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2004年4月30日 (金)

神に優劣無し

[swiss 11962] Re: 日本の国は天皇中心の神の国?: 00/05/22

御無沙汰してゐます。チューリッヒの木村貴です。かう云ふお堅い話題の時しか參加しないで御免なさい。

森總理の「日本の國は天皇中心の神の國」と云ふ言葉ですけれども、總理は發言が「問題化」した後、以下のやうに釋明してゐます。(5月18日付朝日新聞衞星版)

「天皇を中心とする」と云ふ表現については、「天皇は時代時代により位置づけが變はつたが、現在は日本國の象徴であり、日本國民統合の象徴であるとされてゐることを申し上げたものであり、主權在民の考へ方に反することを申し上げたものではない」

「神の國」と云ふ表現については、「特定の宗教について述べた趣旨ではなく、歴史を振り返れば古事記の 中に見られたやうな神話があるが、地域社會では、その土地や山や海や川など、自然の中に人間を超えるものを見るといふ考へ方があつたことを申し上げたものだ。決して天皇が神であるといふ趣旨で發言したものではない」

この説明を讀む限り、何も問題は無いと私は思ひます。言葉尻をとらへて政治家を苛めるのは好い加減にやめにしたいものです。私は森さんを政治的に應援してゐる譯ではありませんが、こんな事でいちいち辭めさせてゐたら、總理のなり手がなくなります。

ところで、私自身は宗教と國家との關係について、森總理よりも少し「過激」な思想を抱いてゐます。國家が人間の集團であり、宗教が人間と不可分のものである以上、國家は何らかの宗教的基盤を必要とするのではないでせうか。

御存知の通り、スイスの國旗はクリスト教の十字架を起源とするものであり、スイス國歌の旋律はもともと教會で歌はれてゐた讚美歌です。「君が代」どころの騷ぎぢやありませんよ。特定の宗教音樂そのものを國歌にしちやつてゐるんですから。

また、アメリカの硬貨の裏には「IN GOD WE TRUST」と云ふ言葉が刻んである さうです。アメリカ大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓するのは有名です。イギリスには國教會があり、ドイツでは「クリスト教民主同盟」なんて名前を堂々と掲げた大政黨が、この間まで政權の座にありました。

私はスイスやアメリカやイギリスやドイツはまともな國だと思ひます。日本が宗教的に無色透明な國なんぞを目指すとしたら、むしろその方が國際社會で薄気味惡がられます。森總理があの程度の發言で辭めたりしたら、諸外國の政治家は何が何だか譯がわからず、ますます日本に不信感を持つでせう。

[swiss 11970] 「神の國」發言問題の経緯(木村): 00/05/23

讀賣オンラインより。http://www.yomiuri.co.jp/feature/da/index.htm

森首相「日本の国は天皇中心の神の国」

森首相は十五日夜、東京・紀尾井町のホテルで開かれた神道政治連盟国会議員懇談会(綿貫民輔会長)の結成三十周年記念祝賀会であいさつし、「日本の国は天皇中心の神の国であるということを国民に承知して もらう、その思いでわれわれ(同懇談会)が運動して三十年たった」と述べた。憲法に反する戦前の皇室観に沿った発言と受け取られかねず、今後批判を呼びそうだ。 また、首相は「神仏を大事にするということが今の日本の精神論からいえば大事なのではないか」と強調した。同懇談会事務局によると、森首相は同懇談会の顧問を現在も務めている。(2000年5月16日)

「主権在民、矛盾しない」森首相弁明

森首相は十六日午前、神道政治連盟国会議員懇談会の会合で「日本の国は天皇中心の神の国であるということを国民に承知してもらう」と発言したことについて、「日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げている。戦後の主権在民と矛盾するものではない。天皇のことは、悠久の歴史と日本文化を表現しているということだ」と述べた。さらに、これに関連し、「人間の情操教育の中でお父さん、お母さんからもらった命だから、神様から命を 頂いたと申し上げている。人の命を大事にすることをいろんな角度から教育に盛り込んでいかないと、と申し上げている」と説明した。首相官邸で記者団の質問に答えた。民主党など野党は憲法の国民主権の 精神に反するなどと強く反発している。(2000年5月16日)

首相発言の要旨

最近、村上正邦自民党参院議員会長をはじめ、皆さんの努力で「昭和の日」が制定された。天皇在位十年のお祝いもさせていただいた。ややもすると、今、私は政府の立場だから、(政府側が)及び腰になることをしっかり前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるということを国民の皆さんに承知してもらう。その思いで我々が運動して三十年がたった。同期が比較的残っているのも、神様がちゃんと当選させてくれているのではないか。  人の命というのは、お父さん、お母さんからもらったものだ。端的に言えば、神様からいただいたものだ。神様からいただいた命は、まず自分の命を大切にしなければならない。神様であれ、仏様であれ、親鸞上人であれ、日蓮であれ、神武天皇であれ、宗教は自分の心に宿る文化だから、もっと教育の現場で取り 入れようと、なぜ、言えないのか。信教の自由だから、触れてはならないのか。どの宗教の神も仏も大事にしようということを学校でも社会でも家庭でも言うということは、今の日本の国の精神論から言えば、大事でないか。 (2000年5月16日)

野党側、強く反発 各閣僚は疑問や弁護の声

森首相が神道政治連盟国会議員の会合で「日本の国は天皇中心の神の国」などと発言したことについて十六日、民主党の鳩山代表が「憲法の国民主権を真っ向から否定する考えだ。もう一度その方向へ憲法を戻そうとすることであれば許すことはできない。倒閣運動に一気につながる話だ」と述べるなど、野党側から強い反発の声が上がった。  民主党は同日午前、党本部で緊急幹部会を開き、対応を協議し、今後、他の野党とも共同して予算委員会で集中審議などを求める方向で調整を始めた。

共産党の不破委員長は「森首相の頭脳と精神はここまで戦前の『神国』思想に侵されていたのかと驚きを禁じ得ない。ただちに退陣することを求める」との談話 を発表。社民党も「憲法の基本理念を否定し、民主主義を踏みにじる森内閣は一刻も早く退陣すべきだ」との幹事長談話を出した。

一方、自民党の野中幹事長は十六日午前の記者会見で、首相発言について「神道(を中心)としてやってきた国の生い立ちを考え、これを守っていこうという政治連盟の集いであることを頭に置いての発言だろう」との見解を示した。

公明党の冬柴幹事長は十六日昼の代議士会で「真意がどこにあるのか、理解するのに困惑を覚える」と述べ、直接、森首相に説明を求める考えを示した。

これに関連して、十六日の閣議後の記者会見で、各閣僚から、疑問や擁護の発言が相次いだ。青木官房長官は、「一国の首相として、発言(の内容)をいろいろ考えていかれるべきだと思う」と首相に注文を付け、中山建設相は、「政治家が神様と何が正しいか相談するのが政治だ。神道政治連盟へのリップサービスだ」と首相を弁護した。 (2000年5月16日)

[swiss 11971] 歴史に學ぶと云ふ事(神の國發言): 00/05/23

おはやう御座います、木村です。Tさん、御批判ありがたうございます。

森總理が正當な法的手續きを踏まずに總理になつたのは問題だと私も 思ひますし、「失言と愚行」が多い人かもしれません。しかし、それら の件と「神の國」發言は別の話です。

