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2004年4月29日 (木)

高村薫の歴史哲學

 「歴史觀を國家に決めて貰ひたい」と熱望する全體主義者は、あちこちにゐるやうである。週刊文春4月5日號特輯「腐つた日本を叩き直せ!」(ここでも威勢の好い號令が流行である)より、作家の高村薫女史の文章。

 わたくしはかういふ世紀に生きてゐて、あらためて思考の出發點としての歴史といふことを考へます。(中略)その際、個人的にはまづ滿洲事變以來の戰爭の位置づけを確定することだと思つてゐます。歴史の眞實のやうなものは、假にあつたとしても、それが偶然明らかになるのを一般の國民は當てもなく待つことはできません。歴史をかうだと位置づけるのはどこまでも國家の仕事です。

 「歴史をかうだと位置づける」のは、歴史家の仕事である。それを「どこまでも國家の仕事です」と云ひ切る高村女史は、恐るべき國家主義者である。高村女史の著作を私は一册も讀んだ事がないが、將來、國家によつてあるべき歴史觀が「位置づけ」られた曉には、高村女史は、その歴史觀に從つて舊作を全面的に書き直すのであらう。或は、如何なる根據あつてか、己が歴史觀と「あるべき歴史觀」とは必ずや一致するとの自信を抱いてゐるのであらう。
 國定教科書は教科書を國民に押附けるが、高村女史は、「歴史の眞實」を一刻も早く國家に押附けて貰ひたいらしい。どちらが恐ろしいか。云ふまでもなく、後者である。教科書の主旨に反する思想を抱く事はいくらでも可能だが、「眞實」を強制されたら逃げ場はない。
 いくら娯樂小説が本業とは云へ、かくも御粗末な「歴史哲學」を披露する人物が、現代日本では「作家」として通用するのであるか。それとも、これは全體主義者高村女史の本音なのであるか。(平成13年4月8日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月16日改題・再録)

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