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2004年4月30日 (金)

相對主義の限界を知れ

相對主義の限界を知れ

長いので結論から言ふと、棺光一はやはり馬鹿である。

アラン・ブルームは『アメリカン・マインドの終焉』の序論をかう書き出してゐる。

大學教授がこれは絶對に確實だと言へることがひとつある。大學に入つてくるほとんどすべての學生は、眞理は相對的だと信じてゐること、あるいはさう信じてゐる、と言ふといふこと。もしこの信念が正しいかどうかには檢証の餘地がある、といふ異論がでた場合、學生の反應は豫期に違はないものである。すなはち、學生は異論を理解しようとしないだらう。

現代流行の學問は、過去に人間が「自分たちが正しいと考へた」結果、「戰爭、迫害、奴隷、外國人嫌惡、人種差別、それに排外主義を生んだ」と教へ込む。「あるものが他のものより良い」などと考へる人間は、戰爭や人種差別を招く不屆者と云ふわけだ。成る程、半面の眞理はある。しかし、本當にそれで通せるのか。

もしアメリカ人から「天皇は野蠻な古代の遺物。日本はさつさと共和制に切り換へろ」と言はれたら、右翼は怒り狂ふであらう。私もさうだ。「天皇制度と共和制に優劣はない」と反論した後で、「全て價値は相對的だ」と口走るかもしれぬ。しかし待て。「もし君がインド在住のイギリス行政官だつたら、君の管轄下の現地人に、死亡した夫の葬式で未亡人を燒くことを許しただらうか」とブルームが問ふ時、「それはインド人の價値觀だから勝手だ」と即座に言ひ切る自信は私には無い。

或るひは、「日本人を拉致しようと核爆彈を打ち込まうと、それは北朝鮮人の價値觀から起きるのだから仕方ない」とは斷じて言へない。すなはち、相對主義にも限界があるのである。もし棺光一や讀者氏が、自分自身の價値觀を根元から否定する価値 觀もまた寛大にすべて許容する、と言ひ切るのなら、それはそれで敬意を表する。

けれども、人間は所詮「自分たちは正しい」と信じずにゐられない生き物なのだから、価値相對にどこまでも甘んじるなど、土臺無理である。絶對主義は非慘を招くかも知れず、手放しで稱へられるものでは無いが、かと言つて絶對主義から完全に逃れることも不可能である。もし棺や讀者氏が「いや、俺はそこまで極端な事は言つてゐない」と文句を付けるとしたら、その程度のものを、わざわざ「相對化」だの「相對主義」などと大仰に呼ぶべきでないのだ。「謙譲の徳」とでも言へば濟む。

讀者氏が相對主義の限界をどう考へてゐるかは、よくわからない。しかし、「言葉を相對化する」などと毎囘毎囘得意げに言ひながら、他人から攻撃された途端くどくどと自己辯護を書き連ねる棺光一が、徹底した「相對主義者」でも、相對主義の限界をわきまへた人間でも無いことはすでに明らかである。もちろん、かういふ行動を取る人間に「我執が無い」と云ふのも間違ひである。すなはち、棺は自分が言つてゐることについて深く考へた事の無い馬鹿である。

さらに、何の脈絡もなく被差別部落出身者を侮辱する言葉を吐く、品性陋劣な下種野郎でもある。「すべての言葉は相對」と達觀した筈の人間が、どういふ譯で「差別語」を吐ける? 差別は價値觀なしに有り得ない。

素晴らしき價値相對主義

品性下劣なる差別主義者にして、物事を深く考へた事のない馬鹿、棺光一は、中高生竝みの教養も無いことが判明したので、以下御報告する。

>>けれども、人間は所詮「自分たちは正しい」と信じずにゐられない生き物なのだから、

と書いた私に對し、棺はかう返答した。

>こういうことを簡単に書いてはなりません。知の弛緩ですね。酒場ではないのです。

成る程、棺光一はお得意の「價値相對主義」も、正しいと信じてはゐないわけだ。相對主義の限界を知れるに落ちるとはこの事、棺は自ら、「エセ價値相對主義者」で あることを告白いたしました。棺は、「自分は正しい」と信じずにゐられない人間の悲劇を描いた「ハムレット」も、「惡靈」も讀んだことが無いらしい。たいした「文學好き」だこと。

では、文學に造詣の深い棺先生に、ひとつ教へていただきたい。先生が野嵜氏にお書きになつた文章を下に掲げる。

>もう一つ、あなたは掛詞というのを知っていますか? 私、棺はあなたの文学セ ンスを試すために、私の出身校をさりげなく既に書いていますよ。読み返してごらんなさい。頭に血がのぼっているからのか、それとも文学的センスがないからなのか、「銀杏の木陰から笑っている」というのが分からなかったらしい。fefefefefe.....

棺先生、「あなたは掛詞といふのを知つてゐますか?」 中學生でも知つてゐる例を示さう。

「立ちわかれいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま歸り來む」

「まつ」には、「松」と「待つ」の二つの意味が掛けてある。すなはち、掛詞とは、同音異義語を利用して、一つの語(あるひは語の部分)を兩樣にはたらかせる技巧である。さて、「文學センス」豐かな棺先生が書かれた「銀杏の木陰から笑つてゐる」といふのは、一體どこが「掛詞」になつてゐるんでせうか? 同音異義語とその二つの意味を示していただきたい。ひよつとすると、先生は「胃腸大學」の御出身で、それに「銀杏」を掛けたのかしら? 胃腸大といふのは私は知らないが、きつとすごい大學なんでせう。

それにしても、この胃腸大OBは、「俺だつてイイ大學を出てるんだ」と言へば、 それが學歴コンプレックスの無い証拠になると信じてゐるらしい。おめでたい御仁だね。かういふ手合ひに限つて、同じ大學の「偏差値の高い學部」だとか、「もつとイイ大學」に強烈なコンプレックスを抱いてゐるものだ。誠に誠に笑止千萬。

