ジョン・リル氏に遭ふ
5月28日、私はチューリッヒ空港のゲートで、搭乘開始を待つてゐた。すると、何だか見た覺えのある顏が前をよぎつた。あ! あれはジョン・リル氏ではないか! リルと云つても上海歸りの人ではない。ベートーヴェンを彈かせたら當代一とも云はれる英國人ピアニストである。話し掛けてみようか。だが、もし人違ひだつたら。いや、あの目玉、あの禿頭。上半身がワイシャツだけなので只の親爺さんにしか見えないが、紛れもなく、ASVから出てゐるピアノソナタ全集の寫眞と同一人物である。
「失禮ですが、リルさんでせうか?」 思ひ切つて聲を掛けた。「さうだ」。私はのぼせ上がつた。「あなたのピアノ演奏、大好きです」。するとリル氏も嬉しさうな顏になつて、「有難う」と云つて呉れた。スイスで演奏會を開き、これからロンドンに歸るところだと云ふ。調子に乘つた私は「指は大丈夫ですか」と尋ねてみた。實はリル氏は一年ほど前、暴漢に財布を盜られさうになつて抵抗した際、ナイフで手を切られると云ふ、ピアニスト生命にかかはりかねない難に遭つたのである。リル氏は左手を動かしながら、「字が少し書きにくいが、演奏にはもう支障はない」と答へた。それはよかつた。
リル氏は日本での知名度はまだ低い。日本人から聲を掛けられた事が餘り無いのか、「演奏會に來たら樂屋を訪ねておいで」とか、「お前はピアノは彈かないのか」とか、打ち解けた樣子で話して呉れたのが嬉しかつた。その他にも英語でいろいろ話してゐたが、よく意味が判らなかつたのでこれ以上追及しないで欲しい。私はリル氏の人柄にすつかり惚れ込んだ。私はピアニストでも、氣取らない職人肌の演奏家が好きである。ミケランジェリやらリヒテルやら、氣難しくて神經質で、何かと云ふと演奏會をキャンセルするやうなタイプは嫌ひである。
別れ際に握手を交したリル氏の掌は、さすがピアニストらしくがつしりとしてゐた。人生、好い事もあるものだ。私はリル氏に肖り、不撓不屈のベートーヴェン魂を以て、ウェブにおける言論活動に今後も邁進する所存である。さうでなければならないか? さうでなければならぬ!(平成13年6月1日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月16日修正・再録。16年4月29日修正)
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