶてしく、強くならない限り、いくら史實で「身の潔白」を「證明」しても、「南京虐殺」の惡夢からは永遠に逃れられないのではありますまいか。




(「電腦正統記」(現在消滅)メーリングリストより。平成13年1月11日、16年5月1日編輯)

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