人間は神にはなれぬ

私も遊戯王さんのおつしやる通りだと思ひます。

>つまり、「同じ座標系にいる人間の間では「絶対」は可」と言う事である。勿論、違う座標系の人間からの相対化はいつも可能であるのだが、同じ座標系の人間の間では、「不毛ではない」議論は可能になると言う事である。

棺光一は一般人と「違ふ座標系」に立つことにより、一般人を批判しようとした。 違ふ座標系に立てれば、それあ樂でせう。自分以外の人間は全てなで斬りにできる。 彼の口振りは、「俺は(相對主義と言ふ)魔法を知つてゐるのだ」と言ふ過剰な自信に溢れてゐました。しかし神ならぬ人間に、自分以外の人間をすべて一刀兩斷に出來る術など習得出來る筈がない。もし出來れば偉い思想家がとつくに使つてゐて、今ごろ「世界一の議論王」になつてますよ。そんな簡単なことが分からない棺はやはり馬鹿だつた。まあ、「たかがネットの掲示板。俺の屁理屈にかなふ奴などゐないだらう」と高をくくつてゐたんでせう。

ただ、相對主義の泥沼を認識させてくれた點だけは、彼を評価してもいい。かと言つて、絶對主義がいい譯でもない。雙方の均衡をどう取るかが大事だと思ふ。「忠も孝も意味が無い」と言ふのは間違ひだが、「忠は常に孝に優先する」とか、「孝は常に忠に優先する」とか考へるのも安易すぎる。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と惱んだ末に泣く泣く決斷する事が、眞に人間らしい事だと思ひます。

先生、又來るかな? もし來るなら、私が出した「掛詞」の宿題は忘れないやうに!

相對主義と言ふ名の絶對主義

小さくて漢字の正字体が読みづらいのでしたら、画数が多い字は略字体にしませう。しかし略字体でも画数の多い字はありますよ。

私は相対「主義」に対し、だれでも抱く素朴な疑問を投げかけてゐるだけなのだが、「読者」は理解できないらしい。彼はかう書いた。

>だから、すべては相対的だと言っているんじゃないか。神ならぬ人が、木村が、自分の立っている座標が何故「絶対である」と言えるのか? 神ならぬ、不可知であると言いながら、それが相対化の批判になると言うの論理の転倒。(ここで、罵声が10個ぐらい思い付いたが書く気も失せた)

相対「主義」に異を唱へることが即、絶対「主義」になるわけではない。読者は、物の考へ方には相対「主義」か絶対「主義」かの二通りしかないと信じてゐるらしい。

これでも理解できないなら、もつとくどくどと言はう。私の考へはかうだ。

世の中に「絶対」なものは存在しないかもしれない。また、現実的にも物事を相対的にとらへる事は多くの場面で大事だ。だからと言つて、「相対」に過度に肩入れしたドグマ、すなはち「相対主義」にまで走つてしまふ者(棺や読者)は、「自らも又人間である」と言ふ当然の事を忘れた「天に唾する者」であり、必ず自己矛盾に陥る。なぜなら、人間とは嫌でも、実在しないかもしれない「絶対」を信じないではいられない生き物だからだ。「相対主義」に徹しようとしても出來ないからだ。そこまで強くはないからだ。「いや俺は強い」と言ふ人間はウソをついてゐる。

自己矛盾の実例を示さう。

読者は「すべては相対的だ」と書いた。「すべて」と言ふ言葉は不用意に軽々しく使ふべきではない。それは「絶対」を信じずにいられぬ人間が使ふ言葉である。読者にお尋ねする。あなたが「すべて相対的だ」と言ふ、その「すべて」の中には、「すべては相対的だ」と言ふ主張そのものも含まれるのか?

もし含まれるとすれば、読者は、「相対主義は間違ひ」と考へる私に対し、「すべては相対的だ」と言ふ自分の考へ方の優位を主張出來なくなる。逆にもし含まれないとすれば、世の中には相対的で無い主義主張が少なくとも一つは存在することになり、「すべて」が相対的とは言へなくなる。つまり読者はかう言ひ直さなければならない。「相対主義だけが絶対に正しい」と。しかし、これこそ「絶対主義者」の発言ではないか。

「すべてのクレタ人はウソつきだ」と言ふパラドックスに深入りしすぎたギリシャの哲学者ピレータスは、夜も眠れなくなり自殺したと言ふ。

読者に質問の第一。あなたは自分のパラドックスを克服するために死ぬほど真剣に考えたか? 質問の第二。その思索の結果、いかに矛盾を解決したか? 以上、御囘答を待つ。

(棺大先生へ)

>先日すでにお答え致しております。この掲示板の管理者の方へメールで問い合わせてご覧なさい。私、棺のあなたへのご返事はそこにありますよ。

それは存じませんでした。しかし寛容を旨とする「価値相対主義者」の大先生でしたら、要点だけでも再度書いていただければ良ささうなものですのに。問ひ合はせは面倒だからしません。先生が中学生程度の古文の知識も無いことはもうわかりました。

讀めない讀者

A「あなたは自分の病気をいかに克服しましたか?」
B「重い糖尿病です」

以上のやうな會話を耳にしたら、十人が十人とも「Bは日本語が理解出來ない馬鹿だ」と確信するであらう。インターネットの世界にもかう言ふ馬鹿は存在する。次のやり取りがその實例である。

>>質問の第二。その思索の結果、いかに矛盾を解決したか?