人數が多いからと言つて、正しい意見だとは限りません。むしろ、「神の國」發言を寄つてたかつて攻撃する日本の言論状況こそ危險です。

日本國憲法は天皇を象徴と定めてゐます。「天皇を中心とする」と云ふ發言はどこも「時代錯誤」ではありません。サミットには、國教會や王室と云ふ「時代錯誤」的な存在を戴くイギリスだつて參加します。

Tさんのおつしやる「立派な政治家」が總理になつたとしても、今のやうに魔女狩り的な言論状況が續けば、またぞろ「失言」を理由に失脚させられかねません。さう云ふ政治状況は危險です。

個人的には、あちこちから勲章やら名誉博士號やらを貰つて喜ぶ名譽會長を戴く公明黨に委ねたくはありませんが、選擧で撰ばれたのなら仕方ありません。また、日本の宗教的傳統を考へる場合に神道を外す事は出來ません。 神道は皇室と深くかかはつてゐる以上、政治の仕組みから完全に切離す事は無理だし、切離すべきだとも思ひません。

私はクリスト教徒ではありませんが、 カトリックが異教との「平和共存」ばかりを優先して、己の正義を通すことを忘れるならば、それは墮落だと思ひます。釋迦に説法ですが、「われ地に平和を投ぜん爲に來れりと思ふな、平和にあらず、反つて劍を投ぜん爲に來れり」とイエスは言つてゐます。

主權在民のイギリスも、國歌で王室の繁榮を祈つてゐます。國旗のデザインは過去の歴史とともに未來への意思を無言のうちに表明してゐるものであり、スイス の十字架も例外では無い筈です。

アメリカの大統領就任式は、宣誓だけでなく、牧師が祈祷し、聖歌隊が合唱するなど、式典全體がプロテスタント教會の禮拜をモデルにしてゐます。大統領の個人的信仰の場ではなく、飽くまでも國が主宰する式典です。アメリカは政教分離と云はれますが、それは政治が個人の信仰の自由を積極的には侵害しないと云ふ事であつて、現實には政治とクリスト教とは分離どころか甚だ密着してゐます。また、日本だつて信教の自由は立派に保障されてゐます。大平正芳氏のやうにクリスチャンの總理大臣もゐました。ちなみに大平さんは靖國神社に公式參拜してゐます。

神道に對する一方的な差別です。十字軍や魔女裁判で殺された人と、神道で殺された人と、どちらが多いでせうか。クリスト教會だつて、結婚式と稱して「儀式を行なふことで利益を得て」ゐます。 多分、地鎭祭より収入は多いと思ひますよ。

「國家神道」の歴史は數十年かもしれませんが、日本における神道の歴史は佛教より古いものです。神道は皇室だけの信仰ではありません。神道が「日本の精神のすべて」だとは申しませんが、最も重要なものの一つである事は確かです。

歴史に學ぶことは大切だと思ひます。しかし私は、生意氣かもしれませんが、たかだか五十年かそこらの短い歴史でなく、千年、二千年單位の歴史に學びたいと願ふのです。

[swiss 11974] 地鎭祭と結婚式: 00/05/23

Eさん、みなさん、おはやう御座います。木村@睡眠不足です。

成る程、さうですか。収入の大半は結婚式場の懷に入つて仕舞ふのでせうね。さすがしたたかな宴會業者。さう云ふ奇特な牧師さんが多い割に、日本のクリスト教人口が増えないのは何故なんでせうね。 それは兎も角、地鎭祭も結婚式も同じ儀式。神道だけを一方的に怪しげなものと決め付けるのは承服しかねます、と云ふのが私の前囘投稿の本旨であります。結婚式の収入が地鎭祭より多いか少ないかと云ふのは、御愛敬の蛇足のつもりでありました。ともあれ、御指摘有り難う御座いました。

[swiss 11995] 天皇とクリスト: 00/05/26

こんにちは、保守反動?の木村です。

文化に優劣はありません。クリスト教が神道より優つてゐると云ふ考へ方は誤りだし、その逆も間違つてゐます。

「天皇の名の下にどれだけ多くの人間が死んだと思つてゐるのだ」と云ふ御批判がありましたが、それならば、私の質問をかう云ひ變へませう。「天皇の名の下に殺された人間と、十字軍、魔女狩り、インディアン虐殺など クリストの名の下に殺された人間と、どちらが多いでせうか?」。或いは、ローマ法王は何故謝罪したのでせうか? 少し意地惡を言へば、法王が謝罪しさへすればカトリックが過去に犯した罪は赦されるのでせうか? 日本の従軍慰安婦問題のやうに、金銭的な償ひはしなくて好いのでせうか? 何兆圓になるかわかりませんが…。

ユダヤ教・クリスト教の文化的傳統がナチズムを生み出したと云ふ説は、ジュネーブ大學の教授を務めた著名な批評家のジョージ・スタイナーが「ヒトラーの辯明」(たしか三交社だか三修社だか云ふ出版社から邦譯)と云ふ本で展開してゐます。現在手元に無いし、あつても下手に引用するとまた怒られるかもしれないので、興味のある方はお讀みください。 ちなみに、スタイナーはユダヤ人です。みすず書房から彼の代表作の邦譯は何册か出てゐます。

斷つておきますが、私はクリスト教は駄目だと云つてゐるのではありません。何事も善惡兩面があると云ふ當然の事を指摘したいだけです。 神道や天皇だけを一方的に惡だと決めつけるのは不公正です。日本は朝鮮に神道を押付けたかもしれないが、西洋だつてアジアや新大陸に軍艦で乗付け、クリスト教を押付けました。

森總理は「發言は撤囘しない」と頑張つてゐますね。彼を少し見直しました。斷言しますが、あんな事で辭めたら、日本の政治は益々駄目になりますよ。さてさて、釋明會見はどうなりますか。

[swiss 11999] 取留めない儘に: 00/05/27

こんにちは、木村です。

森總理は釋明會見で以前の發言を撤囘しませんでしたね。森さんは「蚤の心臟」などと馬鹿にされてゐますけれども、少なくも今囘の態度だけは立派だつたと思ひます。

このMLにもクリスチャンの方が何人かゐらつしやつて、率直なお考へをうかがふ事が出來、大變勉強になりました。信仰と云ふプライヴェートな事柄に立ち入つたお話をする事は、なかなか出來ませんから。

ノーベル文學賞を受けたイギリスのT.S.エリオットと云ふ詩人・批評家は、文化の根底にあるものは宗教であると信じてゐました。もともとアメリカ人だつた彼は、イギリスを愛し、歸化し、英國國教會に入信しました。

私も文化の根幹をなすものは宗教であると思ひます。日本文化の根幹をなすものは、先祖を崇敬する「先祖教」であり、天皇は祭祀を司る祭祀王です。良くも惡くもこれが我々の文化であります。日本にクリスト教が根づかうと思ふのならば、佛教のやうに日本文化と習合する事が必要ですが、絶對神の思想と先祖教の思想とは水と油。クリスト教はさう簡單に根づくものではないでせう。

