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2004年4月29日 (木)

小林秀雄と柄谷行人

 小谷野敦『バカのための讀書術』(ちくま新書)には「小林秀雄の本はほとんど全て讀んではいけない」と書いてあるさうである。理由は「小林氏の評論が日本の文藝評論を非論理的にした元兇だから」。小谷野氏の本は未讀なので斷言は出來ないが、隨分と亂暴な事を云ふ。

 とは云へ、私自身、小林氏の「難解」な文章に抵抗を感じ、何となしに「アンチ小林」的な心情を抱いてゐた時期がある。坂口安吾が小林氏を批判した「教祖の文學」を讀みながら、成る程、「美しい『花』がある。『花』の美しさといふものはない」などと云ふ小林氏一流の文章は、「本當は言葉の遊びぢやないか」、「かういふ氣の利いたやうな言ひ方は好きでない」などと安吾に同意してゐたものである。
 今は安吾の云ひ分がそのまま正しいとは思はないが、それにしても、小林氏の思想にはどこか引懸かるところがある。それが何なのか、うまく云へないけれども。松原正氏は、小林氏の文章を高く評價する一人だが、「月曜評論」連載中の「保守とは何か」においては、『本居宣長』は天皇と云ふ難問を囘避してゐるから、さほど高くは買はないと書いてをられた。小林氏はなぜ天皇を囘避したのであらうか。
 『本居宣長』の第四十章以下に、當サイトでも紹介した上田秋成と宣長の論爭の話が出て來る。話の流れからも天皇論議に觸れ易い、或は觸れて貰ひたいと思ふ部分なのだが、さうした方面には發展しない。神話の問題を論じてゐる箇所なので、間接的・部分的には天皇に言及してゐる事になるのかもしれないが、物足りなさは殘る。小林氏は「抽象的な問題に興味が無い」と述べてゐるさうだが、文學者たる者、「抽象的な問題」に關心が無いとは思へない。小林氏一流の言囘しのやうな氣がするが、眞意は何なのだらうか。
 少しく脇道にそれる。最近、『日本近代文學の起源』(講談社文藝文庫)など柄谷行人氏の本を何册か讀んでゐるのだが、近代日本文學を論ずる文章に、やれフッサールだ、フーコーだ、デリダだ、メルロー=ポンティだとヨーロッパの現代思想家の名前がぞろぞろ賑やかに出て來る。西洋産の文學理論を、文化の異る日本に餘りにも安易に當て嵌め過ぎる。いやいや正確には、「理論を當て嵌める」と云ふより、ただ「箔を附ける」爲だけに引用してゐるやうにすら見える。
 川島正平氏が著書『言語過程説の研究』の中で、柄谷氏の或る文章を取上げ、「對象と眞劍に取り組む態度を輕視して、醒めた態度で、自分で作り上げたものでない、外國傳來らしい『理論』を振かざして、大上段に構へてゐる」、「小林秀雄や中村光夫には見られなかつた態度である」と手嚴しく批判してゐる。「自分で作り上げたものでない、外國傳來らしい『理論』を振かざし」た樣子は、柄谷氏の他の文章にも多かれ少なかれ露呈してゐると思ふ。
 小林秀雄氏は「自分はクリスト教が判らない、だからドストエフスキーも理解出來ない」と正直に述べたのだが、現代の文士は、外國で少し生活しただけで自分も西洋人になつたやうな氣持になるやうである。
(平成13年2月20日及び22日附「地獄の箴言 掲示板」投稿。同3月26日改訂・轉載)

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