>自己言及性の矛盾と申します。

これは私の質問に對する「讀者」の囘答である。しかも、この素晴らしい「囘答」に達する前に、「死ぬほど眞劍に考へた」らしい。もう何も言ふまい。日本語が理解出來ない馬鹿と議論はできぬ。本語を讀めない「讀者」とは、これ正しく「自己言及性の矛盾」。

野嵜さんの御忠告に從ひ、漢字は正字體に直しました。 見にくい方は拡大表示してください。

棺先生の馬脚

江戸時代の笑話を一つ。

客「御免ください。先生、ゐらつしやいますか」
先生「留守だ」
客「留守? そこにゐらつしやるぢやありませんか」
先生「うるさい。留守だと言つたら留守だ。本人が言ふ のだから間違ひ無い」

言つたそばから馬脚をあらはす滑稽な「先生」は、インターネットの世界にも存在する。他でもない、我らが棺光一先生その人である。先生は、これまで繰り返し「價値相對主義」の尊さを説いてこられた。ところが過日、こんな事をお書きになられた。

>それは私、棺も考えてみたことはあります。しかしながら、その方策を突き詰めると、とどのつまりはインターネットそのものを否定しかねない、すなわち個人主義・民主主義・価値相対主義を否定する要素を必ず含んだものとなってしまう--というのが暫定的ではあっても一つの結論として認識されました。

棺先生。私はこれまで先生のお言葉を眞に受けて、「棺先生は搖るぎなき價値相對主義者であられる」と信じてをりました。それが何とした事か、「個人主義・民主主義」などと云ふ特定の「價値」に肩入れされるとは! 先生。私は裏切られた思ひです。擧げ句の果てに、先生は私の事を、

>「ルール」「掟」を持たぬエセ集団主義と、徹底的な相対化に耐えられない脆弱なる個人主義の中間にしかいないという自覚もない。

と罵倒された。棺先生。上の先生の文章は下手糞で意味が不明確なのですが、私が「中間」だとすれば、先生は「脆弱なる個人主義」そのものに浸つてゐますね。個人主義だの民主主義だのの價値にしがみついて、「徹底的な相對化に耐へられない」のは、先生御自身ではありませんか。

それに、先生はこれまで唯の一度も、自分を批判する人間に向かつて、「あなたの 意見は、私、棺の意見と同等に價値がある」とおつしやつた事がありません。先生。本當は「俺は正しい」と言ふ絶對的な價値を捨て切れないのですね。以前、「人間は絶對を求めざるを得ない存在である」と書いた私に對し、先生は「飮屋の議論」と一喝されました。しかし先生も又、我々凡人の目を盗んで飮屋の暖簾をくぐつてゐたのですね。「絶對」と言ふ銘酒を求めて。

棺先生。先生はこの掲示板で民主主義の話をしたかつたのですか? 無理ですね。インターネットの「ルール」「掟」を守れない「エセ集團主義」のあなたに根氣強い議論は出來ないし、御自分の考へを論理的かつ簡潔に記す能力も缺けてゐますから。

魔法の杖

偉大なる棺先生。魔法使ひの不肖の弟子、木村です。先生の実証的な研究態度には本當に頭が下がります。最近発表された玉稿から、たいそう興味深かつた箇所を下に引用することをお許しください。

>以下は、1月13日(木)18時37分から 1月17日(月)07時10分26秒までのこの掲示板 および右翼共和派掲示板風景の投稿数総括です。

(・=憂国掲示板投稿。*=右翼共和派掲示板投稿)
棺光一      =・・・・・・・・・・・・・・
木村貴      =・・・
読者       =・・・・・・・・・・・・**************
(以下略)

私は深く反省致しました。もつともつと不毛な文章を綴り、次囘こそはこのランキングで上位入賞を果たさねばならぬ。しかし無理でせう。私は棺先生のやうな不屈の精神が缺けてをります。みづから不毛な文章を量産し、「見たか、インターネットのこの不毛」と開き直るなんて藝當は、羞恥心が邪魔してとてもとても…。

しかしこのグラフは、私、木村の方が先生より「我執」が少ないやうに讀み取れますが…。いやいや、そんな馬鹿なことがある筈はない。

最近、棺先生の高邁なる志を理解せず、「あんた馬鹿ぢやないの?」と言はんばかりの失禮な書き込みが増えてまゐりましたが、決して氣になさらないで下さい。先生は「價値相對主義」と云ふ魔法の杖をお持ちなのですから。

「お前の意見など一顧の値打ちも無い! 私の意見と同じやうに!」と杖を一振りしさへすれば、先生が負ける事はありません。「私の意見と同じやうに!」と云ふ呪文の後半がポイントですね。かう言つておけば、「何を偉さうに。棺め、自分だけは正しいと思つてゐるんだらう」と云ふ反撃を豫め防ぐ事が出來ますからね。實に巧妙です。頭も使はなくて濟む。

しかし歴史上の偉いと言はれる思想家たちは、何でこの魔法を使はなかつたんでせう? これさへあれば、どんな論爭にも勝てたのに。きつと全員が棺先生より馬鹿だつたに違ひありませんね。

>あなたが怠惰でさえなければ、いつでも私、棺のご返事は読むことができます。客観的な事実としては、それだけの話です。

私は怠惰な人間なものですから、御返事は當分讀む氣がありません。怠惰も勤勉も 價値は相對的なんですから、先生はゆめゆめそれを咎めたりはされないでせう?

「掛詞」ごとき單純な宿題について、先生が要点すら再掲載されないと云ふ事は、要するにお得意の屁理屈をこねて私の質問をはぐらかされたに相違ない。その程度の文章を讀む爲に、わざわざ管理人樣の手をわづらはせるのは申し譯ない。「それだけの話です」。

讀めない患者

木村と「患者」の會話。


木村「あなたは自分の病気をいかに克服しましたか?」

患者「重い糖尿病です」

木村「はあ? あなた日本語がわからないの?」

患者「君は重い糖尿病といふものを知つてゐるの?

