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2004年4月29日 (木)

箴言集 イエス

 汝に禍ひあれ、コラジンよ、禍ひあれ、ベツサイダよ、(中略)また汝カペルナウムよ。汝は天にまであげらると信ずるか。地獄に落されん。――イエス
(新約聖書「マタイ傳福音書」第11章。村松剛『教養としてのキリスト教』 講談社現代新書、177頁より再引用)

 二十一世紀である。二千年前、ベツレヘムの馬小屋で生れた一人の男の言動は、現在に至るまで西洋人の精神に、延いては世界に、多大な影響を及ぼして來た。少なくも近い將來、その力が消え去る事はあり得ない。日本が今後も歐米と付合つてゆかねばならぬ以上、クリスト教徒でなくとも、クリスト教の精神を「教養」として學ばねばならない。
 そのやうな思ひから、今は故人となつた村松剛氏は三十五年前、『教養としてのキリスト教』を著したのであるが、我々にはどうしても誤解しがちな事柄が多い。例へば一般の日本人は、いやいや、クリスト教徒の場合ですらしばしば、クリスト教の愛は無限定な愛だと思ひ込んでゐる。或いは、思ひ込まうとしてゐる。慥かにクリスト教は愛を説く。しかし、それは峻嚴なる不寛容と背中合せである。イエスは、己が教へを聽き入れず、悔い改めようとしなかつた町々、すなはちコラジン、ベツサイダ、カペルナウムを、地獄に墮ちよと呪つたのである。
 以前、あるメーリングリストで日本人のカトリック信者と議論した時、相手が「寺に坐禪を組みに行く」と云ふので、「そんな事をして大丈夫か」と聞いたら、「私の神樣は何でも許してくださいますから」と得々とした答が返つて來て、呆れた事がある。舊約聖書で、絶對神ヤハヴェは「汝の神は嫉む神」であると恐ろしくも戒めてゐるではないか。矢張り日本は「八百萬の神」の國なのである。
 クリスト教のやうな強力な「異教」と眞劍に鬩ぎ合はなければ、日本の傳統宗教たる神道の側も又、墮落しよう。例へば、思考の不徹底な神道信者は、寛容の精神を多神教の優れた點として擧げ、「神道の精神を世界に廣げよう」と提案する。しかし考へてもみるがよい。寛容な精神は不寛容な精神から必ず攻め苛まれるし、衝突すれば、寛容を貫く限り勝ち目はない。それなら、神道の精神を「世界に廣げ」る事など出來る筈が無い。「寛容は常に徳たり得るか」と云ふ難問への答へも持ち合せず、「二十一世紀など關係ない」などと嘯いてゐるやうでは、神道の未來は無いであらう。(平成13年1月1日)

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