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2004年4月29日 (木)

中島梓の讀解力

 『すっとこどっこい言語學』の中に、懷かしや、「林・アグネス論爭」に關するエッセイ(「引用だらけ、林真理子を考へる」)を發見した。弊サイトと因縁淺からぬ呉智英氏も關係する内容である。筆者の黒川氏は、「論爭」に關する中島梓女史の見解を引用し、「もつともクレバーな判断」と高く評價してゐるのだが、これには異論がある。中島女史の文章を再引用する。

 用もないのにこの論争に加わってきて、とてもしゃれたことのつもりで、アグネス・チャンさんがあくまでも子連れで仕事をしたいというのなら、講演の壇上に子供をつれてゆき、赤ちゃんが泣きだしたら叩き付けて殺せばよい、それができるならば尊敬するというようなたわごとというよりも狂人の言を弄していたきわめて「知的」であるらしい評論家(これは男性)がいたが(以下略)

 まづ、中島女史は他人を批判する時は、名指しでやるべきである。何ゆゑ、「きわめて『知的』であるらしい評論家(これは男性)」などと、ぼやかした書き方をするか。論爭の經緯を知らない讀者は、批判された人物(この場合は、實は呉智英氏)の言ひ分を自ら參照する事が極めて困難になる。その結果、大抵の讀者は、中島女史による好い加減な「要約」を鵜呑みにして仕舞ふであらう。
 中島女史はさうした「效果」を知つてか知らずか、引用箇所の直前でも、「もうひとりの急先鋒はこれまた獨身の映畫評論家の女性であった」と、これまた名指しを避けて、中野翠女史と覺しき人物を非難してゐる。自分が匿名で無責任な事を書き散らす輩には困つたものだが、相手を勝手に匿名にしたうへで非難するのも、卑怯である。或は、アンフェアである。
 呉智英氏は正確には何と云つてゐるか。當初JICCブックレット「『アグネス論爭』を讀む」に收められ、現在は『サルの正義』に收録された文章を一部引く。

 ただし、チャンの言動が横紙破りだとは、とても思へない。チャンの御都合主義的な甘つたれた寢言と、ロベスピエールの狂氣の横紙破りが一緒になるわけはない。チャンが横紙を破ると云ふのなら、中野翠が言ふやうに國會へ赤兒を連れて行くべきだし、赤兒が泣き出したら、ほんの三十年前はどこでも見られたやうに、國會の衆人環視の中で乳房を出して口に含ませるべきだ。/あるいは、私は空想する。チャンはコンサートの舞臺に赤兒を連れて登場し、赤兒が泣き出したら、赤兒を床に叩きつけて撲殺する。育兒の責任を四十億人の中で他ならぬこの<私>が負はされる不條理に、等價で對抗しようと云ふのなら、これまた等價の不條理なプロテストしかない。打ち碎かれた頭から鮮血をしたたらせる死兒を手に、一時の中斷を何事でもなかつたかのやうに、♪丘の上、ひなげしの花……とチャンが歌つたら、それこそ横紙破りだ。その時には、私は、イエスに從つたパウロのやうに、喜んでチャンに從はう。(「ブリッ子の理想主義と横紙破り」)

 中島女史は「講演の壇上」と書いてゐるが、上記引用を見れば判る通り、正しくは「コンサートの舞臺」である。これは些細な點だから好いとしよう。問題は、「赤ちゃんが泣きだしたら叩き付けて殺せばよい、それができるならば尊敬する」と云ふ中島女史による「要約」が極めて亂暴且つ不正確だと云ふ事である。呉氏は決して、「殺せばよい」などと、おぞましい事を主張してゐる譯ではない。
 もしもアグネス・チャンが、フランス革命におけるロベスピエールに匹敵するやうな「狂氣の横紙破り」を實踐したいのであれば、樂屋に子供を連れて行く程度では駄目である、國會へ子供を連れて乘込み、泣き出したら衆人監視の中で授乳するくらゐの、謂はば非常識な事をやらかさなければいけない。さらに極端な事を云へば……と云ふ文脈の中で、「コンサートの舞臺に赤兒を連れて登場し、赤兒が泣き出したら、赤兒を床に叩きつけて撲殺する」と呉氏は書いたのである。呉氏の議論において、「赤兒撲殺」は大革命におけるギロチンに相當すると云つても好いであらう。いづれにせよ、「赤兒撲殺」を呉氏自身が異常と看做してゐる事は、「狂氣」「不條理」と云つた言葉を見るだけでも判る。
 然るに、中島女史は、ロベスピエールのロの字も出さず、あたかも呉氏が單純に「うるさい子供は殺せ」と推獎したかのやうに書き、それに續けて以下のやうに見當違ひな非難を行ふのである。

 ここまでくると、ではまずその本人が自分の子供に同じ事をしてみて、いや、同じ事を他人にいわれたと仮定してみたらどうなのだとしかいいようがない。しかしこういう書くだけでも思わず手が怒りに震えてくるような非道なことを書くようなおとこは、もちろん独身であって、想像力をうごかすすべもないのである。こういう手合いは本人を壇上からたたきつけるしかないであろう。こういう男にも母親はいたのである。そしてかつてはこんな男もかわいい赤ちゃんとしてその母親に抱かれていたはずなのだ。私は自分の子供に、このような言辞を弄する事をレトリックであると思い、言われたほうの心の痛みをさえ嘲笑いかねない「知識人」にだけはなってほしくない。

 「クレバー」どころか、感情だけが勝手に暴走したやうな文章である。「想像力をうごかすすべもない」のは、中島女史の方ではないか。アグネス・チャンが、「仕事場に子供を連れて行つて何が惡い」と主張しつつ、國會には連れて行かないやうな「御都合主義」な人間だからこそ、呉氏は痛烈な皮肉として「赤兒撲殺」を持ち出したのである。全うな働く母親にそんな言ひ掛かりをつける筈がない。
 抑も、呉氏自身に「己が子供を床に叩きつけて殺す事など、まともな人間のやる事ではない」と云ふ全うな道徳感情が無ければ、「撲殺云々」を皮肉として書く事は出來ない。想像力も讀解力も無い中島女史は、呉氏の皮肉を皮肉として讀めなかつたのである。(平成13年4月26日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月16日改題・再録)

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