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2004年4月27日 (火)

松原正名言集 「である」と「であるべきである」と

 これでお仕舞にしたいが、よろづ「である」と「であるべきである」との二元論は我々に無縁である。十九世紀のイギリスの詩人ウイリアム・ブレイクに、「無心の歌」と「經驗の歌」と題する二つの詩集がある。二つの詩集についてブレイクは「showing the two contrary states of the human soul」だと云つてゐる。善と惡、肉體と精神、神と人、惡魔と天使、自己と他者、自己と呪ふべき自己といつた具合に、互に對立するものの雙方をブレイクは重視する。(中略)/ブレイクは赤子の顏に神のイメイジを見る。が、同時に泣きむづかつて己れの欲求を滿足させようとする惡だくみをも看て取る。兩親が原罪を犯し、その結果生まれて來た赤子なのだから、百パーセント無邪氣である道理が無い。ブレイクに限らず、偉大な作家はしかく知的に誠實であり、二元論的であり、それゆゑ徒に「威勢のよい」事は決して書かない。(「最終講義」『月刊日本』平成12年3月號掲載)

 去る四月、當時の小渕恵三總理大臣は脳梗塞の爲倒れ、意識不明の重體に陥つた。小渕氏入院から公表までの「二十二時間の空白」を經て、會見に臨んだ青木幹雄官房長官は、「小渕氏から口頭で首相臨時代理に指名された」として、その後内閣総辭職を決定。「密室協議」で總理候補に撰ばれた森喜朗氏を首班とする新内閣が發足した。しかし、この成立過程には法的に重大な疑義が存在する。これについては、ウェブサイト「言葉 言葉 言葉」の作成者たる野嵜健秀氏が同サイトの「反近代の思想」掲示板において既に指摘してゐる。

(中略)森「首相」が誕生しましたが、あれは不法な手段で以て成立した内閣ではないですか。小渕さんは意識のない状態だが、さう云ふ總理大臣を解任して良いと云ふ規定はない筈です。

  内閣法 第9条[内閣総理大臣の臨時代理]
  内閣総理大臣に事故があるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に内閣総理大臣の職務を行う。

 勞働基準法には以下の規定があります。本人が退職の意思を示さない限り、誰かに勝手に解雇される事はありません。

  労働基準法 第19条[解雇制限]
使用者は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり療養のために休業する期間及びその後30日並びに産前後の女子が第65条[産前産後]の規定によつて休業する期間及びその後30日は、解雇してはならない。

 また、憲法には以下の規定があります。

  日本国憲法 第14条 
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。
  日本国憲法 第31条 
何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

 勞働者の權利は保護されるが、内閣總理大臣の權利は保護されない、と云ふのはをかしい。また、「政治の空白」を理由に、「法律の定める手続きによらな」いで、内閣總理大臣を解任する事は許されない。 ――もちろん、現實追隨主義者の連中に私の主張が理解出來ない事は解つてをります。しかし、今囘の不法行爲を認めるのならば、日本人に法律は要らない事も認めねばなりません。 (「現在、Yahoo!掲示板に投稿出來ず」 投稿日 : 100年4月12日<水>20時15分)

 野嵜氏が説く通りであつて、森政権の法的正當性は極めて疑はしいのである。だが「週間新潮」五月十八日號に載つた岡野加穗留明治大學元學長の談話に據れば、「ともあれ森内閣が發足した今、自民黨中樞はこの問題について”終つたことはしようがない。あへて振り返らないのが日本の習はしだ”といはんばかり」だと云ふ。大半のジャーナリズムも六月實施と云はれる解散・總選擧へと關心を移し、「今更」森内閣の法的正當性を衝く氣は無いやうである。しかし、内閣の法的正當性に關する議論がなほざりにされる日本のこの現實は、次の選擧がどうなるかと云つた事よりも、遙かに深刻な問題を孕んでゐる。

 法社會學者の川島武宜氏は、日本と西洋との法意識の相違についてこう説いてゐる。少し長いが引く(強調は木村)。

 ヨーロッパやアメリカの思想の傳統においては、法律の規範性ないし當爲性と、現實の社會生活とは常に對置され、法的過程はこの二つのもの――當爲と存在――の緊張關係の中にあるものとして觀念される。このやうな理念と現實との二元主義の考へ方は、法にのみ特有なものでなく、ヨーロッパの宗教(神と人間の絶對分離、霊と肉との相克)や道徳(カントの道徳哲學はそのもつとも典型的な表現であらう)においても基調をなしてをり、法についての二元主義の考へ方もこの思想的潮流の一つの側面でしかないやうに思はれる。このやうな二元主義においては、當爲と存在とは明確に分離對置され、規範の當爲性は確定的なものとされる。(中略)/しかし、日本には、このやうに現實と理念とを厳格に分離し對置させる二元主義の思想の傳統はない(或いは、きはめて弱い)やうに思はれる。神は人間から超絶した存在ではなく、戰場にゆく兵士は、「(神となつて)靖國神社で會はう」と誓ひあふことになつてゐた。プレスティージの高い者は死んで神になり(東照宮、東郷神社)、また「生き神樣」は種々の型態でわが國に存在してゐる。同樣に、道徳や法の當爲と、人間の精神や社會生活の現實とのあひだには、絶對的對立者のあひだの緊張關係はなく、本來的に兩者の間の妥協が豫定されてゐる。したがつて、現實への妥協は、「なしくづし」に、大した抵抗なしに行なはれる。さうして、そのやうな現實との妥協の型態こそが、「融通性のある」態度として高く評価されるのである。(『日本人の法意識』、岩波新書、43~45頁)

