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2004年4月29日 (木)

箴言集 佐藤一齋

 眞に大志有る者は、克く小物を勤め、眞に遠慮有る者は、細事を忽(ゆるがせ)にせず。――佐藤一齋
(川上正光譯注『言志四録(一)』 講談社學術文庫、53頁)

 漢文學者、原田種成氏の『私の漢文講義』(大修館書店、平成七年)は面白い本である。作家の開高健氏が、「文學」を「文を學ぶ」、「音樂」を「音を樂しむ」と誤讀した話を紹介し、原田氏はかう憤る。「日本の文學界の代表的知識人であり、しかも日本語で文章を書く作家であるのに、日本語についての素養がこれほどとは、あきれるばかりである」。
 原田先生、大分血の氣の多い方だつたやうである。序文を寄せた石川忠久氏は、「新聞へのしばしばなる警世の投書は有名だつたし、學會誌への寄稿や人の著書の誤りの指摘など、倦む所を知らない。勢ひ餘つて時に相手を傷つけ、論爭になることもあつた」と原田氏の爲人を記してゐる。殘念ながら、原田氏は、この本を結果的に遺稿集にする形で鬼籍に入つた。
 ところで、『私の漢文講義』の帶には、「漢文こそ日本の古典!」と大書されてゐる。おいおい待つて呉れ、日本の古典と云へば『源氏物語』や『枕草子』ではないのか、と訝る向きもあらう。原田氏はかう説く。

 日本人は日本語で考へる。だから日本語の語彙が貧弱であると思考力も貧弱になる。そして日本語の語彙の寶庫となつてゐるのは漢文なのである。(中略)とりわけ、漢字を學び漢文で書いてある書物によつて、社會道徳とか倫理といふものを學んだのである。

 日本人にとつて狹義の「古典」の名に値するのは、『論語』や『史記』をはじめとする支那の古典なのだ。原田氏のこの主張に、私は概ね同意する。西洋でも事情は似てゐて、イギリスで單にthe classicsと云へば、シェイクスピアやミルトンでなく、ギリシャ・ローマの文學を指す。
 さらに原田氏は、「やまとことばだけで、中國から漢語の語彙を導入しなかつたならば、日本語はアジアの片隅の發展の遲れた國の言語に過ぎなかつたであらうといはれてゐる」だとか、「創造力を養ふための糧となる文學は、やまとことばで書かれた『源氏物語』や『枕草子』の中にはない」だとか、「過激」な事も書いてゐる。だがこの一見「拜外主義」的な發言にも、我々は頷かざるを得ないであらう。これは私自身の好みだが、同じ日本の文學を朗讀するにしても、漢語漢文のリズムを生かした『徒然草』や『方丈記』の方が、『源氏物語』より氣持が好い。
 「日本文學」の範疇について、原田氏はかう異見を述べる。

 一般に日本文學と云へば、和文のものだけを對象とし、岩波の「日本古典文學大系」にも、第一期には漢文のものは全然とりあげず、日本文學としてはなはだ偏つてゐることに、われわれは不滿を禁じ得なかつた。(中略)江戸時代には伊藤仁齋、荻生徂徠、栗山潛峰、安積澹泊、佐藤一齋、頼山陽など、すぐれた大家が輩出してをり、それら當代第一流の文化人が書いた第一級の文章があるのに、江戸文學といへば、西鶴・近松・馬琴等々に限られてゐるのは、まことになげかはしいことである。

 江戸時代の儒學者に關心を持つ私も、原田氏と同じ不滿を常常抱いてゐる。さうした中で――ここで漸く最終囘の「賢者」佐藤一齋が登場するのであるが――『言志四録』は比較的入手しやすい書物である。同書はかの西郷隆盛も修養の糧にしたと云ふ。引用した項の意味は注釋する迄もないであらう。原文は「眞有大志者、克勤小物、眞有遠慮者、不忽細事」である。松原正氏も、卑近な事柄を疎かにする怠惰をきつく戒めてゐる。今年も早いものでもうすぐ三月。漠然とした「大志」「遠慮」しか持合せぬ私だが、目前の「小物」「細事」だけは一所懸命片附けてゆかねばならぬ。(平成13年2月18日)

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