人間は己の上に戴く存在が無ければ、道徳的に生きられません。「己の上の存在」は、西洋においてはクリスト教の絶對神でありました。しかし我々は絶對神を持たない。その代りを務めて來たのが天皇です。だがクリスト教の神と違ひ、天皇は生身の人間ですから、誤りも犯す。 全知全能の絶對神と異なり、天皇は英明君主ばかりだとは限らない。ローマ法王がいくら謝罪してもクリストは傷つかないが、天皇はやれ戰爭の道義的責任だ何だと責任を追及される。これが天皇を戴く我々の文化の弱點です。

夜郎自大のナショナリズムに陷らず、己が文化の弱點を眞劍に受止めながら、少しでも長所を伸ばす事、それが大切であると思ひます。しかし、總理が天皇云々と言つただけで大騒動になる現代日本において、 それをやる事は至難の業でせう。

隨分とりとめの無い事を書きました。それでは。

[swiss 12011] 變はるものと變はらないもの: 00/05/30

こんにちは、木村です。Eさん、御返事有り難う御座います。

破竹の勢ひで進み續けると思はれたクリスト教の布教が、結局その後止つてしまつた事實を、重く受止めるべきではないでせうか。ローマ時代のクリスト教の例を引くまでもなく、暴力で彈壓されただけでは、 本當に民衆が望む宗教や思想の勢ひは止まるものではないでせう。

變はる部分も當然ありますし、變はらない、ないし變はりにくい部分もあると思ひます。天皇制度及びそれを支へる國民の精神構造は、兎にも角にもこれだけ永く續いてきた以上、少なくも簡單に變はる部分では無いと思ひます。

網野善彦さんはおつしやるやうに天皇制度廃止論者ですから、森總理とは勿論意見の方向は違ふでせう。しかしクリスト教の傳統(或いはそれに代はる宗教的基盤)の無い日本でいきなり天皇制度を廃止して、何か良い事があるのでせうか。網野さんには明確な青寫眞があるのでせうかね。

[swiss 12021] 神に優劣無し: 00/05/31

こんにちは、チューリッヒの木村です。寒いですね。Nさん、Eさんへの御返事です。 「斬つた張つた」の修羅場を無事くぐり拔けられますかどうか…。

ローマ帝國だつて階級社會でしたけれども、クリスト教はつひに國教になるまで廣まりました。Eさんは「ローマ以外の例を引け」とおつしやつたのですが、東西におけるクリスト教の受容の違ひを説明するのに、ローマを例に引いて何か致命的にまづい點があるでせうか。彈壓を生き拔いて勢力を伸ばした例をあへて他に一つ擧げれば、日本における日蓮宗はいかがでせう。

日本のクリスト教信者は約150万人、總人口の1%強程度でしたつけ。1%と云ふ數字をどうみるかは議論の文脈によりますけれども、今囘は、常識的に「小さい」と言つてしまつて好いのではないですか。無論、Eさんがおつしやるやうに、世界には彈壓で滅びてしまつた宗教は多く、それに比べれば日本におけるクリスト教は頑張つたと、評價しても好い。しかしながら、隆々たる發展を遂げたとはお世辭にも言へますまい。士農工商制度が終はつて百年以上、新憲法が出來てから五十年以上が過ぎてゐるにしては、1%といふ數字はいかがなものでせうか。

あへて挑發的に言はせていただくと、假に私の主張が皇國史觀だつたとして、「クリストを信じない者は最後の審判で地獄に落ちる」と説くクリスト教史觀よりも「危險」でせうか? クリスト教國は侵略戰爭や人種差別をしなかつたとは、まさかおつしやらないでせう。天皇を戴かうが、クリストを戴かうが、所詮人間、「惡い事」をやる時はやるものです。いやいや、己の正義を信ずるひたむきな人間ほど、己の價値觀と相容れない人間に對しては、殘酷になるものです。それを責めるつもりはありません。いかなる聖人も、ましてや凡夫凡婦は、人間である以上、己の殘酷を常に自覺すべきだと言ひたいのです。それが「原罪」の一つの意味ではないでせうか。 己の殘酷を自覺した人は、軽々しく他人の殘酷を非難出來ない筈です。

假に「利用」の對象だつたとしても、天皇制度に日本人の精神構造に合致する面があつたからこそ、「利用」の對象たり得たのです。でなければ、あんなに永く續きはしません。また、西洋史上のクリスト教會だつて、時の世俗權力と巧みに結びついてゐました。天皇だけを貶める理由にはなりません。

天皇が「人間宣言」をし、皇室の權威がこれほど低下した現在、「あつてもいいのかな」と多數の國民が思つてゐるのなら、上出來でせう。國民全員に熱狂的な天皇崇拜を求めてゐる譯ではありません。信教の自由を廃止せよと唱へてゐる譯でも無い。イギリスのやうな「國教」、或いはアメリカのやうな「見えざる國教」があつても好いではないかと言つてゐるのです。

青寫眞とは、現状を變へようとする立場の人がまづ提出すべきものです。だから私は網野さんの青寫眞を知りたく思つたのですが、Eさんは何か御存知でせうか?それは兎も角、日本がクリスト教國であればいざ知らず、信者は高々1%と云ふ現状であり、近い將來劇的に増える見込みもない以上、やはり、皆が「あつてもいいのかな」と感じてゐる天皇制度を適切に生かしてゆく他はない。

もう遲くなりましたので、詳しくは機會をあらためて書きたく思ひますが、クリスチャンの方々ならよく御存知のやうに、人間が道徳的に生きる爲には、自分を超える存在を戴く必要があります。 そしてクリスチャンでない大多數の日本人には、天皇に代はる「己の上の存在」の候補が乏しい以上、天皇制度を捨去るには愼重でなければならない。天皇は絶對神と異なり生身の人間であり、放つておけばその權威はどんどん崩れてゆくのだから、 むしろ積極的に守らなければならないとだけ今囘は申し上げておきます。

「教育についての失言」は具體的にどれを指しますでせうか。教へてください。支持率の低下が「神の國」發言によるものだとすれば、國民の誤解には困つたものだと思ひます。それでも、支持する人が多いか少ないかといふ事と、森さんの言つた事が謝罪に値するかしないかは無關係です。 正しいか正しくないかは多數決でなく、理屈で考へるべき事です。

[swiss 12040] 嫌ひな政治家は選擧で落とせ: 00/06/02

こんにちは、木村です。チューリッヒは好い天氣になりました。

森さんは總理になつた經緯が法的に不適切である可能性が極めて濃い。 青木官房長官が小渕さんから「あとは宜しく」と頼まれたのがもし嘘だつたら、森内閣そのものが非合法と云ふ事になります。この事は、「神の國」なんかよりもつと問題にすべきです。 それを除けば、まだ二箇月しかやつてゐないのに、森さんが總理に適任か不適任かなんてわかりませんよ。早すぎます。

國民は政治家の發言に寛容になるべきだと思ひます。勿論、首相も含めて。さうでなければ、皆默つてしまつて、何を考へてゐるのかわからなくなる。そのはうが、よつぽど危險ではありませんか。 發言の中身が氣に食はないのなら、選擧で落とせばいいぢやありませんか。民黨に投票しなければいいぢやないですか。それが民主主義の、議院内閣制の本筋です。 發言次第で總理の首がポンポン飛ぶ状況、それは非常に怖いと思はれませんか? 民主的手續き拔きで、政治生命を抹殺されかねないんですよ。御自分の支持する政治家がもし總理だつたら、と想像してみてください。 民主的ルールを軽視する事の方が、國益の損失は甚大です。