知つてゐてそんな事を言つてゐるとしたら、

よほど勘違ひしてゐるね。

知らずにそんな事言つてゐるのだとしたら、

君には醫學に對する誠意といふ物が無いのかな? 」

木村「ちよつと、何言ひ出したの。落ち着いて」

患者「さうやつて、我執に縛られて醫學から逃避する姿ッ

て見苦しいよ。『重い糖尿病』が君、木村の疑問に

答へる鍵なんだけどね」

木村「おーい、誰か來てくれ!」

診斷書:當該患者は、擔當醫の木村が「重い糖尿病」と云ふ言葉を知らない 事に對し、怒りの餘り、突發性の怒髮天突症候群に陷つた。

處方箋:患者の知的虚榮心を滿足させる爲、「バートランド・ラッセル」 「ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン」「クルト・ゲーデル」等の ありがたい人名を神棚に載せて拝んだ後、焼いて灰を茶に混ぜて 飮ませると良い。

類似症例:以下を参照。

>君は、「自己言及性の矛盾」というものを知っているの? 知っていてそんな事を言っているとしたら、よほど勘違いしているね。 知らずにそんな事言っているのだとしたら、君には知性に対する誠意という物が 無いのかな?(以下略)



知的誠實

讀者よ、「自己矛盾命題」について詳細な御説明痛み入る。 しかし、私が最初に問うたのは、さういふ教科書に載つてゐる やうな知識自體でなく、「あなたが、いかに、矛盾を、克服したか」 と云ふ事である。

「すべては相對的である」と云ふ命題は、 (この括弧の中に書かれた陳述は偽である)と云ふ命題同樣、 大變厄介な矛盾に陥ると私は思ふ。 この矛盾を、あなたが、いかに、克服したか(あるいは克服できなかつたか) を聞いてゐるのだ。

私は、この問題は簡單に解けるやうな生易しいものではないと思ふ。 さう言ふ難問を、簡單に乗り越えたかのやうに語る讀者は、知的に誠實で 無いと私は思ふ。

高名な數學者のゲーデルですら、クレタ人のパラドックスを突き詰めたと 言はれる「不完全性定理」の論文を書き上げた時には、毎晩不眠で衰弱し 切つたと云ふ。ゲーデルは自分の頭で考へ拔いた。知的に誠實な男であつた。

讀者は、相對主義の隘路に、ゲーデル竝みの眞劍さで取り組んだであらうか。

プールの黄金

蛙の面に小便と云ふ言葉があるが、我が棺光一先生は小便どころか、己の 論理的思考能力の無さを滿天下にさらしても平氣の平左。さすが魔法の杖、 「價値相對主義」の威力は凄い。中學生竝みの教養も無い人でも無敵になれる。

よく見ると、先生の握りしめた柄の部分には 「この杖の威力だけは絶對」と云ふ御札が貼つてある。 つまり、この杖はインチキなのだが、先生御本人だけは、この杖一本槍で 「掲示板の馬鹿ども」を倒せるとまだ信じてゐるやうだ。

遊戲王氏が私にかう指摘された。

>あなたは、

>>しかし歴史上の偉いと言はれる思想家たちは、何でこの魔法を 使はなかつたんでせう?これさへあれば、どんな論爭にも勝てたのに

>と書きましたが、これは全くの見当違いです。 「魔法の杖」では絶対に勝てません。 思想家が「魔法の杖」を使ったらどうなるか? その結果は「誰にも相手にされないで終わる」です。 「勝利」も「敗北」もありません。 価値相対化を無視し、思想家は「真実の声」を唱え続けるわけです。

文章が説明臭くなると野暮だから書かなかつたが、私が言ひたかつた事は 遊戲王氏がおつしやる通りなのである。 眞摯な人間は、インチキの魔法の杖にすがるやうな阿呆な眞似はしない。

「俺より馬鹿な奴等が偉さうな事を書くのは許せない」と云ふ情けない動機で 不毛な文章を量産し續ける棺先生に、「眞實の聲」を求める尊さを説いても 無駄でせう。どうせまた魔法の杖を振り囘すに決まつてゐる。

それにしても、「俺より馬鹿な奴等が偉さうな事を書くのは許せない」と考へてゐる
御當人が一番馬鹿と云ふのも哀れな話だ。それに當人が氣づいてゐないの
だから、もはや何をか言はんや。

掲示板が棺先生みたいな馬鹿な人間と文章ばつかりだつたら、確かに不毛 そのものですね。 棺先生は、自分が公營プールでウンコをしておいて、「汚ねえ! これだから 公營プールは駄目だ」と叫んでゐるガキみたいなもんです。 本人はそれに本當に氣づいてゐないのか? もしさうなら、先生は中學生竝み どころか、幼稚園兒以下と云ふ事になる。 先生、今囘は最初と最後がお嫌いな下品な喩で御免なさい。


にやけたシシュホス

讀者から返事が来た。

>ここ一連の議論でも出てきているように、 わたしは「相対主義を超克する論理」は打ち立ち得ていません。 現在の知の地平には答えは見当たらないと思います。

であるならば、物事を眞劍に考へる人間は、「すべては相對」と安易に 言ひ切つてはならない。讀者は前言を反省せよ。言葉は注意深く使ふべし。

>ヘーゲルは「飛翔しろ」と言いますが、少々懐疑的です。 ちなみにこのヘーゲルの飛翔とは、禅宗の「竿頭一歩」と 同じ「主観的確信」であると思っております。

ヘーゲルやら道元やら私はよくわからないが、かう解釋すれば好いだらうか。

「俺の考へ方は他人から見れば間違つてゐるかも知れない。それでも俺は俺の
信ずる事をやるしかない。思ひ切つて跳ぶしかない。所詮俺は俺の頭で考へる
しかなく、全知の神では無いのだから」

