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2004年4月30日 (金)

「テクスト」大ッ嫌ひ

題名: 前田嘉則『文學の救ひ』

日時: 00/05/09 2:17:12 西ヨーロッパ (夏時間) From: kimura39@aol.com Reply-to: kotobakotobakotoba@egroups.co.jp To: kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

こんにちは、木村貴と申します。 野嵜さん、皆さん、參加が遲れて濟みませんでした。私は福田さんの著作は拾ひ讀みが多くて、お恥づかしい限りです。皆さんの議論を拜見しながら勉強してゆきたいと思ひます。

ところで、皆さんは前田嘉則さんの福田論『文學の救ひ――福田恆存の言説と行爲と――』(郁朋社、平成十一年)はもうお讀みでせうか。私は數年前に統一教會系の新聞「世界日報」で「文學の救ひ」の連載を發見し、立派な文章を載せてゐるなと感心しました。その後忘れてゐたのですが、數ヶ月前に紀伊國屋書店の通販サイトで「福田恆存」を檢索してゐて、偶然「再開」を果しました。最近、野嵜さんのサイト「言葉 言葉 言葉」でも前田さんの御名前を發見し、何だか因縁めいたものを感じて ゐます。野嵜さんは、前田さんと御交流がおありになるのでせうか?

野嵜さんが「孤獨の人、朴正煕」をベストスリーに擧げてゐらつしやいましたが、前田さんも同書をかう絶贊してゐます。

「保守派と言はれる人で韓國を論じる人は餘りゐない。韓國は日本人にとつて鬼門のやうで、どういふ形であれ、發言をすることが良くとられることが少ないからだ。殊に大東亞戰爭についての發言は、韓國の人々の自尊心を刺戟することになるから、いきほい保守派は韓國から遠ざかる。/しかし、福田恆存は、そんなことを意に介さず、「孤獨の人・朴正煕」を書いた。これが實に名文である。底邊に漂ふ哀感と切々とした文の刻みとは、痛哭する福田の胸の痛みを感じさせる。」(原文は新字新假名、但し一部正字)

「いきほい保守派は韓國から遠ざかる」中で、福田さんは「孤獨の人・朴正煕」 を書かれ、お弟子の松原正先生は「見事なり、全斗煥」を書かれたのですね。

『文學の救ひ』の著者略歴によると、前田さんの略歴は以下の通りです。「昭和三十九年二月東京都出身。昭和六十二年静岡大學人文學部卒業。その後、大韓民國の高麗大學語學堂に入學。歸國後フリーランスライターのかたはら、日能研・東進スクール・代々木ゼミナールの講師を務める。京華商業高等學校講師を経て、現在尚學館中學校・高等部教諭」

うーん、私と同い年でゐらつしやる…。

題名: 福田恆存の憲法論、國會に登場

日時: 00/05/22 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

こんにちは、木村です。福田恆存の憲法論が衆議院の憲法調査會で言及されてゐました。 發言者は參考人として呼ばれた廣島大學綜合科學助教授、村田晃嗣氏。 http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KOKUMIN/www_search?SESSION=26380&EXEID=32&RESID=1&MSIE3=0&MACIEJAV=0&MACIE=958961538

 幸い、若干まだ時間がございますので、つけ加えて、「その他」について申し上げたいと思います。

 それは、個々の憲法の条文や、あるいは憲法ができた経緯についてのお話からは少しそれるわけですけれども、憲法の表現と申しますか、あるいは憲法の奥にある精神というものについて若干申し上げたいと思います。

 これは、もう随分前にお亡くなりになりました高名な文芸評論家の福田恒存さんという人がいろいろなところで言っておられることで、私は非常に示唆に富むなと思いますので、若干御紹介して私の話を終わらせていただきますが、まず、天皇は象徴であるといったときの「象徴」という言葉についてでございます。

 長々と引用することは避けますけれども、福田恒存は、象徴ということは本当は一体何を意味するのであろうかということを言っておられるわけです。つまり、果たして生きた人間が抽象的な象徴というものになり得るのであろうかということなのでございます。

 とりわけ、国民統合の象徴というものを生身の人間に求めるというのはどういうことであろうか。つまり、日本国内には天皇制に賛成する人も天皇制に反対する人もいるわけでございまして、それを含めて、生身の人間が国民統合の象徴になるということはあり得るのであろうか。

