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2004年4月29日 (木)

文化の國境と普遍

 鈴木雅明指揮するバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ第1集(制作はスウェーデンのレコード會社、BIS)を聽く。立派な演奏である。クリスト教徒ならぬ日本人がバッハの教會カンタータを立派に演奏する事は不可解にも思へる。しかし再現藝術の場合、努力すればヨーロッパの一流演奏家に負けない演奏は可能である。

 私は日本人ヴァイオリニストの西崎崇子のファンであるが、西崎女史が彈くベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」(NAXOS版)は、歐米の音樂家に引けを取らない名演である。イギリスのペンギン・ブックスが發行するCDガイドでも最高級の評価を得てゐる。指揮の小澤征爾やピアノの内田光子やヴァイオリンの五島みどりも人によつて好き嫌ひはあらうが、世界で立派に通用してゐる。
 福田恆存氏がシェイクスピア上演に情熱を傾けたのも、日本人が演じてもシェイクスピアの魅力を傳へる事は可能であると信じたからに外ならない。演劇の場合は翻譯で原作のリズムが崩れる事は避けられないが、音樂の場合は、歌曲を原語のまま歌ふのが普通だから、發音さへ訓練すれば歐米人が原語で享受出來る一流の演奏を達成出來る望みは小さくない。演劇と異なり、體格や容貌で不利を被る部分も小さい。特に器樂曲の場合は言葉のハンディも無いのだから、外國人でも演奏は比較的たやすいと云へる。無論、生粋の歐州人でなければ體得が至難な民族的リズムや旋律はあるだらうけれども。
 しかし、假に日本に指揮のリヒターやオルガンのヴァルヒャや歌手のフィッシャーディースカウ竝のバッハの演奏家が生まれる事があるとしても、バッハと同じやうなカンタータを書ける作曲家は生まれないであらう。西洋音樂が渡來して約百年、日本の作曲家がクリスト教のカンタータを書いて世界の稱贊を浴びた事は無い。西歐の作曲家は、前衞と云はれる現代のメシアンもペンデレツキもペルトも、クリスト教を題材とした曲を書いて、評判を得てゐる。そこに紛れも無く彼我の文化の違ひがある。
 文化は民族的であると同時に普遍的であり、普遍的であると同時に民族的である。民族的なものを失つた時、普遍的な文化を生み出す力もまた死ぬのである。(平成12年10月17日)

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