かう言ふ意味なら、私も同感だ。人間、八方美人では結局何も出來ない。 跳んだ結果間違ふ事も大いに有り得る。しかし失敗もまた人生ではないか。 相對主義の大御所、棺先生は失敗しない事だけが生き甲斐のやうだが。

>しかし、この客観世界で「大變厄介な矛盾」を抱えたまま それを超克する何らかを求める作業、 このシシュフォス的作業、最近はそれこそが尊いのではないかと言う 「予想」を持ったりしております。

さう云ふ嚴しい生き方を選んだ人間の顏や文章は、苦澁に滿ちてゐなければ 嘘である。 ゼウスの怒りを買つた罰として大岩を山の頂に運ぶ作業を永遠に繰り返す時、 生身の人間であるシシュホスがにやけた顏をできる筈はない。 私が棺大先生を愚劣だと思ふのは、「不毛の荒野を我は行く」と恰好の好い 臺詞を喚く癖に、その文章が慢心し切つてゐるからである。

>しかし、棺も指摘している(と、思うのですが)ように、 先に述べた「主観的確信」と、「客観的事実」の混合がある限り、 彼の批判は起こり得ると思いますし、 政治的状況においても、こういった分別の必要性は感じます。

最後に矢張り棺先生の擁護か。 駄目な奴を駄目だと言ひ切る事は、知的誠實の初歩だぞ。

絶對恐怖症を排す

「嚴しい生き方を選んだ人間の顏や文章は、苦澁に滿ちてゐなければ 嘘である」と書いた私に對し、讀者は、

>そう言うのはわたしから言わせれば「大映テレビ的安っぽさ」だな。

と自分の價値觀を押し付けた。

「私から言はせれば」、讀者などと名乘つてゐる癖に、皮相的な讀み方 しか出來ないから困る。「苦澁に滿ち」た文章とは、芝居がかつた文章と云ふ 意味ではない。わからなければ「知的誠實のにじみ出た文章」と言ひ換へても 好い。要するに、まじめな文章かどうかと云ふ事だ。 これも慌て者の讀者が誤解するだらうから急いで付け足すと、「まじめな文章」 とは「お堅い、力み返つた文章」と云ふ意味では勿論ない。

まじめを裝ひつつ、實はにやけ切つた愚劣な文章の例を擧げやう。

>したがって、一人で戦い、一人で生き、一人で死んでいく生を是とし、 「情の共同体」を軽蔑する私、棺のような人間にあっては、 「私は貴方に対して悪意という物は持っていない事だけ追記致します。」 と書かれても書かれなくても、そういうことはどうでもよいことなのです。

「一人で戦い、一人で生き、一人で死んでいく生を是と」する御立派な 自分に酔ひしれるとは、何とも好い氣なものだと私は思ふ。 讀者はこの文章をどう評価するのか。これこそ「大映テレビ的」、あるいは 「浪花節的」ではないのか。

下に擧げるのは「文章」ではなく、我が國の傳統的定型詩である。 大袈裟な表現を使はずとも、いや、使はないからこそ作者の眞劍な態度が傳はる 日本語の好例である。掲示板と云ふ公營プールで糞尿を垂れ流し續ける、犬猫竝みの 道徳觀念しか無い某先生のふやけ切つた文章と比べて見るがいい。

病む雁の夜寒に落ちて旅寢かな 芭蕉

芋の露連山影を正しうす 蛇笏

海に出て木枯らし歸るところなし 誓子

讀者は「絶對」恐怖症に陷つてゐるらしいが、何かを信ずる心、すなはち絶對への あこがれ抜きには、美も眞實も表現することは出來ないのである。 美にも眞實にも興味が無いと云ふなら別だが。



棺・この喜劇的なるもの

棺先生の「掲示板憎し」と云ふ、甚だ雄大な思想が何に由來するのか存じませんが、 掲示板には少なくも二つの效用がありますよ。 第一に、先生のやうな論理的思考の出來ない馬鹿を徹底的にからかふ樂しみを味はへる。 第二に、皆がさういふ馬鹿の馬鹿さ加減を知ることで、馬鹿の言ふ事に惑はされなくなる。

>■プールの黄金 投稿日 1月20日(木)11時30分 投稿者 木村貴

>は、2と3の融合という「旧かな・旧字」集団ならではの2.5に分類
相対化、納棺されました。

先生は理詰めで反論する能力がないものだから、「舊かな・舊字集團」と云ふレッテル 張りがやつとこさ。さしづめ「頭の惡い人間集團」のボス猿ですね。さすが猿だけあつて、 衆人環視のインターネットで糞尿に等しい文章を垂れ流して得意になつてゐる。

>あなたや野嵜さんは、インターネット掲示板でのすれ違う批判的な 他者自体を気にしますが、私、棺はインターネット掲示板そのもの を相手にしているのです。

甘い。私は「氣にする」どころか、馬鹿な癖に不遜な人間が嫌ひで嫌ひで仕方ないので ある。それにしても先生はさすが人格者。自己正當化に滿ちた先生の文章を毎度毎度 讀まされる人達も、きつと上の言葉を信ずる事でせう。

>あなた方は、内輪の掲示板では「情の共同体」を築き、たい へん互いに親切にしながら、かつまた何とか古くて新しいものをネ ット時代にもたらせようと試行錯誤していながら、外の掲示板では あちこちでケンカをせずにはいられません。 そうやって、きょうもあしたも「旧字・旧かな」への嫌悪、いやそ れを使うあなたがたの人間性への嫌悪を人々がいだいていることも 知らずに。

質問。「あなたがたの人間性への嫌悪を人々がいだいている」と斷言する根據は? 根據を示さずに論證したつもりになる人間の事を、世間では「馬鹿」と言ふ。 馬鹿な文章を量産して、「價値相對主義」の評判をすつかり落としてしまつた事も 知らずに。