 憲法の前に天皇の人間宣言というものがなされておりますが、一見、憲法一条の象徴天皇制と天皇の人間宣言というのは非常に論理的に結びついているように思われるけれども、福田に言わせますと、もし天皇を人間というふうに規定するのであれば、生身の人間が果たして抽象的な象徴たることはできるのだろうか。つまり、生身の人間は元首になることはできる。そして、生身の人間が元首である場合、個々の国民は、君主制に反対したり賛成したり、あるいは、個別の君主が好きであったり嫌いであったりという嗜好を持つことができる。しかし、天皇は、そのような元首ではなくて、抽象的な国の象徴というふうに規定をされ、しかも、「国民統合の象徴」というふうに規定をされている。果たして、そのことは一体どういう意味を持つのであろうかということを言っておられるわけであります。

 これは、憲法の制定のときに、政府側の松本烝治博士が、GHQの示した憲法草案の中に、この象徴、シンボルという言葉を見まして、何かしら文学の表現のようであるというので非常に反発したというふうに言われますけれども、果たして、この象徴ということをどれほど考え抜いた結果憲法は規定しているのであろうかということを、福田さんは問題提起をしておられるわけであります。

 アメリカの有名な日本史家のジョン・ダワーという人は、最近の本の中で、この象徴という言葉はスキャップ――スキャップ(SCAP)と申しますのはシュープリーム・コマンダー・オブ・ジ・アライド・パワーズの略でございまして、当時の連合国軍最高司令部でございますが、連合国軍最高司令部が象徴という日本語を与えたんです、つまりこれは、スキャップがつくった日本語という意味でスキャパニーズというものであるというふうに言っておられます。

 いずれにせよ、この象徴という文言が、果たしてどれほど深く考え抜かれた結果であるかということについては疑問のあるところであるということでございます。

 それから、もう時間がございませんので、憲法の前文についてでございますが、これも、福田は非常に示唆に富むことを言っております。これは若干引用させていただきますが、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 これも変種の命令形である事は言ふまでもありません」というふうに福田は言います。

 「それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「かう言つてお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見做す大江」、これは大江健三郎氏のことですが、「大江氏の文章感覚を私は疑ひます。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。前から読み下して来れば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。

 といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちを犯しているからです。これは後に出て来る「平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といふ一節についても言へる事です。例の座談会」、これはNHKの座談会だそうでございまして、小林直樹氏、これは憲法学者、大江健三郎氏、亡くなった京都大学の高坂正堯氏、同じく憲法学者の佐藤功氏、そして福田恒存氏の座談会で、「この虚偽、」つまり憲法前文の幾つかの想定がそもそも間違っているという「この虚偽、或は誤認」をやゆして、福田さんが、「刑法や民法の如き国内法の場合、吾々は同胞」、日本人ですが、「同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到に作る、それなのに異国人」、つまり国際社会「に対しては、すべて善意を以て日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをかしいではないかと言つた。第一、それでは他国を大人と見做し、自国を幼稚園の園児並みに扱つてくれと言つている様なもので、それを麗々しく憲法に織り込むとは、これ程の屈辱は他にありますまい。処が、小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があつて、そこに集つたグループは反ファシズムの闘争をした諸国と手を握り合つて行かうといふ気持ちだつた、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。 そもそも憲法の中に、猫の目の様に変る国際政治の現状判断を織り込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰」でありますというふうに福田さんは言っておられるわけでございます。

 つまり、憲法の前文が想定しているところの公正と信義に信頼するとか、国際社会が圧迫と偏狭を除去しようと努めているとかいう、そのような国際認識がそもそも間違っているのである、そのような間違った国際認識を前提にして憲法をつくるということはおかしいと。それに対して憲法学者の小林教授は、それは当時の国連中心主義という考えを反映しているのだというふうに反論しておられるわけですが、福田氏はさらに、そういう転変きわまりない一時の国際情勢を、憲法の、しかも条文に織り込むとは何ということかというふうに反論をしておられるわけでございます。