平凡社の『世界宗教大事典』では1989年版の「宗教年鑑」の數字として、日本のクリスト教徒は142.3萬人と記してあります。絶對數は兎も角、總人口に對する比率が世界の中で非常に低い部類に入る事は間違ひありません。

「私は神道信者だ」と明確に言ふ人は少ないかもしれませんが、そこが神道の神道らしいところではありませんか? 何せ、明確な教義も戒律も入信儀式も無いんですから。 いい加減と言へばいい加減ですが、かへつて、意識しない分、精神にがつちり食ひ込んでゐるとも言へます。

クリスト教が日本の思想界に及ぼした影響は認めますが、にもかかはらず、大部分の日本人は入信しなかつたのです。これだけ人の往来が激しい時代になつても、大きな變化の兆しはありません。

[クリスト教を信じない者は地獄に墮ちると云ふ思想の出典は]聖書です。「釋迦に説法」を承知で引用しますと、 「又なんぢらに告ぐ、多くの人、東より西より來たり、アブラハム、イサク、ヤコブとともに天國の宴につき、御國の子らは外の暗きに逐ひ出され、そこにて哀哭・切齒することあらん」(マタイ傳第八章) 「かくて、これらの者は去りて永遠の刑罰にいり、正しき者は永遠の生命に入らん」(マタイ傳第二十五章) また、「ヨハネの黙示録」は、最後の審判の凄まじい樣子を描いてをります。これまで生きたすべての人間に、永遠の救ひか永遠の罰かが言ひ渡されます。神を信じない不屆き者は、當然、永遠の罰(地獄)でせう。

[皇國史觀は]危險だと思ひますよ。そもそも思想や宗教はすべて危險を孕んでゐます。但し、皇國史觀の危險の度合ひはクリスト教より小さいか、どつこいどつこいです。繰返しますが、十字軍や魔女裁判や宗教戰爭で死んだ人數と、天皇のせいで死んだ人數と、どちらが多いでせうか。 なほかつ私は、クリスト教は危險だから廢止せよなどと申しません。それどころか、大いに魅力的だと思つてゐます。危險なものは魅力的だからです。

勿論、「原罪」はクリスト教の言葉です。Nさんがクリスト教徒でゐらつしやるので、私の主張をすんなり理解して頂けるやうに、クリスト教の用語を使つたのです。

[國民に天皇の]崇拜を求めてはゐませんが、社會的な敬意は相應に拂ふべきです。

佛教ももちろん重要ですが、實のところ、日本の佛教はかなり日本化されてをります。神道との差はそれほど大きくないと思つてゐます。それにしても、クリスチャンのNさんが佛教を「眞理」 などとお呼びになつて宜しいのでせうか。

[swiss 12041] Re: 神に優劣無し: 00/06/02

こんにちは、木村です。Eさん、御返事有り難う御座います。しかし首を捻る部分がいくつかありました。

これは議論のプロにしてはちよつと亂暴ではないでせうか。「何か致命的にまづい點があるでせうか」と云ふ私の質問に對し、「まづいです」とおつしやるばかりで、ローマは「特殊」だと前囘のメールの繰返し、そして「説明は長くなるので割愛します」とは。これぢやあ反論の仕樣もありません。ブラウンとか云ふ先生の、題名もわからない本を一生懸命探して、注文して、入手して、讀み終へるまで、何も言へなくなつてしまひます。 そもそも、クリスト教が彈壓されたのはローマ帝國の「末期」ではありません。「初期」から「中期」であります。

わざわざ「異端運動」なんか調べなくとも、クリスト教の本流たるカトリックこそ、イエスの磔、その後の迫害と云ふ「過酷な彈壓」にもめげず成長した典型例ではありませんか。「希な現象」だなんてとんでもない。確かにカトリックは途中から權力と結びつきましたが、長い迫害にもかかはらず民衆の間に廣まつたからこそ、權力側も無視出來なくなつたのです。

それから、日本の權力者はクリスト教を彈壓ばかりしてゐた譯ではありません。ザビエルの後に來日したヴィレラは足利義輝に布教の許しを得てゐますし、織田信長も京都に教會(南蠻寺)を建てさせました。秀吉も家康も最初は保護してをります。キリシタン大名もゐました。 當時の日本のクリスト教は「彈壓を乘越えて廣まつた」と云ふよりも、「彈壓されなかつたから廣まつた」のではないでせうか。

長くなるので一旦切りますが、「國民性が變り得るかどうか」について、私の意見を少し申し述べておきます。

先のメールに書きました通り、私は國民性は永遠に全く變はらないと主張してゐるのではありません。 個人レベルでしたら、環境次第で所謂「日本人離れ」した物の考へ方をするやうになる人は澤山ゐます。しかし、さうした方々も、幼時から一生外國で外國語を遣つて暮らすのでも無い限り、心に所謂「日本的」なものが殘る筈です。ましてや國民全體となると、變はるには相當時間がかかるでせう。

そしてここからが重要なのですが、「何に變はるか」によつて、難易度は異なります。「神佛習合」と云ふ言葉がある通り、佛教は神道と一體化しやすい側面がありました。しかし、クリスト教は非常に異質です。人智を超えた全知全能の絶對神と云ふ觀念は、日本の「八百萬の神」の概念とは對極にあります。もし江戸時代にクリスト教が禁じられなかつたとしても、最初の勢ひで信者の増加が續いたかどうかは疑問です。

日本人の大半がクリスト教徒になれば、古い日本的宗教の嫌な部分とともに、好ましい部分も失はれる。私個人としてはそれは避けたいのですが、日本がクリスト教國になることはまづあるまいと高をくくつてゐるので、 本氣で心配はしません。心配なのは、古い日本的宗教を失ひ、かつ、別の宗教の美徳も身に付けられない、 「あぶはち取らず」の状態に陷る事です。今の日本はさうなりつつあると私は憂慮してゐます。 「あぶはち取らず」になるくらゐならば、昔馴染みの「あぶ」を守り、もう少し育ててみたいと私は思ふのです。 そしてくどいやうですが、他人が「はち」を撰ぶことを否定するのではありません。

それでは、續きはまた。

[swiss 12051] 神に優劣無し、反論の續き: 00/06/03

こんにちは、チューリッヒの木村です。Eさんへの御返事の續きであります。

批判は筋違ひです。私の文章の題名は「神に優劣無し」です。すなはち、「天皇制度には問題があるかもしれないが、さう云ふクリスト教はどうなんだ。クリスト教は天皇制度に説教出來るほど偉いのか」と云ふ、まさにその事を主張しようとしてゐるのです。ディベートに勝つ爲の論法なんかぢやありません。本論そのものですよ。これを言うなといはれたら、 私は言ふ事がなくなつて仕舞ふ。

「天皇が強大な權力を持つてゐた」事と、「天皇制度が日本人の精神構造に合致した」事とは、矛盾しません。兩立し得ます。むしろ相互補完の關係ではないでせうか。

繰返しになりますが、「クリスト教の惡事を持ち出して天皇を辯護する」のは、私の本論そのものです。これを書けなければ、私は書く事がなくなつちやいます。天皇や神道は戰爭に直結し、クリスト教はさうでないと云つた無根據な思ひ込みを正すのが私の本旨です。

