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2004年4月29日 (木)

ミヒャエル・コールハースの運命

 『エリオット評論選集』(早稻田大學出版部)の譯者あとがきにおいて、臼井善隆氏はかう強調してゐる。

 アメリカや英國が[木村註:灣岸戰爭で]戰つたのは、國益のためでもあるが、畢竟、サダム・フセインの侵掠と暴虐が許せぬといふ正義感からである。彼等を動かしたのは、畢竟、得ではなく徳であつた。けれども、森鴎外が言つてゐるやうに、西洋人が「徳義の民」であるといふことくらゐ日本人にとつて理解し難いことはない。

 西洋人の「徳義」とは何か。クリスト教的信念であり、クリスト教的正義である。臼井氏によれば、英國民が灣岸戰爭への參加を強く支持するやうになつたきつかけは、英國國教會カンタベリー大司教の説教であつた。大司教は「正義の戰ひ」と題されたこの説教でかう述べたと云ふ。

 我々は皆平和を望む。けれども平和と正義とを切り離して考へては斷じてならない。人間は自らの缺點ゆゑに、或いは邪惡ゆゑに戰爭をやつたけれども、同時に徳ゆゑに――我々の正義感、善と惡の存在を信じ、善と惡を辨別する能力、他の人々のために進んで自らを犧牲にしようとする氣持ちゆゑに――戰爭をやつたのである。それが歴史の嚴しい現實である。……

 かう云ふ堂々たる發言をなし得る宗教指導者を戴く英國民を、私は正直、羨ましく思ふ。T・S・エリオットは、かかるクリスト教の文化傳統の大事を説く代表的な現代作家の一人なのである。
 私は最近、かうしたクリスト教的「徳義の民」の典型とも云へるやうな人物を描いた小説を讀み、大層感銘を受けた。ドイツのハインリヒ・フォン・クライストの中篇小説『ミヒャエル・コールハースの運命』(吉田次郎譯、岩波文庫)である。冒頭の部分だけでも、峻嚴な精神に滿ち、緊迫した作品の雰圍氣が傳はるであらう。

 ハーフェル河のほとりに十六世紀の中葉ミヒャエル・コールハースといふ博勞が住んでゐた。さる學校教師の倅で、當時の最も正しい又最も怖ろしい人物の一人であつた。この法外な男も三十歳になるまでは、善良な公民の手本として通れたことであらう。(中略)妻との間に儲けた子供達を、神を畏れながら、正直で忠實(まめ)な子になるやうにと育て上げた。その慈しみ深い行ひを、又正しい心を喜ばぬ隣人とてはなかつた。約めて云へば、もしも一つの徳行に溺れなかつたならば世は必ずや彼の思ひ出を祝福したことであらう。正義の心が、併し彼を盜賊とし人殺しとしたのであつた。

 短い中に、「正しい」「正義」と云ふ言葉が都合三度も出て來る。コールハースは貴族に馬を取上げられた擧句、妻まで失ひ、復讐の鬼と化して大盜賊となつてゆく。作中に登場する、かのマルチン・ルターが論難するやうに、コールハースの正義が普遍的な正義とは限らない。灣岸戰爭におけるアメリカやイギリスの正義が、イラクの正義や「アラブの大義」と異るのと同じである。正義は相對的だからである。「正義の心が、併し彼を盜賊とし人殺しとした」。それでも、人間は己が正義を信じ、行動せずにゐられぬ存在である。そこに人間の榮光と悲慘が存する。クライストはコールハースがいかに人間的に生きたかを、強い共感を持つて描き切つてゐる。
 殘念ながら、この名作は岩波文庫では現在品切れと思はれる。(平成13年5月10日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月16日改題・修正・再録)

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