 私は、これは単なる言葉の遊びではなくて、非常に示唆に富むことであろうと思います。憲法の前文は、決して単なる能書きやつけ足しではございません。前文の精神にのっとって憲法そのものが規定されるべきでございまして、その憲法の前文に、今日の我々が常識的に考えて明らかにおかしいという部分があるとすれば、過ちを正すに恥ずるところはないというふうに私は考えるところでございます。  やや散漫な話で恐縮でございますが、以上でございます。(拍手)

題名: 「福田恆存の憲法論、國會に登場」の原文掲載サイトについて訂正(木村)

日時: 00/05/22 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

自分で試してみたところうまくいかないやうです。 「國會會議録檢索システム」のトップページから入り、 「福田恒存」で檢索してみてください。 http://kokkai.ndl.go.jp/


題名: 村田晃嗣氏の著作(木村)


日時: 00/05/22
TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

福田恆存さんの憲法論を今年三月九日の衆院憲法調査會で取上げた、 村田晃嗣廣島大助教授の著作二册紹介。紀伊國屋ブックウェブより。

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中公新書

米国初代国防長官フォレスタル―冷戦の闘士はなぜ自殺したのか
ISBN:4121014863
232p 18cm
中央公論新社 (1999-07-25出版)

・村田 晃嗣【著】 NDC分類:392.53 本体価:\720 J・フォレスタルはウォール街で成功を収めたのち、ナチス・ドイツがパリに無血入城した直後の1940年8月からノルマンディ上陸作戦直前の四四年五月まで海軍次官、47年9月まで海軍長官をつとめ、戦後、陸海空軍が統合されると、アメリカ初代国防長官に任命された。

40年代を通じて「国防の最前線」にあった男が国防長官になったとき担わなければならなかったのは、「安全保障国家」という、矛盾に満ちた巨大な怪物であった。

序章 自殺―ペンタゴンの殉教者 第1章 生い立ち―アイルランド系カトリックの原景 第2章 ウォール街の鬼才―財界での成功 第3章 大海軍の再建―海軍次官時代 第4章 移行期―ローズヴェルト政権からトルーマン政権へ 第5章 冷戦の始まり―反共の闘士 第6章 三軍統合―安全保障国家の青写真 第7章 ペンタゴンの迷宮―初代国防長官の苦脳 終章 フォレスタルの遺産

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大統領の挫折―カーター政権の在韓米軍撤退政策
ISBN:464104970X
320p 21cm(A5)
有斐閣 (1998-12-30出版)



・村田 晃嗣【著】
NDC分類:392.53 本体価:\3,400
カーターは、なぜ在韓米軍の「撤退」を図ったのか。
米大統領が選挙公約たる対外政策の実現に挫折する過程を、ニクソン、ブッシュの削減政策と比較・考察し、日本の安全保障にとっての意義を問う。



序章 カーターの企図と挫折
第1章 歴史的背景
第2章 「先例」―ニクソン政権による削減
第3章 撤退政策の始動
第4章 撤退政策の動揺
第5章 撤退政策からの撤退
第6章 「学習」―ブッシュ政権による削減とその中止
終章 比較と展望


題名: Re: [kotobakotobakotoba] 福田読者の世代?

日時: 00/05/26 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

木村です。Mさん、こんにちは。

『私の國語教室』は中公文庫版を持つてゐます。買つたのは十五年程前だつたでせうか。 どういふきつかけで買つたか忘れて仕舞ひました。 しかし私が正統表記で書かねばならないと思ひたつたのは、その後、松原正先生の 著作を讀んでからですね。松原先生は「正統表記の勸め」みたいな事はあまり書いて ゐらつしやらないのですが、それよりも、「松原節」とも云ふべき文章の迫力と魅力とに とりつかれました。松原先生はあの獨特の文體をどうやつて練上げられたのでせう。 師匠の福田さんの文章とはかなり違ひますよね。

ちなみに、Mさんのおつしやる通り、私が成人になつた頃はちやうど「ニュー・アカ」の 流行期でした。學生生協の本屋に浅田彰の『構造と力』とか、栗本愼一郎とか中澤新一の 本が積んでありましたつけ。私はニュー・アカは最初から何だか虫が好かなくて、ベストセラー になつた浅田彰の本も碌に讀みませんでしたが、今振返つて、やつぱり浅田さんは讀まなくても いい人だつたと、自分の直感に自信を持つたりしてゐます。彼つて、『構造と力』『逃走論』 以外に何か本書きましたつけ?