「放つておけば權威がどんどん崩れる」事と、「天皇制度が生命力を保つてゐる」事とは矛盾しません。私も「天皇制度はまだ生命力を保つてゐる」と信じますが、同時に、「放つておけば權威(生命力)はどんどん崩れる」と憂慮します。

人間に例へれば、難病にかかつた人は「放つておけばその健康はどんどん崩れ」ます。だからと言つて、「命脈は盡きた」とあつさり見捨てるのは早すぎます。病はまづ治療する努力をすべきです。

病気の例でもう少し説明しませう。一國の文化は宗教、言語から政治制度に至るまで有機的に絡み合つてゐます。人の體のやうなものです。 人體の一部が病に冒された場合、それを他人の臟器と取り替へる事は、一つの選擇肢ではあります。しかし重大な副作用も覺悟しなければなりません。下手をすると命を落とします。天皇制度のやうに宗教にかかはる部分は、もつとも移植が難しいところだと思ひます。天皇制度を「さつさと廢止」して、「速やかに新しい制度に移行」出來るくらゐなら苦勞はしませんよ。そんなリスクを冒すよりは、難でも自力で治癒する道を撰ぶべきです。

[swiss 12052] 民主主義の根幹は選擧: 00/06/04

こんにちは、木村です。Nさん、こちらこそ毎度おつきあひくださり有り難う御座います。 最初のメールへの御返事です。

政治家の發言内容を「失言」と思ふか思はないかは、個人の價値觀次第です。「失言」かさうでないか、誰がどういふ基準で決定するのですか。

私個人は「神の國發言」に對する批判は的外れだと思つてゐますが、批判をするなとは言つてゐませんよ。政治家の「失言」を材料に辭任を強要するのは行き過ぎだと言つてゐるのです。

??? 森さんは「默つて」しまつたりしてゐませんよ。發言後も自分の眞意を繰返し説明してゐるぢやありませんか。

「天皇を中心とする神の國」と喋つただけで言論封殺されるやうな國に、 まともな言論なんぞ育つ筈がありません。

繰返しになりますが、批判をするなとは言つてゐません。但し批判は筋の通つたものでなければならないし、法を犯した譯でもないのに辭任を強要するのは間違つてゐます。

單獨政權をつくるだけの議席が獲れなかつたのに、投票した人間の意見を百%反映させるなんて虫が好すぎます。それに、聯立を組んで與黨になつた方が、野黨のままでゐるよりも投票した人の意見は政策に反映されるぢやあないですか。

しかし、日本には首相のリコール制度はありませんから、總理を辭めさせる道は選擧しかありません。

本當の「民意」をどうやつて知るのですか。マスコミの輿論調査ですか。 民意を知る正當な手段は選擧しかありません。

選擧によらずに政治家の首を飛ばすのは民主主義のルールを軽視する事です。

森さんの政策なんて何も出てゐないに等しいんですから、わかる方が不思議です。

それあ、引越さない限り、福島縣の人が石川縣の代議士に投票は出來ません。 しかし福島縣で自民党が負けるやうに、他の政黨に入れれば好いでせう。選擧で負ければ、自民黨だつて森さんを總裁にかつぎ續ける事は難しくなります。森さんを代議士からも首にしたければ、石川の有權者とインターネットで交信するとか、ライバル候補を金銭的に支援するとか、手はあります。

[swiss 12053] Re: 残りの宗教的議論: 00/06/04

こんにちは、木村です。Nさんへの御返事の續きです。奧樣のお風邪は大丈夫ですか。

空氣や衣服と同じで、密着してゐればゐるほど、普段は意識しないものですよ。

「宗教的な質」の「相對的重み」なんて、どうやつて測ればいいか皆目見當がつきませんから、何とも言へませんね。

Nさん個人がどう「受け止めて」ゐらつしやるかでなく、クリスト教の一般的教義を述べたのです。 ダンテの『神曲』は「地獄」「煉獄」「天國」の三部から成りますが、これはカトリックの教義に基づいてゐます。 現在も、この教義が變はつたと云ふ話は聞いた事がありません。

比較しなければ、優劣が有るか無いか、わかりません。

宗教戰爭、魔女裁判、多量の流血を伴ふ革命、テロ、全体主義國家…等々を生みだしますからね。念の爲繰返しますが、だから宗教や思想は無くなつた方が好いなんて思ひません。善惡は表裏一體ですから。

私は自分の主張の根據が皇國史觀だなんて言つてゐません。Nさんがさう決めつけられただけです。 「天皇は祭祀王だ」と書いた事が、皇國史觀の根據なんですか? 天皇が祭祀王だと云ふのは「史觀」ぢやなくて、事實ですよ。天皇陛下はいつも宮中で祭祀を執り行つてゐらつしやるではありませんか。それから、私は最初から「上出來」と云ふ言葉を「まだまし」と云ふ意味で使つてゐます。もう一度お讀みください。

「神道とは大違ひ」と云ふ表現で、神道への輕蔑を示してゐらつしやるんでせうか? よく眞意のわからない文です。 要するに、Nさんは神道をどう評價してゐらつしやるのですか? クリスト教と神道とに優劣は無いと云ふ、私の主張に本當に贊成されるのですか? 私は、クリスト教徒が自分の宗教が一番だと信ずるのは當然だと思ひます。ですから、神道が劣ると思はれるのであれば、素直にさうおつしやつて下さい。そのはうが自然ですよ。

「みんな許してくださいます」とは、ヱホバの神も隨分丸くなられました。まるで佛様みたいです。さう言へば、Nさんのお考へでは、神樣も佛様も結局同じ眞理を説いてゐるのでしたね。聖書の十誡に「汝の神は嫉む神なり」と書いてあるので、心配になつたのですが、あれは唯の脅しだつたのですね。やれやれ、とんだ取越し苦勞。

[swiss 12064] Re: 神に優劣無し、反論の續き: 00/06/05

木村です。

「立論方法」なんて大袈裟なものぢやありませんが、私の議論が何も生み出さないとは思ひません。いや勿論、研究者として出世するとか、有名になるとかといつた方面の利益は何も生み出しませんけれどね。

私も最初から「神に優劣無し」と言つてゐます。それでも、みもふたもなく比較して見せなければ、優劣が無い事に氣づかない人もゐるんですよ。

前囘のオブラートに包んだ書き方だと、Eさんはお氣付きにならないやうなので、少し野暮な事を書きます。假に私が大學生、Eさんがその指導教官だつたならば、 「引用した例にまづい箇所がありますか」と私が尋ねて、 ただ一言、「ブラウンの本を讀め」と木で鼻をくくつたやうな返事をされても、私はかしこまつて退き、題名もわからない本を默つて搜し廻るでせう。

しかしEさんと私との關係は、指導教官と學生ではない。對等な個人同士です。議論の過程で、相手の質問に答へる場合は、「だれそれの本を讀みなさいよ」だけで濟ませるべきではないでせう。 少なくとも、書籍の題名、版元くらゐは示すのが常識でせう。いやいや、それ以前に、著作の主旨を簡單に書けば濟むことではありませんか。