>私、棺は、そういうあなたがたのインターネット上での振る舞いは 旧字・旧仮名をリアルタイムで使っていた先祖たちへのたいへんな 冒涜であると笑うほかはありません。

馬鹿を懲らしめるケンカは御先祖様も拍手喝采。自分に都合の好い時だけ先祖を 持ち出すのは卑劣漢の證據です。棺先生は我執のままに、リッケルトやらリップス やらを引つ張り出して彼らまで馬鹿の仲間に引き入れようとしてゐるが、これこそ ドイツ哲學への冒涜でせう。よその國の先祖にまで迷惑をかけないでください。 世界の恥さらしです。

>野嵜さんや木村さんを見ていると、自我が発達し、十全なる社会的 経験をつみ、意識の発達した人間が、ゆとりある心をもって旧字・ 旧かなで遊んでみようという精神を発揮したとき以外は、やるべき でないと確信いたします。器で文章が、人間が規定されてしまって 自我に柔軟性を欠いてしまうからです。あと30年たったら、旧字 旧かなでお遊びなさい。それまでは、近所のミっちゃんとオママゴ トでもやる方がよいでしょう。それではごきげんよう。

私や野嵜さんに「ゆとりある心」を持つて「遊んで」貰はないと、御自分が馬鹿だと 言ふ事實がどんどん世間に廣まつて仕舞ひますからね。さぞお困りでせう。 しかし先生、私は「遊んで」ゐるのですよ。馬鹿の自覺が無い馬鹿をからかふほど 面白い遊びはない。 先生こそ、支離滅裂で下品な文章ばかり書いてゐると、「器で人間が規定されて」、 ますます下品で頭が惡くなりますよ。

>ところで、管理人さんにメールで問い合わせはしたのでありましょうか?

いいえ。我々二人の間の問答について、管理人樣の手を煩はせるのは忍びないので、 やりません。先生が要点だけ再説していただければ濟むことぢやありませんか。

やはり馬鹿だつた棺

投稿日 1月24日(月)03時04分 投稿者 木村貴 [spider-to083.proxy.aol.com] 削除


棺先生が「あなたがた(木村や野嵜)の人間性への嫌悪を人々がいだいて
いる」と書いたから、その根據を尋ねたら、以下のやうな御囘答を得た。
先生がここまで馬鹿とは私も豫想しなかつた。

>http://www.tcup3.com/307/nation.htmlをご覧なさい。私の予告通りに、 我執の強い野嵜さんは反撃をし、いままた八神さんが反撃しています。

先生、あなた氣は確かですか。これまで自分が何を主張して來たか忘れた のですか。眞面目な議論の根據に、いかがはしい「インターネット掲示板」 なんぞに書き込まれた「點の集合體」を持ち出すなんて。掲示板の相對的な 言葉を讀むだけで、どうして「人々」が我々を「嫌悪」してゐるかゐないか、 わかるのですか?

先生、あなたは物事を場當たり的にしか考へてないでせう。だから議論に なるとすぐボロを出す。もう物を書くのはやめたらどうですか。

馬鹿の矛盾を暴くのはこれくらゐにして、眞面目な考へを書きませう。 たとへ何十人、何百人が「嫌惡感」を示さうとも、正しいものは正しい。 たしかに右翼共和派の掲示板で野嵜さんは袋叩きにあつてゐるやうだが、 私は彼のはうが正しいと思ふ。筋が通つてゐる。

「情の共同體」とでも何とでも言ひたければ言ふがいい。さう云ふレッテル を安易に貼る人間こそ、「あいつとあいつは仲が好い」と云ふ感情でしか 物事をとらへられないのだ。

「正しいか正しくないか」で物事を判斷する態度を「論理的」と言ひ、 「好かれるか嫌はれるか」で判斷することを「感情的」と言ふ。 「人々の嫌惡感」ばかり氣にする棺先生は、骨の髄まで「感情的人間」らしい。 まつたく、「女ぢやないんだから」。

ファシスト棺

フランス革命時、ロベスピエールらはキリスト教の神に代はる 「至高存在」なるものを民主主義の「神」に祭り上げ、それを稱へる 式典を開催したといふ。現代では無色透明と信じられてゐる民主主義 だが、その背後には特定の偏つた價値觀が確實に存在する。

「無限の相對化のスパイラル」は民主主義の深刻な弱點の一つである。 すなはち、「すべての價値が相對的である」といふ民主主義の建前を 徹底すれば、民主主義そのものを否定する政治勢力が權力を握ることを 阻止出來なくなる。

民主主義的なワイマール憲法を戴くドイツはヒトラーの臺頭を防げなかった。
と言ふより、民主主義が招来した「相對主義のニヒリズム」「自由を強制
された民衆の不安」がナチズムを積極的に渇望したのである。

棺光一は執拗に「價値相對主義」の徹底を説く。それは民主主義社會に 「絶對に」必要だと言ふ。愚かである。價値相對を徹底することが民主 主義の轉覆につながるといふ矛盾に氣づかないふりをしてゐるのである。

現代の眞摯な思想家たちは、民主主義の矛盾を眞劍に惱み、何とか脱出口を
見いだそうとしてゐる。それが成功するかどうかはわからぬ。
確實に言へるのは、價値相對主義を強制するだけでは、何の光明も見えない
どころか、混亂を招くだけといふ事である。

棺は民主主義の弱點を利用して世間を混亂に陷れ、全體主義を招来させ ようとする全體主義者である。すなはちファシストである。

カルト豫備軍・棺

>したがって、感情はありません。何を書かれても、淡々とキーボードを たたき、相対化・納棺するのみです。

であれば、棺光一には羞恥心といふ感情もないわけだ。 恥知らずに何を言つても通じない筈である。 世の中に、かくも精神の歪んだ人間がゐるといふ事實を知ることが出來る だけでも、掲示板とは意義があるものだと思ふ。