題名: 戸板康二、山本夏彦の福田評は?


日時: 00/05/26
TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

木村です。Mさんに便乘して、Kさんに質問です。

演劇評論家の戸板康二さんは、福田恆存さんの事をひどく嫌つてゐたと 云ふ話を何かで見かけた(山本夏彦さんの文章だつたか?)事があるのですが、 その邊りの事情を御存知でせうか? これは日本の演劇界における 福田さんの評價・評判と云ふ事で、Mさんの質問と結局重なると思ひます。 それから名コラムニストの山本夏彦さんは、歌舞伎の臺詞を愛し、 新劇を認めてゐませんよね。福田さんは(松原正先生も)山本さんを高く評價してゐますが、 一方、山本さんは新劇人である福田さんをどう評價してゐたのでせうか。 Kさんは御存知ですか?

Mさん、私の名前を書いていただいた後に、メールが途中で切れてゐました。 もう一度送つていただけませんか。


題名: 「テクスト」大ッ嫌ひ


日時: 00/05/27
TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

MYさん、Kさん、早速の御返事ありがたうございました。 メーリングリストの威力は凄いですね。矢野さんの本を早く讀みたいと思ひます。 福田さんが日本の傳統演劇をどう見てゐたかも知りたいと思ひます。 まづは福田さんの全集をしつかり讀み返します。

Mさん、Sさん、こんにちは。 デリダだのドゥルーズだの私には難しくて讀んだ事が無くて、濟みません。 これで終はるのも藝が無いので、また偏見を一つ。

どうも私は「テクスト」って云ふ言葉が嫌ひですね。 國文學でも、前田愛さん邊りから「テクスト」と云ふ言葉が大流行で、 私も前田さんの『都市空間のなかの文學』だの、『文學テクスト入門』だの パラパラめくつてみましたが、どうも食指が動きませんでした。 松原先生の『人間通になる讀書術』とか、『文學と政治主義』とかのはうが、 ずつと爲になると思ひましたけどね。まあ、大學教師の世界では違ふのかも 知れませんが。しかしジョージ・スタイナーも、『眞の存在』で、科學的な裝ひを 凝らした大學人による文學批評を手嚴しく攻撃してゐましたつけ。

ある時、ジェームズ・ヤッフェの探偵小説『ママ、手紙を書く』を讀んでゐたら、 こんな件が出てきて、思はず快哉を叫んだものです。スタイナーさんも讀んだら きつと喜ぶと思ひますが、如何。アメリカの大學文學部を舞臺にした殺人事件の話です。 地の文で獨白する「わたし」は、主人公の搜査官。

以下引用。(創元推理文庫より)

「あら、彼、まだなんですか? わたしも今來たところ。(中略)わたしたち昨日の 詩の朗讀會の後で派手に議論しちやつたんです。ディコンストラクショニズムと ファシズムについて。この問題をあまり突つつきまはすのは、もうお互ひうんざり なんですよ」

彼女は論爭の中身をこと細かに話してくれたが、面白くもなんともない、ばかりか、 わたしには彼女が話してゐる言葉の半分は理解不能だつた。誰か教へてくれ! ”テクスト”とはいつたいなんぞや? 今ではもう、わたしが大學時代に讀んでゐた やうには、戯曲や、詩や、小説を讀んでゐないのか?

題名: 面白い本を讀みたい

日時: 00/05/30 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

Mさん、こんにちは。 私の妙な「偏見」に反應してくださり、有難う御座います。

面白ければどっちでもいいことです。いや、何も文学でなくとも一向に構はない ではありませんか? 私はあれを文学研究=文藝批評とは思はず、文化史、思想 史の類として読んでゐます。呼称はまあ問題ぢゃありませんが。

「面白ければどつちでもいいこと」「文學でなくとも一向に構はない」とは、 おつしやる通りですね。しかしどうも、私には、同じ文藝批評にしても、 コードだのコンテクストだのインターテクステュアリティだの、判つたやうな 判らないやうな圖やら表やらが出てくる本が、福田・松原兩先生の文章と同じ くらゐ面白いとは、あんまり思へないものですから…。

