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2004年4月29日 (木)

ブルクハルトと鷗外の言葉

ヤーコプ・ブルクハルト

  「あらゆる文化の尖端にあるものは精神の驚異である言語である」――ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的諸考察』(藤田健治譯、二玄社)より

 上に引いたのはスイスのバーゼル大學教授を長く務め、ニーチェの友人でもあつた文化史家、ブルクハルトの言葉です。彼は言ひます。「言語は(中略)その中に國民がその精神生活の實體をたくはへておく最も永続的な素材である。特に偉大な詩人や思想家の場合にさうである」。
 言葉は、偉大な先達の精神から我々が學ぶための貴重な手段です。偉大な詩人、思想家の文章は一字一句が練りに練られ、深い意味と美が籠められてゐる。その精神は翻譯を通じてもある程度傳はるとは言へ、母國語で讀めれば、それ以上の歡びはありますまい。
19世紀イギリスの作家、ギッシングは『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)で、 「私がイギリスに生まれたことをありがたく思ふ多くの理由のうち、まず初めに浮かぶ理由の一つは、シェイクスピアを母國語で讀めるといふことである」
(平井正穗譯)と誇りをこめて書いてゐます。
 翻つて日本はどうでせうか。古典は多く殘つてゐるが、現代の言葉との隔たりが
必要以上に大きくなつてしまつた。明治以來の言文一致運動の一つの歸決として、
文語體が滅びてしまつた。さらに敗戰後、正統な假名遣に代り「現代假名遣い」が導
入されたうへ、漢字は使用を制限されたり、形を省略されたりしました。
我々はシェイクスピアとほぼ同時代の井原西鶴はおろか、明治の森鴎外や樋口一葉すらまともに讀めなくなろうとしてゐます。それは言葉の斷絶が一つの原因です。日本の「偉大な詩人や思想家」たちが時間をかけて美しく、合理的に磨上げてくれた言葉のかたちを守りたい。私がご覽の樣な表記で文章を書くのは、そんな思ひからなのです。

森鷗外

 「帝王は人民に羅馬(ロオマ)の公民權を與へることは出來よう、しかし新しい言語を作ることは出來ない」――森鷗外「假名遣意見」より

 オーストリア出身のノーベル經濟學賞受賞者で、哲学者でもあるフリードリッヒ・フォン・ハイエクは「自生的秩序」という概念を強調してゐます。自生的秩序とは、人間が自覺的に作り出したものではないのに、結果的に何らかの目的にかなうやうに自然に發達し、人間の社会生活に不可欠になつた制度を指します。市場經濟はその一つですが、言語もまた代表的な自生的秩序であるとハイエクは言ひます。
言語は特定の天才が發明したわけでもないのに、實にうまく出來てゐます。聖書に「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」(ヨハネ傳福音書)とあるやうに、昔の人が「言葉は神樣が作つた」と考へたのも不思議はありません。
 市場經濟に人為的な介入がなされるとしばしばその機能が狂ふやうに、言葉も人間の手でいぢくり囘されると本來の合理性を失なつてしまひます。ギリシャ語で「言葉」を意味する「ロゴス」が同時に「論理」を示す通り、言葉とは本來合理的なものです。言葉の姿をねぢ曲げれば、 様々な不合理が生じてきます。
 その典型が戰後日本に導入された「現代假名遣い」です。以下に例を擧げます。

「づ」と「ず」、「ぢ」と「じ」
 現代假名遣いでは、手綱は「たづな」なのに、絆は「きづな」でなく「きずな」と書く。両方とも「つな」から出來た言葉だが、なぜ違ふのか。
 片付く、小突くは「かたづく」「こづく」なのに、肯く、躓くは「うなづく」「つまづく」でなく、「うなずく」「つまずく」。書き分けの基準が不透明。
 「大地」は「だいち」なのに、「地震」は「じしん」。鼻血を「はなぢ」と書くのだから、「ぢしん」でいいではないか。
 「中」の字は「最中」では「ちゅう」なのに、「世界中」では「じゅう」。「曾根崎心中」では「じゅう」なのに、「心中お察しします」では「ちゅう」。同じ「中」の字を、濁れば「じ」、濁らなければ「ち」と書き分ける意味があるのか。

活用形の不合理
 歴史的仮名遣では、「書く」の未然形は「書かない」と「書かう」で、ともに「あ列」。しかし現代假名遣いでは、「書かない」「書こう」となつて「あ列」「お列」が混在し、規則正くない。「おめでたう」「ありがたう」は、現代假名遣いでは「おめでとう」「ありがとう」となり、語幹(變化しない部分)であるはずの「おめでた」の「た」、「ありがた」の「た」が、どちらも「と」に變はつてしまふ。

胡瓜、狩人、河原
 胡瓜(もともとは黄瓜または生瓜)は歴史的假名遣では「きうり」、狩人は「かりうど」と語源に忠實な表記。現代假名遣いは「きゅうり」「かりゅうど」となり、語源が不明になる。河原を「かはら」でなく、「かわら」と書くのも同じ弊害がある。

 …等々です。言葉は歴史の中で多くの先人達によつて磨かれてきたものであり、鴎外も書いてゐるやうに、皇帝と言へども勝手に變へることは出來ません。すなはち、政治による言葉への介入は越權行爲であり、言葉の生命を枯らしてしまふのです。
 經濟問題や社會問題では政治の介入を嚴しく批判する人々も、言葉への介入には甚だ鈍感の樣に見えます。しかし言葉とは人間が物事を考へる土臺であり、その土臺がぐらついたままでは、何事につけ精確で緻密な思考はできないのではないでせうか。

(エッセイ投稿のサイト、「平成つれづれ草」に「言葉について」と題して平成11年11月頃に投稿。平成12年3月5日再録)

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