引用にとつて美とは何か
パスカルの『パンセ』の或る譯本に、新假名遣でかう表記されてゐたとしよう。
人間は考える葦である。
正假名遣を使用する人間が、この文を引用して文章を書く時、どう表記するか。まづ「原文絶對尊重型」。
(A)パスカルが説いたやうに、「人間は考える葦」なのだとつくづく思ふ。
私は、この文章でもすでに非論理的で見苦しいと感ずるが、どうだらうか。では、カギカッコを取り拂つた形にしてみよう。
(B)パスカルが説いたやうに、人間は考える葦なのだとつくづく思ふ。
これは、明らかに見苦しい。いやいや、國語表記として明らかに誤りである。ならば、カギカッコを附けた(A)も、誤りであると云ふべきではないか。カギカッコの有無により、文章作法が決定的に異る道理も慣行も存在しないからである。
(C)パスカルが説いたやうに、「人間は考へる葦」なのだとつくづく思ふ。
(D)パスカルが説いたやうに、人間は考へる葦なのだとつくづく思ふ。
(C)ないし(D)こそが、正假名遣における「正しい引用」でなければならぬ。正假名遣を使用する人間は、國語の論理に意識的たらんと願ふ。正假名遣を使用する以上、國語の論理に背くやうな文章は書けない。引用とて例外ではない。引用した文章はもともとは他人のものだが、自分の文章の中に取込んだ瞬間に「自分の文章」となるからである。云ふまでもないが、ここでは學術論文や假名遣そのものを論ずる文章など、特殊な例は除いて考へてゐる。
(平成13年5月24日)
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