Eさんが、自分自身の意見を述べたうへで、「この本は參考までに」と紹介されたのであれば、私だつてこんな小言みたいな事を書きやしません。しかし、Eさんは御自分の意見を何も言つてゐらつしやらない。 「ローマは特殊だ」と何の根據も示さず繰返されたばかりです。擧げ句の果てが、「ブラウン先生の著作などお讀みくだされば幸ひです」。これぢやあ、小言の一つも言ひたくなりますよ。Eさん、いかがですか。

議論は「相手を説得するための手段」に決つてゐるぢやありませんか。アホらしい。これについては次囘書きます。(私も進歩がないですね)

[swiss 12083] Re: 神に優劣無し、反論の續き: 00/06/07

Eさん、こんにちは、木村です。

日本人は筋道立つた議論で白黒がはつきりする事を嫌ひます。ましてやスイスメールは親睦が本來の目的ですから、そんなところで勝つた負けたの議論をしたがる私も馬鹿なのですが、宗教の話は國際的なこのMLに恰好の話題でもある事だし、みなさんの御寛容に甘えて野暮きはまりない議論を書き續けて來ました。

「ローマ特殊説」や「クリスト教が彈壓を生延びた例は希か否か」「天皇の權力と日本人の精神構造との關係」等について、私が示した疑問に對するEさんのお考へを伺ひたい氣持ちは非常に強いのですが、勿論、メールを書くか書かないかは個人の自由でありますから、強要する權利は私にはありません。いつか、氣分の向いた時にでも書いていただければ幸ひです。

前囘の「豫告篇」で書いた内容については、次囘のメールで書きます。それで私が取り敢へず言ひたい事はおしまひですので、みなさんから何も反應がなければ、又しばらく引込む事にいたします。

それから、Nさんへの御返事はこれから書きます。どうも後囘しになつて濟みませんでした。

私が止めようとしても、状況次第では止められないかもしれないですね。いやいや勿論、それはそれで大歡迎であります。

[swiss 12084] Re: 嫌ひな政治家は選擧で落とせのリバタル: 00/06/07

こんにちは、木村です。

これまで書いた事でおわかりのやうに、私は、天皇制度を過度に(と私には感じられる)危險視する戰後の風潮に批判的です。從つて、森總理の「神の國」發言をまるで軍國主義への一里塚であるかのやうに騷ぎたてるメディアや野黨の反應を苦々しく思つてゐます。いや、野黨はもともと與黨の足を引つ張るのが仕事ですからまだましですが、冷靜で筋道の立つた報道をすべきメディアの姿勢や、それに乘せられた、或いは便乘した(と私には思はれる)國民の反應は實に輕薄だと思ひます。

それでも、森總理の發言を心から憂ひてゐる方はゐらつしやるでせう。さういふ人に「森總理の批判をするな」などとは言ひません(反論はします)。發言のあつた直後にインターネットで批判をしても好いし、「あんな男に總理大臣は務まらないな」と書いたり言つたりするのも認めませう。 しかし、「選擧を待たずに即刻辭めさせろ」だとか、「辭めさせる手段がないのはをかしい」だとか、「辭めさせる法的手段がないから新聞やテレビでどんどん壓力をかけて辭任に追ひ込め」だとか云つた主張は行き過ぎです。危險です。森さんが嫌で仕方ない人が「どんな手を使つてでもすぐ辭めさせろ」とつひ口走る氣持ちはわかりますが、民主主義國の國民は、それを本氣で主張してはいけない、 ぐつと我慢しなければならないと思ひます。

なぜか。例へば日本國憲法第50條は、國會議員に對し、國會會期中の不逮捕特權と呼ばれる權利を保障してゐます。

「兩議院の議員は、法律の定める場合を除いては、國會の會期中逮捕されず、會期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、會期中これを釋放しなければならない。」

一方、國會法は「各議院の議員は、院外における現行犯罪の場合を除いては、會期中その院の許諾がなければ逮捕されない。」と定めてゐますから、結局、國會議員は収賄容疑だらうが殺人容疑だらうが、現行犯で無い限り、原則逮捕されない譯です。これは昔、イギリスで國王が逮捕權を濫用して議員の活動を封ずる事があつた爲に成立した特權で、今では民主主義國に廣く普及してゐます。

「國民を代表する議員の地位は斷乎として守るべきだ」と云ふ信念が、 わざわざ憲法で特權を定めた背景にあります。私は日本國憲法は改めるべき部分が多々有ると思ひますが、不逮捕特權を定めた事は正しいと思ひます。そして憲法の主旨に從へば、犯罪の疑ひがある議員すらその地位が保障されるのですから、たかだか「失言」を理由に議員の地位を奪ふ事など言語道斷である筈です。「マスコミが壓力を掛けまくり、自發的に辭めるのなら問題ない」とおつしやりますか? それは「従業員を不當解雇するのはまづいが、 いびり拔いて自分から辭めるやうに追込めば問題ない」と云ふ考へ方と同じです。

Nさんは、森總理が國會議員も辭めるべきだとまでは主張されてゐません。しかし總理大臣がその職を逐はれる事は、平の議員が議員を辭めさせられるのと同じくらゐ、政治生命に打撃となります。やはり、基準があいまいな「失言」を理由に辭めさせる事は、民主主義の本旨に反すると私は思ひます。

Nさんが御指摘の通り、野黨が内閣不信任案を提出する事は勿論合法であり、それが可決されれば仕方ありません。しかし、先日否決されました。國權の最高機關たる國會で不信任案が否決されたと云ふ事は、すなはち「民意」が森總理と内閣とを信任してゐると云ふ事です。國民が信任してゐる總理の首を、選擧も經ずに飛ばす事は、ますますもつて避けなければなりません。「民意」はマスコミや知識人の意見を収集して 判斷出來るものではありません。そんな作業をいくらやつても、數値化は不可能です。國會の議席數で判斷するしかありません。

Nさんは、森さんを選擧で確實に落とす手段が無い事に苛立つてをられます。しかし、それは當り前ではありませんか。そんな事が出來たら、誰もが政治を思ひ通りに操作出來ます。インターネット云々は、いはば多少の気安めになる手段の一つを親切心で御指摘したまでで、「これが森さんを落とす奧の手です」 などと申し上げたつもりはありません。「選擧で落とせ」とは書きましたが、それが簡單な事だとは書いてゐません。選擧は嚴しいんです。御不滿がおありなら、私にではなく、民主主義に言つてください。

宗教的議論についての御返事はもう少しお待ちください。それでは。

[swiss 12093] 日本人的な、餘りに日本人的な: 00/06/08

Eさん、Nさん、Gさん、皆さん、こんにちは。木村です。「神の國」議論の結びに替へて書きました。長いので、お暇な時に…。

まづ、スイス人が登場する歴史エピソードを二つ書きませう。

(一)1529年、ヘッセン方伯フィリップの斡旋によつて、反カトリック的大同團結をはかるため開かれたマールブルク會談において、ルター、ツヴィングリ兩派提携の障害となつたのは、聖餐についての兩者の意見の相違であつた。すなはち、ルターがパンと葡萄酒には物質的屬性と靈なるキリストの血肉が同時に存在するといふ「共在説」をとつたのに對し、ツヴィングリはパンと葡萄酒が本質的にキリストの血と肉に變化することはありえないので、聖餐はキリストが人類の罪を救ふために身代わりとなつて死んだことを記念するものであるとする「象徴説」を主張して、雙方一歩も讓らなかつた。このため兩派の提携は實らず、會談は失敗に終はつてしまつた。 (半田元夫・今野國雄『キリスト教史』山川出版社)