>私、棺は、ここで次のような精神的傾向・特徴を、カルト集団にはまりや すい人間精神として挙げることにいたします。

  1,慌て者・軽薄・早計という精神傾向を持ち、「待つことが苦手」

    で結論を急ぐ癖がある。

  2,人に対する依存心が強い(したがって、「不満の批評」に走る)。

  3,感激屋であり、ささいなことで人に期待をかけ、信用してしまう。

  4,激情家であり、ささいなことで人に幻滅・絶望してしまう。

  5,自意識が異常に強く、被害妄想的に考えてしまうことが多い。

  6,内省能力が欠如し、時折、自分で何をやっているのかと思いながら

    それを止めることができない。

  7,発話・発語において、自制が利かない。

  8,思いこみが激しく、思いこみを出発点にして論理を展開する。

  9, 言葉遣いが高踏的で、大げさである。

  10, スローガンやパンフレットのコピー的なものが好きである。

  11, 「情の共同体」に安住する安易さを持つ。

  12, 情緒的に不安定であり、言説・行動に一貫性を欠く

  13, 本来の性格が生真面目である。

上のうち1,5,6,7,8,9,10,12は、棺自身に當てはまる。 棺はカルトにはまらぬやう氣をつけよ。

以上、棺の不毛な言説、納棺いたしました。


死ぬ時は一人で死ぬべし

棺が「提案」した下のA案とB案を、同時に、もつとも效率良く實現 する方法がある。冷笑に滿ちた文章しか書けない棺光一が掲示板から 即座に姿を消すことである。

サイトを持つてゐない人間はヒマで時間を持て餘してゐるから、サイト を持つてゐる人間は「負ける」だつて?

負けるのは頭が惡いからですよ、棺先生。
あなたと私の投稿囘數のどちらが多いか、自分で數へてグラフまで
作つたぢやないですか。
棺と木村の一對一のやり取りだけに絞つても、囘數は互角。

人を道連れにするのは見苦しい。一人で自分を納棺されよ。 人間、死ぬ時は一人で死ぬべし。

典型的日本人・棺光一

投稿日 2月6日(日)19時44分 投稿者 木村貴 [spider-to073.proxy.aol.com] 削除

>木村坊や、まだいたのですか? ここは、こどもの遊び場ではありません。 早くお帰りなさい。fefefefe...

理屈で勝てない馬鹿は、相手を「坊や」だの「少年」だのと罵るしか能が無い。 泣きながら「お前の母ちやんデベソ」と叫んでゐる子供と同じです。わかつたかな、 棺坊や? 君をからかふのは面白いから、これからも時々遊びに寄らせてね。

棺坊や、いくら「馬鹿」と批判されやうと、掲示板の言葉は相對的で不毛なのだから、 ちつとも氣にする必要は無い筈でせう? 私の言葉を不快に感じたり疎ましく思つたり するとしたら、坊やの精神はまだまだ脆弱ですね。呵々。

棺坊やよ、イサク氏の事を見直したのなら、まづ「これまで糞などと呼んで申し譯ありま せんでした」と一言謝罪してはどうか。イサク氏は眞劍に文章を書いたのだが、それに 對して棺坊やは直接答へないばかりか、「みなさんご覽なさい、言葉の花が咲いて をります」などと傲慢極まる言葉しか書けない。

すなはち、棺坊やは他人と意見を交換する際の最低限の禮儀も知らないのである。 そんな手合ひが民主主義について説教するとは笑止千萬。

さて、イサクのパパ氏はかう書いた。

>棺は間違っている。真に「少数のフィロソファー」を目指すのであれば、「似非相対主 義」に浸っている現代社会に、何故、「価値相対主義」を主張しなければならないのか。

私が棺坊やをこれまで批判してきた動機はイサク氏とほぼ同じである。 同じ内容の批判を書いても、イサク氏のやうに穩やかに書けば棺坊やは「言葉の花」と 稱贊し、私のやうにはつきり「馬鹿」と書けば「坊や」と罵倒する。 やはり棺坊やは、議論に激しい言葉を使ふのを好まない、脆弱な精神の持ち主なので ある。日本人の惡しき慣習にどつぷりつかつてゐるのである。

イサク氏が書いたやうに、棺おけ坊やは惡しき現代日本人の典型なのである。

fefefe

誠悟氏の忍耐強さに私は驚嘆する。棺先生の囘答を括目して待たう。

しかしfefefeなんて下品な言葉がインターネットの世界で普及してゐる とは知らなかつた。どの國にも馬鹿はゐるものだ。それともインター ネットをやる外人は馬鹿が多いのか。まともな英語の文章でfefefeなんて 見た事ない。 棺光一先生はそれほど英語に詳しいなら、いつその事、全部英語で 書いてもらひたい。そのはうがきつと簡潔に書けよう。ではまた。

批判的な他者より愛を込めて

頭は半人前の癖に、腹だけは一人前に立てるのは誰? 棺光一坊やです。

>>理屈で勝てない馬鹿は、相手を「坊や」だの「少年」だのと罵るしか能が無い。 泣きながら「お前の母ちやんデベソ」と叫んでゐる子供と同じです。わかつたかな、 棺坊や?

と私が書いたら、坊やは、

>文末が「棺坊や」で結ばれております。ということは、木村少年の論理構成で言えば 木村少年は、「理屈で勝てない馬鹿」ということになってしまいます(爆)。

と無い智慧を振り絞つて言ひ返してきた。 (爆)だつて。「ボクだつて理屈が言へた」と思つて、よつぽど嬉しかつたんでせう。 よかつたね、棺坊や。でも君はやつぱり馬鹿だ。

棺坊や、「逆は必ずしも眞ならず」とか「必要十分條件」とかいふ言葉知つてる?