まあ、折角前田愛さんの本も數册持つてゐますから、そのうち再挑戰して みます。『近代讀者の成立』は評判が良いやうで、以前讀みかけたのですが、 今は手元にありません。磯田光一さんは『永井荷風』を讀んでみたいと 思つてゐます。他に良い本があつたら紹介してください。 それでは、また。

題名: 大西巨人氏の福田恆存氏への共感

日時: 00/10/30 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

こちらでは御無沙汰してをりました。木村です。『大西巨人文撰 第2卷 途上』(みすず書房、平成8年刊)の卷末對談(聽き手は武藤康史氏)の中に、大西氏が福田恆存氏や假名遣ひの問題に言及してゐる部分があつて興味を引かれましたので、抜粋して御紹介します。大西氏は小説『神聖喜劇』の作者で1919年(大正8年)生まれ。中野重治氏らとともに日本共産黨に一時在籍しましたが、その後脱黨してゐます。なほ、以下の引用は原文のままの略字新かなです。辭書に無い字を一部平假名に改めたり、傍点を省略したり、適宜行間を空けたりしてあります。

武藤 言葉のことで申しますと、かねてから伺いたかったことの一つに、なぜ旧仮名づかいの文章を引用するとき促音、拗音は小さく書くということをなさっているのか、ということがあるのですが。

大西 あれはね……そう訊かれると困るが、そのほうが読みやすいというのがあって。促音、拗音の字を小さく書くというのは、散文の場合は感じないですけど、詩とか短歌とかいう時には、いささか妙な気がします。例えば坪野哲久の「きゃつらはむさぼるなきか若者の大いなる死を誰かつぐなふ」という日中全面戦争下の歌の「や」を小さくする時なんかに。でも、促音、拗音は小さく表記するほうが合理的なような、読みやすいような……。ところで、情けないことに、私は、今に至るもまだ新仮名と旧仮名についての定見がないんですよ。

それは、今先の「方言」を例に取ると、例えば「今日じゃなくて明日」の「なくて」を九州のほうじゃ「のうて」ちゅうですよね。「今日じゃのうて明日」と。それは新仮名づかいで書くと「のうて」でしょう。しかし旧仮名で書けば「なうて」ですよ。「なくて」の「な」が残ってるの。それでわかる。それを『神聖喜劇』なんかで大前田軍曹やらが「何何じゃのうて……」、そういう言葉をよく使うのに「のうて」と書いて、自分で書きながら、これはまったくもとのものから離れたことになると思いました。それが一つ。

それからその他、芥川龍之介なんかも書いとったが、「葉茶屋」ちゅうのは、新しい仮名で書けば、「はじゃや」で、「はぢゃや」じゃない。しかしそれは「茶屋」から来とるわけだから、そこが理論的におかしいとか何とか。そういうことをいろいろと考えとると、俳句でも「下知切れ」とか言うですね。「げぢ」ですね。ところが新仮名で書くと「げじ」で、もとのものが失われるわけよね。そういうところが、特に新仮名づかいというものについて何となく不満があるけど、一方からいいますと、そんなことを言うても、私自身が、じゃあ旧仮名をちゃんと遣えるか、書けるかということを訊かれると、完全には自信がない。「倒れる」は「たふれる」か「たうれる」か「たおれる」かというようにいろいろあるでしょう? そういう意味では新仮名でいけばまず間違えない。

これはたまたま『新日本文学』なんかでいくらか経験したことですが、自分は旧仮名でいく、歴史的仮名づかいでいくと称しとる人が、原稿なんか読むと新仮名を書いてる。それで、私もそういうことになるとみっともないなぁというふうなこともあって、仮名づかいは新仮名にする。今の拗音とか促音とかは、全体が旧仮名の場合にも小さい字にしといたほうが読みやすいという感じなんです。

(中略)