(二)彼[カール・バルト]は、『ローマ書』といふ斬新な釋義を公にした(中略)。この著作は、 これまでの文化的プロテスタンティズムの歩みを一擧に否定するやうなものであつたので、激烈な論爭を引起こした。前述したハルナックは、「もしバルトが提示するものが學問であるならば、自分たちが久しく從事してきたやうな努力はすべて崩壞する」といふ趣旨の驚きを表明し、バルト的な解釋を全面的に否定した。バルトは、ゴーガルテン、トゥールナイゼンなどと共に、雜誌『時の間』(Zwischen den Zeiten)を發刊し(1922年以來)、論陣を張つた。/しかし、ゴーガルテンが、人間の實存の契機を彼の神學のなかに導入しようとしたことから意見が分かれ、この雜誌は廢刊になつた。(中略)さらに、理性と啓示の問題を巡るE・ブルンナーとの論爭で、ブルンナーが兩者を繋ぐ「結合點」といふ思想を發展させたのを、バルトはカトリック的思惟への逆行であると非難し、『否!』といふ論駁書を書いてブルンナーと決裂してしまつた。(高尾利數『キリスト教を知る事典』東京堂出版)

ドイツ人のルターも、スイス人のツヴィングリもバルトも、實に頑固であります。ルターはツヴィングリの事を「クリスト者と認めない」とまで言つてゐました。ツヴィングリがスイス森林地帯カトリック五州との武力戰を前に、和解を申し出たのにも應じなかつたばかりか、ツヴィングリ戰死の知らせを聞いて、 「神の審判、われらの勝利」と叫んで喜んださうです。とんでもない人ですね。しかし私は、そんなルターを實に見事な男だとも思ふのです。彼のやうな強い信念を持つ人間にしか、宗教改革の難行は達成できなかつたでせう。

バルトも喧嘩ばかりしてゐますね。カトリックといふ共通の敵がゐるのだから、プロテスタント同士でもう少し團結すればいいやうに思ふのですが、彼にはそんな妥協は許せない。仲間内の「和」が崩れようが何だらうが、己の意見を飽くまで主張しました。その頑固ゆゑにヒットラーへの忠誠を 公に拒否し、ボン大學を追はれる憂き目にも遭ひました。しかし彼のやうな男だからこそ、ナチスへの抵抗運動を支持し、ユダヤ人の救出に努力するといふ難事をやり抜くことが出來たに違ひありません。

ルターやバルトに「議論とは何か?」と問ふたならば、「勿論、相手を説得するための手段である」と答へるでせう。間違つても、「自分を變へるための手段」などとは言はない筈です。議論が「自分を變へるための手段」ならば、ルターもバルトも早々に妥協してマールブルク會談での決裂もなかつただらうし、雜誌『時の間』も廢刊にならなかつたでせう。

Eさんが「議論は相手を説得するための手段ではない」とおつしやつたのは、多分、私があんまり突つかかるのに辟易して、あへて逆説的におつしやつたのだと今は理解してゐます。しかし、日本人一般の習ひとして、議論で自分の主張を飽くまで貫く姿勢を(自分に對しても相手に對しても)好まない傾向があります。Eさんの言葉を、額面通り抵抗なく受け入れた方が多かつたのではないでせうか。 勿論、議論を續ける過程で己の誤りに氣づき、結果として「自分を變へる」事はあるでせう。しかし最初から妥協を前提にして議論に臨むといふ態度は、西洋のものではありません。極めて日本人的なものです。

ルターやバルトだけではありません。クリスト教徒は昔から、やれ「クリストは神か人か、それとも兩方か」だの、やれ「人間には自由意思があるかないか」だの、普通の日本人から見たらどうでも好いやうな議論を延々と繰り廣げてきました。議論に敗れた側は異端として彈壓もされました。それは一見不毛のやうでありますが、 皆さん御存知のやうに、このやうに物事をとことん突き詰めて考へる精神的土壌の上にこそ、近代科學が花開いたのです。

日本は明治以降、西洋近代科學の成果を積極的に取入れてきました。それを器用に使ひこなす事にも長けてゐます。しかし科學の原理にかかはる獨自の發明・發見は非常に少ないと云はれます。湯川秀樹や朝永振一郎がゐるぢやないかとおつしやるかもしれませんが、 そもそも現代物理學そのものが西洋で生まれたものであり、亂暴に言へば、湯川さんや朝永さんはその延長上で仕事をしたに過ぎない。ニュートンの古典物理學が限界を迎へた時、それを打開したのは、佛教徒でも神道信者でもなく、やはり西洋人のアインシュタインらでした。これは近代科學の蓄積の違ひだけが原因でなく、物事を突き詰めて考へる西洋の古い傳統がもたらした結果だらうと思ひます。

私は日本の宗教的傳統を尊ぶものですが、その弱點は辨へてゐるつもりです。神道には教義を巡る論爭の歴史が乏しい。これは日本人が物事を理屈立てて考へる事を好まぬ事實に對應してゐます。私は、日本人は、物事をしつこく考へて議論する西洋の流儀をもつと學ぶべきだと思ひます。鎖國時代ならいざ知らず、西洋諸國と嫌でも付合つていかなければならぬ現在、日本的な以心傳心だけでは通じないからです。 勿論、所詮は外國の流儀ですから、いくら努力しても完全には身につかないでせうけれども。

闇雲に擁護するだけなら「眞實を見拔く眼が曇る」かもしれませんが、己の弱點を辨へたうへで擁護し、眞實を見失はぬ事は可能だと思ひます。アウグスティヌスの『神の國』は徹頭徹尾、クリスト教を擁護する立場で 書かれてゐますが、不朽の名著となつてゐます。狹い學問的意味を超えた「眞實」があるからだと思ひます。 それにしても、アウグスティヌスは「世界はクリストを中心とする神の國」と云ふ、考へやうによつては森總理以上の「トンデモない」主張をしてゐるんですが、マスコミは問題にしなくて好いのですかね(笑)

「木村さんのおかげ」などと書いていただいて、こんな事を言ふのは誠に恐縮なのですが、クリスチャンの方が佛教の儀式に參加されると云ふのも、ルターやバルトの話に比べると、非常に日本的な光景ではありますまいか。

カトリックの大先達であるアウグスティヌスも不信心者は地獄に行くと言つてをりまして、Nさんの主張はにはかに信じ難いのですが…。カトリックは異端を嚴しく彈壓してきましたよね。「信じない者」への 嚴しさが内面だけに向かつたものだとは、ちよつと信じられません。異端を彈壓した過去のローマ法王は、本當のカトリックではなかつたと云ふ事なのでせうか。私は、彼等は實にクリスチャンらしいクリスチャンだつたと 思ひます。クリスト教の本質は、己の主張を貫く厳しさにあると思ふからです。信者でもない私が云ふのはをこがましいですけれども。