(命題A)「理屈で勝てない馬鹿は相手を坊やと罵る。」…これが眞だからと言つて、

(命題B)「相手を坊やと罵る人間は理屈で勝てない馬鹿だ。」…が常に眞とは 言へない。

すなはち、私が棺光一を「坊や」と罵つたからと言つて、「木村は理屈で勝てない 馬鹿だ」といふ事にはならない。それを、「なってしまいます(爆)」と嬉しさうに 書く人間は、馬鹿である。

わかつたかな? これは中學か高校の數學で習ふ知識だが、棺坊やはそんな 事も知らないと見える。ここで私も(爆)と書きたいところだが、やめておかう。 そんな白癡みたいな事を書いたら、私まで馬鹿の仲間入りをすることになる。 棺坊や、私と君のどちらが「理屈で勝てない馬鹿」か、過去のやり取りを 思ひ出せばわかるでせう? 坊やが私に理屈で勝てた事は無い。お望みなら 要点を再掲載しませうか?

それから坊や、何かといふと「ROMのみなさん」「ROMのみなさん」と呼びかけ、 大衆の力にすがらうとするのは實に見苦しい。文章にわざわざ(爆)などと書く のも、「ROMの皆さん、私と一緒に木村の奴を笑ひませう!」といふ媚びの 心理がありありだ。そんな數を頼みにした行動を取る人間が「個人主義者」? 冗談は休み休みにして呉れ。

それにしても、棺坊やは他人樣の掲示板で獨演會でも開いてゐるつもり なのか。1人で7囘も8囘も連續投稿した上、さらに「今後の豫定」とは! さすが馬鹿な子供だけあつて、常識といふ物を知らない。簡潔に書く 能力が無いのだらう。 棺坊やに言ふべき事はまだあるが、常識をわきまへる私は 今囘これ以上長々と書くのは止める。 最後に一言だけ。坊やは私に感謝すべきである。 私は、棺坊やが求めてやまない「批判的な他者」そのものなのだから。

地獄で逢ひませう

投稿日 2月14日(月)02時08分 投稿者 木村貴 [spider-ta068.proxy.aol.com] 削除

私の批判に對し、棺光一先生がやつとの事で書けたのは、 以下のやうな毎度おなじみの駄文のみであつた。

>↓、ROMのみなさん、下をよくごらんなさい。これが、インターネット中毒の 我執にかられた投稿マニアたちのすがたなのです。 国を憂える者など、だれひとりとして居ず、歴史を語る者も、物語を語る者も おりません。棺に負けまい、棺に負けまいとする各投稿者の我執地獄のみがえ んえんたる不毛としてつづくのみなのです。 きょうもあしたも・・・・fefefefe (以下數行略)

簡潔な點だけは評價しませう。いつもこれくらゐの長さにしてください。 しかし具體的な反論は何も無い。頭がお弱いんだから出來る筈が無い。 「ROMのみなさん」に頼るのは見苦しいからやめろと忠告したのに、 まだやつてゐる。日頃の主張通り、少しは「批判的な他者」の意見に 耳を傾けたらどうですか?

「国を憂える者など、だれひとりとして居ず」 などと憎まれ口を叩いてゐるが、ご心配無く。 常識の無い馬鹿を明確に批判するのは、國を守る立派な第一歩です。 それによつて皆が馬鹿に騙されないやうになるし、馬鹿な言動を恥ぢ るやうになる。

天國に行つた事は無いが、人間同士がエゴをぶつけ合ふ「我執地獄」 に比べれば退屈に決まつてゐる。中でも棺先生のエゴは特大級です。 鯨のやうな「棺エゴ」がのたうち囘る姿は實に壯觀であります。 これは「我執地獄」でしか見物出來ません。

棺先生、地獄はお嫌ひですか。それなら早く逃げ出して、大好きな 「隣のミッちやん」だか誰だかと「オママゴト」でも樂しんでは? いやいや、それはやはり困る。馬鹿に長くゐてもらはないと、馬鹿を 批判して世間を啓蒙する事が出來なくなる。

棺先生、また地獄でお逢ひしませう。

ママがゐないと寂しい!

投稿日 2月15日(火)10時15分 投稿者 木村貴 [spider-to033.proxy.aol.com] 削除

棺光一君からの御返事。

>■木村右翼坊やちゃんへのご返事です。 お一人でいらっしゃい。 それとも、ママがいないとさびしいのかな。fefefefe... ごめんね。いそがしくてお相手できなくて。

豫想通り、棺君は愚にもつかぬ嫌味しか言へない。 頭が惡くて反論出來ないのだから當然である。

さて、ここで問題です。 「ママがいないとさびしいのかな」などといふ言葉が 相手に心理的打撃を與へると思ひ込んでゐる人間は、 心にどんなコンプレックスを抱いてゐるでせう?

ううむ、何だらう。これあ難問だ。ううむ、ううむ、 何となく一番上に「マ」、次に「ザ」の字が附くやうな 氣がするけれど…。

棺君、わかつたら教へてよ。

いよいよ斷末魔か

>>相手が誹謗的な発言をしてきても絶対にのっては駄目です。徹底的に無視しまし ょう。

>脆弱なる精神です。無視ではなく、何らかの関わり合いを持つことが、状況を前に 押し進めるのです。自分を守りたいから、自分が傷つきたくないからといって、身 をひいてはならないのです。納棺するという手もありますね。

…と書いた直後に、

>私、棺は、今後、いっさい棺についての誹謗中傷にはご返事をさしあげない ことといたします。

…と書いてゐる。ここから導き出される結論は以下の片方または兩方。

1、やつぱり棺光一は脆弱な精神の持ち主だつた
2、やつぱり棺光一は論理を知らぬ馬鹿だつた

納棺も禁じられた。いよいよ斷末魔か。 いや、死なないでせう。恥を知らないから。

(平成12年1月から3月にかけて「憂國掲示板」に投稿。ログを取忘れた分が多く、多くは投稿の元原稿を使用した)

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