 『日本人の法意識』が書かれたのは昭和四十二年であるが、それから三十年以上を經た今も、正當な法的裏附け無しに總理を撰ぶと云ふ「現實への妥協」が、「『なしくづし』に、大した抵抗なしに行なはれる」事は何ら變はつてゐないし、さうした妥協が問題視されるどころか、むしろ「終つたことはしようがない。あへて振り返らないのが日本の習はしだ」とて、「高く評価される」のも同じだと云ふ事になる。それでは我々は、變はらなかつた事を、「日本の傳統が守られた」とて壽ぐべきなのか。殘念ながら否である。 松原氏の師である福田恆存氏は、かう述べてゐる。

 日本人には、理想は理想、現實は現實といふ複眼的なものの見方がなかなか身についてをりません。自分ははつきりした理想を持つてゐるといふ意識、それと同時に、現實には、しかし理想はそのまま生かせられないから、かういふ立場をとるといふ現實主義的態度、つまり態度は現實的であり、本質は理想主義であり、明らかに理想を持つてゐるといふのが、人間の本當の生き方の筈です。これは個人と國家を問はず同じ筈です。これをもつと日本人は身につけるべきだと私は思つてゐます。(「私の政治教室」、『福田恆存全集』第六卷、文藝春秋)

 二元論の勸めである。私も福田氏や松原氏と同じく、日本人は二元論的、複眼的な「ものの見方」をもつと身につけるべきだと思ふ。西洋人でない我々が、なにゆゑ西洋人の流儀を學ばねばならないか。我々が既に法治主義と云ふ西洋の制度を受入れて仕舞つたからであり、弱者は強者の流儀を學ばねば生きてゆけないからであり、同時に、ともすれば極端に振れやすい一元論の短所を補ふ爲である。松原氏は最後の講義でかう説く。「徒に威勢のよい言論に欺かれない事、早稻田大學を去るにあたり、それを私は何よりも諸君に望む。そして安直な一元論に欺かれないためには歐米の優れた作家思想家に學ぶしかない。」

 なほ、少しく補足して述べておきたい事が有る。『日本人の法意識』を書いた元東京大學名誉教授、川島武宜氏(故人)は左翼思想の持ち主であつた。保守派論客の中川八洋氏は、著書『國が亡びる』(徳間書店)において、川島氏をかう手嚴しく批判してゐる。


 川島武宜は、「民主主義は、個人の主體性を否定するやうな意味での<共同體的>な……家族を解體し、家族を主體的な個人と個人との關係とすることを要求する」と定義するが(『日本社會の家族的構成』、日本評論社、170頁)、それは個人がアトムとなる共産社會そのものではないか。夫と妻が、あるいは親と子が、そして兄弟間がそれぞれ相互に獨立して個(アトム)と化した状態、それがマルクスが理想とした共産社會である。つまり、川島の「民主主義」は、一寸の異論の餘地なく「共産主義」のことであつた。(141~142頁)

 私は、少なくも『日本人の法意識』における川島氏の現實認識は正鵠を射てゐると思ふ。しかしそれにしても、右派論客とみなされる福田氏や松原氏と、左翼の川島氏とが、日本人の精神について同じ認識(二元論の不在)を強調するとは、聊か意外に感ずる讀者が多いのではなからうか。

 川島氏のやうな左派知識人と、福田氏や松原氏との最大の違ひは、その人間觀・文化觀に有る。左翼は、日本人が西洋の流儀を身に附ける可能性について至極樂觀的である。彼等に云はせればマルクス主義は「普遍の眞理」なのだから、西洋だらうが日本だらうが、變らず通用する筈である。

 これに對し、松原氏は「安直な一元論に欺かれないためには歐米の優れた作家思想家に學ぶしかない」と述べた直後に、かう續けるのである。

 無論、いかに眞摯に學んでもそれが我々のものになる譯ではない。(中略)/文化は普遍的でないから意識して模倣し得ない。絶對者あつての「原罪意識」も、「汝の敵を愛せ」との教義も、絶對者の死が齎すニヒリズムや不條理も、我々にとつては、所詮、餘所事であつて、我々のなし得る事、なさざるを得ぬ事は、餘所事の餘所事としての理解に過ぎない。そして、さういふ「上滑り」の努力を、情けない事に、今後も我々は續けなければならない。歐米との交際を止める譯には行かず、歐米に「斷乎ノーと言へる日本」ではないからである。

 プロレタリアートを撰民と見做し、革命成就の曉に千年王國を夢見るマルクス主義も又、クリスト教拔きには成立し得なかつた西洋固有の思想である。それを安直に移植出來ると信じた日本の左派知識人は、淺薄であつたと云はざるを得ない。クリスト教の絶對的な神でなく、日光東照宮や東郷神社や靖國神社やを尊ぶのは、日本人が慣れ親しんだ生き方の流儀、すはなち文化であり、西洋舶来のものに切替へようとして切替へられるものでない。

 にもかかはらず、夏目漱石が歎いた「上滑り」の努力を我々は續けなければならない。努力する現實を虚しいと知りつつ、なほ理想を目指して努力する事。その事自體が、二元論的思考を學ぶ事なのである。
 (「月刊日本」に最終講義の内容が掲載されてゐる事を御教示くださつた野嵜健秀氏に厚く感謝します)
(平成12年5月14日。平成16年4月27日書式修正)

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