長文、失禮いたしました。それでは、また。

[swiss 12100] Re: 日本人的な、餘りに日本人的な: 00/06/09

木村です。なかなか引込めないやうで…。

「私は議論に臨むときは、自己の存在を賭けて行います」。そこまでおつしやるのならば、行動で示して頂きたい。私が以前から提示してゐる疑問に、一言だけでも答へて頂けませんか。「今は時間が無いから、少し待て」でも結構です。

(疑問1) > わざわざ「異端運動」なんか調べなくとも、クリスト教の本流たるカトリックこそ、
> イエスの磔、その後の迫害と云ふ「過酷な彈壓」にもめげず成長した典型例では
> ありませんか。「希な現象」だなんてとんでもない。確かにカトリックは途中から
> 權力と結びつきましたが、長い迫害にもかかはらず民衆の間に廣まつたからこそ、
> 權力側も無視出來なくなつたのです。
(疑問2) > ローマ「末期」について書かれた本をいくら讀んだつて、クリスト教が迫害を
> 耐え忍んで國教の座を勝ち取つた經緯はわかりやしません。
> すなはち、Eさんが今囘の議論で、「ローマ特殊説」の根據として
> ブラウンの本を擧げられた事は、そもそも見當外れなのです。

(疑問3)

> それから、日本の權力者はクリスト教を彈壓ばかりしてゐた譯ではありません。

> ザビエルの後に來日したヴィレラは足利義輝に布教の許しを得てゐますし、

> 織田信長も京都に教會(南蠻寺)を建てさせました。

> 秀吉も家康も最初は保護してをります。キリシタン大名もゐました。

> 當時の日本のクリスト教は「彈壓を乘越えて廣まつた」と云ふよりも、

> 「彈壓されなかつたから廣まつた」のではないでせうか。

[swiss 12101] Re: 日本人的な、餘りに日本人的な: 00/06/09

Nさん、Gさん、こんにちは。木村です。

あんまり長文になり過ぎるのを遠慮して、最後は言葉足らずになつたかもしれません。例へば日本人が、生まれた時は神社で御拂ひをしてもらひ、結婚式は教會で擧げ、葬式はお寺でやつても不思議はありませんが、ルターやバルトはもちろん、西洋の普通のクリスト教徒がそんなルーズ(良く言へば寛容)な事をやるとは思へない。チベットくんだりまでわざわざ出掛けて行く人は、積極的に佛教に關心を抱いてゐる人で あつて、決して一般的では無いと思ひます。宗教にルーズ(寛容)なのは日本人の特色だと言はれます。 Nさんが「佛教もクリスト教も同じ眞理を説いてゐる」とか、坐禪に參加されるとか、非常に寛容な事をおつしやるものですから、「たとへクリスチャンでも、日本人は日本人なのだなあ」といふ感慨を抱いたのです。

まあ、最近は西洋のクリスト教もかなり寛容になつたやうですね。ローマ法王がイスラエルで謝るくらゐですから。ただ、私はそれがクリスト教にとつて本當に正しいことなのかどうか、疑問に感じてゐます。これを説明しだすと長くなるので、又の機會に…。

では聖アウグスティヌスは嘘を吐いたと…。わかりました。もう一度調べてみます。

「自分が自分の事をどう説明するか」と「本質」とは違ふ事だと思ひます。Nさんは私の質問を避けてゐらつしやいます。「異端を彈壓した過去のローマ法王は、本當のカトリックではなかつたと云ふ事なのでせうか。」

さうですね。人によつて、まとまつた文章の形で書いた方がわかりやすいとか、文章を細切れにして逐一コメントを付けた方が好いとか、いろいろ御意見が異なるものですから、はつきり言つて頂けると助かります。私としては、全體とすれば大きく脱線はしなかつたつもりだつたのですが、 少し論點が廣がり過ぎたかもしれません。私は素人なので、ディベート方式でやる場合、具體的に指示して頂けると幸ひです。

[swiss 12111] Re: 日本人的な、餘りに日本人的な: 00/06/14

木村です。數日留守にしてをりました。

了解いたしました。深追ひはいたしません。

これ以上質問の趣旨を繰返すのはそれこそ「時間の無駄」なので止めますが、私は、クリスト教史の大局を論ずる際にわざわざ「ローマ末期」が專門の學者の著作を持ち出すEさんの論理構成に疑問を呈したのであつて、 ブラウンを「研究範圍を限定した專門バカ」と批判してゐるのではありません。

まるで私がせつかち極まりない人間のやうなおつしやりやうですが、いつたん引込めたEさんへの「囘答要求」を再び持出したのは、「議論に臨むときは、自己の存在を賭けて行ひます」と云ふ言葉に「もしや」と期待したからであります。しかし、期待は外れました。

メーリングリストなんて所詮は「遊び」なのですから、日常生活を犧牲にしてまで詳細な囘答を書けなんて非常識な事を要求した譯ではありません。只、遊ぶなら眞劍に遊びませうと言ひたかつた迄です。

オルテガの本を紹介されたので、私の好きなオルテガの言葉と、Eさんの文章を拜見してゐて思ひ出したヴィーコの批判とを最後に引いて、幕引の御挨拶に代へます。

「賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを膽に銘じてゐる。だからこそ、すぐそこまでやつて來てゐる愚劣さから逃れようと努力を續けるのであり、そしてその努力にこそ叡知があるのである。」(オルテガ『大衆の反逆』、神吉敬三譯、ちくま學藝文庫)

「今日では、眞理が學問の唯一の目的であるので、われわれは、自然については確實であるやうに見えるといふ理由で探究に努め、人間の本性については自由意志がはたらくために不確實きはまりないといふ理由で探究しようとしない。」 (ヴィーコ『學問の方法』、上村忠男・佐々木力譯、岩波文庫)

[swiss 12112] Re: 日本人的な、餘りに日本人的な: 00/06/14

こんにちは、木村です。

今囘の「神の國發言」に關する議論の火付役はNさんでして、そのNさんから「論點は何でしたつけ?」と云はれると、ガクッと來て仕舞ふのですが…。

「森喜朗氏は總理大臣に適任か」と云ふのが、最初の「論點」だつたと理解してをります。但し、この論點に關する私の主張は「わからない」であるとすでに明言してをります。理由も述べてをります。

まあ、もうすぐ衆院選ですし、暫く議論はお預けにしませうか?


【關聯投稿】 「言葉 言葉 言葉」のWord Word Word Criticism Forumより。

時計仕掛けのオレンヂ 投稿時間:00/05/22(Mon) 投稿者名:木村貴

森總理の「神の國」發言に對するマスコミの攻撃で、ぞつとしたのは朝日新聞5月18日付3面に掲載された山田紳の一齣マンガです。病院の「檢査室」で森總理と思しき人物が「頭の中身を調べる機械」を頭部に附けられ、「なんだなんだこの赤ランプは!?」とつぶやいてゐる。マンガの説明に曰く、「こんな『適性檢査機』ないかねえ…」。

ここまで來れば、總理候補者の頭の中身を機械で「改善」する事までもう一息です。ついでに國民全員に「思想矯正」を施せば、より完璧です。スタンリー・キューブリックが映畫『時計仕掛けのオレンヂ』で描いた惡夢のやうな世界を、山田紳と朝日新聞とは待望してゐる。この マンガを喜んで讀んだ日本國民も。


(メーリングリスト「スイス日本サイバーグループ(SJCG)」より。平成12年7月16日再録。8月21日「關聯投稿」追加)

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