大西 私は、九州で『文化展望』をやっとったでしょう? そのころ、福田恆存、あれは旧仮名論者ですね。『文化展望』の何号だったろうか……五、六号ごろ……。まぁ原稿は尊重しますけど、全体は旧かなで行っとったんですが、その編集後記に、「福田恆存氏に旧仮名のこの雑誌を捧げる」とかいうふうな意味のことを書いてますよ。私の旧仮名への愛着、ひいて福田氏へのそのことに関する共感が、そんな後記を書かせたのですな。だからそのうちに……。どう言うたらいいか、いま言ったように自信が必ずしもないというのと、それから考えてみると今の方言の「のうて」とか何とかはあるけれども、新仮名のほうがいいというふうに……思いますね。

武藤 「いい」ですか。

大西 「いい」ちゅうのは便宜的なものでね。だけどいま言うようなそれやら、活用とか考えると変な気がしてくることもあります。だから残念ながら定見がない。情けないことですがね。言葉……そういうことに定見を持たねばいかんと思いますけれども、仮名づかいだけはどうしてもまだ……。

(木村記:大西ファンの私としては、もうひとふんばりして正假名遣で書いていただきたいですね。しかし大西さんは正直であり、屁理屈を捏ねて新かなを正當化する輩に比べれば遙かに立派であります。左翼の大西さんが「保守反動」の福田さんに「共感」を抱いたと云ふのは、ちよつと面白いと思ひました。)

題名: 林達夫と福田恆存

日時: 00/10/31 TO : kotobakotobakotoba@egroups.co.jp

「週間文春」11月2日號を讀んでゐましたら、坪内祐三さんが連載コラム「文庫本を狙へ!」で『林達夫セレクション 1』(平凡社ライブラリー)を取上げ、その中で福田恆存さんに言及していらつしやいました。大部數發行の雜誌なので既にお讀みの方もいらつしやるかもしれませんが、一部御紹介します。表記は正字正假名に改めました。

中公文庫に収められてゐた林達夫の評論集『共産主義的人間』と『歴史の暮方』は、同じく中公文庫の福田恆存の長篇評論『人間・この劇的なるもの』や『藝術とは何か』と竝んで、學生時代の私の愛讀書だつた。當時、林達夫はどちらかと言へば左の、そして福田恆存は右の言論人として世間から認知されてゐたけれど、私は、さういふ分け方とは關係なく、この二人の卓越した常識人から、物事の本質を見拔く骨法を學んだ。

(中略)

物が見えすぎるのは、批評家にとつて、時に、とてもつらいことで、戰後五年目の年に、「定めし、幕末志士の現代廉價版が、これからこの國土に輩出することであらう。といふのは、わが日本は、いまや二度目に『尊王攘夷』ないしは『尊王か攘夷か』の時代に足を踏み入れて來たやうだ」(「新しき幕明き」)と語つた彼は、その翌年『文藝春秋』に「共産主義的人間」を發表した時、進歩派の知り合ひたちから、なぜ敵の陣営を利するやうなことを書くのかと強く批判され、さらにその翌年、「平和エレジーに感動してうつとり聞き惚れる手合ひのなかには、別な瞬間には何の心の矛盾もなく壯烈な軍隊行進曲に身をふるひ立てる人間があることは、この際膽に銘じておいてよい事柄でありませう」(「妄人妄語」)と語り、以後、ジャーナリズムの中で沈默してしまふ。

「共産主義的人間」の初出時に、その「勇氣」をただ一人ほめてくれた人物が福田恆存だつた。久野収との對談集『思想のドラマトゥルギー』(平凡社ライブラリー)で林達夫は、そのことを懷かしさうに囘想してゐた。

(木村記:私は林達夫は少し讀んだ事がありますが、有名な『思想のドラマトゥルギー』は讀んでゐません。松原正先生がその知的怠惰を徹底的に批判し、自稱「激辛」評論家の佐高信が師と仰ぐ久野収の發言を讀むのが嫌だつたからです。上記のやうな面白い插話も出て來るのなら、讀んでおけば好かつたですね。福田氏の事を林氏が懷かしむ件りで、久野氏はどう反應したのでせう。「どちらかと言へば左」の林氏の「勇氣」を、「右の言論人」である福田氏が稱へ、それを林氏が「懷かしさうに囘想」すると云ふのは、好い話ですね。←何だか同じやうな文句を最近書いた氣が……)


(「言葉 言葉 言葉」の福田恆存・松原正メーリングリストより。平成12年。平成13年1月11日編輯)

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