佐藤亞紀のナショナリズム觀
週刊文春4月12日號は、先週の企畫の續きとみられる「超法規的日本再生計畫 第三彈!!」を掲載。作家の佐藤亞紀女史が「負け犬國粹主義は不要」と題する淺はかな文章を寄せてゐる。
ナショナリズムで凝り固まつていいのは、精々人口五百萬程度の發展途上國までだ。その程度の國なら、情緒不安定なアイデンティティ亡者どもに國を乘つ取られて國際的に孤立したり、内戰や虐殺を始めたりしても、國聯が入つて終りである。國際社會にはCNNのねた以上の何物をも齎さない。
印度がイギリスから獨立した時の人口は五百萬を遙かに超えてゐた筈だが、佐藤女史の主張を當嵌めれば、當時、印度は「ナショナリズムで凝り固ま」つたりせず、おとなしく植民地のままでゐるべきだつたと云ふ事になる。また、たとへ小國でも、いつたん内戰が始れば、「國聯が入つて終り」とは限らない事は、ボスニアなどの例を見れば判る筈である。佐藤女史はさすが大國の國民だけあつて、小國を隨分と舐めてゐる。それにしても、いくら遠い國の他人事とは云へ、いやしくも人間の死を指して「CNNのねた」とは、云ひも云つたり。
ジョージ・オーウェルは「人は愛國心、民族的忠誠心の持つ壓倒的な力を認めないかぎり近代世界を正しくとらへることはできない」(「ライオンと一角獸」)と喝破したのであるが、佐藤女史は、ナショナリズムと云ふ「臭い物」に蓋をして仕舞へば、全てが片付くと愚かにも思ひ込んでゐる。肩書だけはオーウェルと同じ「作家」の佐藤女史にとつて、ナショナリズムとは何であるか。最後の箇所にかうある。
我々にはナショナル・アイデンティティの確立なぞよりはるかに大事な責任がある――富んで幸福で寛大であることだ。責任が果たせれば、アイデンティティは自づとついて來る。
「富んで幸福」である事が日本人の「責任」とは恐入る。日本人は矢張り、米が澤山取れる事だけが幸福なのである。佐藤女史は、日本人としての「アイデンティティ」を見事に確立してゐる。(平成13年4月11日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月20日改題・修正・再録)
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